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利用者:三須純平/sandbox

村上正雄

1898年(明治31年) 4月5日、東京都千代田区永田町生まれ、父・萬助(宮内省ー内匠寮<たくみ寮>勤務、建設設計士)、母・せき、5人兄弟の長男。慶應大學理財科卒業、大正15年フランス留学、ソルボンヌ大学にてフランス民族史専攻、昭和4年6月讀賣新聞入社、昭和13年婦人部部長、昭和16年4月讀賣新聞経営の静岡新報社取締役兼編集局長、12月静岡新聞社専務取締役兼編集総務就任、昭和17年9月讀賣新聞本社復帰、部長待遇、昭和18年1月副理事、讀賣新聞本社在勤13年8ヶ月。インドネシアのセラム新聞社長として赴任する折、昭和18年1月23日夜、敵潜水艦の攻撃を受け、スラウェシ州南岸サラヤル水道東方12km付近にて沈没、戦死(44歳)。


残存している著作物、「科学知識 何でも聞きたがる子供への答」実業之日本社1926、「ピーターパン訳」春秋社1927、「こんな物が金になる」讀賣新聞社便利部 八重洲書房1936、「商品読本」讀賣新聞社便利部編 力之日本社1937、静岡新報社連載コラム「富士颪(ふじおろし)」全287作品1941-42


配偶者、志久、長女・眞呂、次女・しま