利用者:下北ソフィア/自民党の派閥
歴史
[編集]戦後、保守政党は離合集散を繰り返しながら激しく争ったものの、最終的に旧自由党と旧民主党による保守合同(1955年12月)を経て自由民主党が結成された。これは社会党再統一を経た革新陣営に対抗する必要があり、仕掛け人である三木武吉も「10年持てば」と言ったように、解党・分裂が十分にありえた。将来に備えて旧党派の基盤・人的結合を温存しようと、旧自由党・旧民主党やそれ以前の人脈をベースに経歴・信条・政策などにおいて比較的近い議員が集まることで形成されたのが自由民主党の派閥におけるルーツである。
そして、1956年12月の総裁選挙をきっかけに八派閥(通称は「8個師団」であるものの、石橋派は他派より規模が小さかったため「7個師団1個旅団」と呼ばれたこともあった)が組織され、やがて五大派閥(十日会系の福田派・木曜研究会系の田中派・宏池会系の大平派・春秋会系の中曽根派・政策研究会系の三木派)に収束していった(三角大福もしくは三角大福中も参照)[1]。
各派閥の系列における特徴としてはタカ派色のある十日会系とハト派色のある木曜研究会系が伝統的な二大勢力となっている。ただし、十日会系も財政出動による景気拡大を推進してきた過去を持つなど、多彩な特徴がある。なお、いずれも鳩山一郎・吉田茂という源流をそれぞれ軸に発足しているものの、二系列を完成させたといえる岸信介・佐藤栄作は実の兄弟である。宏池会系は「公家集団」による名門であるものの、要所要所では潤滑油的な働きをした影の薄い役回りとなっている。春秋会系は挙党態勢を志向してきた歴史があり、政策研究会系は独自路線を志向してきた歴史がある。小派閥の離合集散が必要以上に繰り返された理由は、春秋会系の河野一郎・中曽根康弘・渡辺美智雄などといった面々の支持・被支持を巡り巧みな自由民主党内遊泳が求められたためである。かつては、旧自由党系・軽武装路線の保守本流と、旧民主党系・自主防衛路線の保守傍流という区分が、宏池会を中心に唱えられた時期もあったが、近年こうした区別は意味をなさなくなっており、各派閥の系列(十日会系・木曜研究会系・宏池会系・春秋会系・政策研究会系)で捉えた方が実態に即している[2][3]。
派閥の変遷
[編集]×は断絶、()は離脱、「」は正式名称、【 】は現存する通称である。
- 旧自由党系
- 旧民主党系
- 旧保守新党
- 旧のぞみ・旧無派閥連絡会
- 無派閥
また、芦田派・大麻派・北村派・広川派などの小派閥も存在した。さらに、砂田重政・賀屋興宣・一万田尚登なども派閥形成を試みている。
- ^ 塩田潮 (2014年4月5日). “自民党は決して一枚岩ではない | 塩田潮の政治Live!”. 東洋経済オンライン. 2019年1月13日閲覧。
- ^ 杉本康士 (2013年1月26日). “保守本流の外交とは何か”. 産経新聞 2019年1月13日閲覧。
- ^ 松本浩史 (2014年6月17日). “色あせた「保守本流」、現実は「安倍カラー」一色”. 産経新聞 2019年1月13日閲覧。