利用者:三日月/フォークランド沖海戦
フォークランド沖海戦は第一次世界大戦中の1914年12月8日に生起した海戦。チリ沖でのコロネル沖海戦でイギリス艦隊を破ったマクシミリアン・フォン・シュペー中将率いるドイツ艦隊(以降シュペー艦隊)がフォークランド諸島攻撃を試みたが、その前日にフォークランド諸島に到着していたイギリス艦隊の迎撃を受け、1隻を除いて撃沈された。
海戦発生まで
[編集]第1次世界大戦勃発後東に向かったシュペー中将率いる装甲巡洋艦シャルンホルスト、グナイゼナウ、巡洋艦ニュルンベルクは、途中のイースター島で巡洋艦ドレスデンおよびライプツィヒを加え、1914年11月1日にチリ沖で発生したコロネル沖海戦でイギリス艦隊と交戦して装甲巡洋艦モンマスとグッド・ホープを沈めた。
コロネル沖海戦後、新たに第一海軍卿に就任したジョン・アーバスノット・フィッシャーは巡洋戦艦インヴィンシブルとインフレキシブルの南大西洋への派遣を命じた[1]。そしてその指揮官にはダブトン・スターディー中将が任命された[1]。スターディー中将はインヴィンシブルに将旗を掲げ、2隻は11月11日にデヴォンポートから出航した[2]。11月17日にサン・ヴィセンテ島に寄港して石炭を補給し[3]、11月26日にブラジル沖のアブロルホス礁に到着[2]。そこには2隻の他に装甲巡洋艦コーンウォール、ケント、カーナヴォン、軽巡洋艦ブリストル、グラスゴーが集結し、それらは11月28日にフォークランド諸島へ向け出発した[2]。
シュペー中将はコロネル沖海戦後、本国との通信などのためシャルンホルスト、グナイゼナウ、ニュルンベルクの3隻を率いてヴァルパライソに入港した[4]。3隻だけなのは国際法の規定により中立国であるチリの港には同時に3隻までしか入港できないためである[5]。残りのライプツィヒとドレスデンはマサティエラ島に向かい[4]、シャルンホルスト、グナイゼナウ、ニュルンベルクも11月6日にそこに到着した[1]。以後4日間は給炭作業に費やされた[1]。2隻がコロネル沖海戦で沈んだとの噂を打ち消すためシュペー中将はライプツィヒとドレスデンをヴァルパライソへ向かわせ、残りの3隻も11月15日にマサティエラ島を離れた[6]。このときシュペー艦隊には補給用の石炭を積んだ2隻の船BadenとSanta Isabelも同行していた[6]。ライプツィヒ、ドレスデンとは11月18日に合流し、11月21日にペナス湾に投錨[1]。そこで5日間補給作業を行い[7]、
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Gary Staff, Battle on the Seven Seas: German Cruiser Battles 1914-1918, Pen & Sword Maritime, 2011, ISBN 978-1-84884-182-6
- Keith Yates, Graf Spee's Raiders: Challenge to the Royal Navy, 1914-1915, Naval Institute Press, 1995, ISBN 1-55750-977-8