利用者:中村明裕/富士谷成章

富士谷 成章(ふじたに なりあきら、元文3年(1738年) - 安永8年10月2日1779年11月9日))は、江戸時代中期の国学者日本語学者。日本で初めて品詞の本格的な分類に取り組んだ。

品詞分類[編集]

富士谷はを以下のように分類した。

品詞 文法的機能 対応する学校文法の品詞
名(な) 物をことわる 名詞体言
装(よそひ) 事をさだむ 動詞形容詞形容動詞用言
挿頭(かざし) ことばをたすく 副詞接続詞感動詞連体詞副用言)・接頭辞
脚結(あゆひ) 助詞助動詞付属語)・接尾辞

富士谷の品詞分類が最初に示されたのはその著書『かざし抄』(1767年)である。本書を含め富士谷の著作は弟子の口述筆記の体裁を取っているが、その実は富士谷が自ら書いたものである。ここでは「かざし」「よそひ」「あゆひ」の三つの「くらゐ」(=品詞)を定めている。「な」(=名詞)をその内に入れていない[1]:

ことはにみつのくらゐをさたむ。ひとつにはかさし。二にはよそひ。みつにはあゆひなり。ものゝ名をは。このみつのうちにいれす。

—『かざし抄』上、二オ

富士谷は後の『あゆひ抄』(1773年成立、1778年刊行)で、「な」を「くらゐ」(=品詞)の一つとして認める。このように後から加えられたものであるため、他の品詞は「かざし」「よそひ」「あゆひ」と、被服になぞらえているにもかかわらず、「名」のみは「」というそのままの名称になっているのである:

師曰.名をもて物をことわり.裝をもて事をさため.插頭脚結をもてことはをたすく.

—『あゆひ抄』一、一オ

富士谷以前にもある種の語に名前をつける試みはなされてきた。たとえば『無言抄』や『和字正濫鈔』では「体の言」「用の言」などの名称が用いられている。しかし、全ての語を網羅的に分類したのはこの『あゆひ抄』が最初である。したがって『あゆひ抄』が日本語の品詞分類の最初のものと認めることができる。

日本語の品詞分解の実例を示したのも富士谷が最初である[2]

かくしつゝ とにもかくにも なからへ やちよ あふ よし もかな
いつ とても なき ものを わきて よひ めつらしき
  • 『かざし抄』上、四オ

「あゆひ」の分類[編集]

富士谷は「あゆひ」(助詞・助動詞・接尾辞)を次のように分類した。

今あゆひの心をとかむとするにまついつゝのまきをわかちしるへし.たくひにすふへきいつゝ.家にあつむへき十あまりこゝのつ.ともによるへきむつ.身にたとふへき十あまり二.つらにつらぬへきやつなり.たくひはその心をとりてすへたり.家はそのたくひをえらひてあつめたり.此二まきのあゆひはたゝちに名をもうくへきかきり也.ともは其ことわりをもてよせたり.身は其立ゐすへきをたと〓たり.つらは此ふたつに似て立ゐさるをつらねたり.この三まきは名をうくへからぬかきりなり.

—『あゆひ抄』一、三オ

これを表にすると次のようになろう。

分類 「名」(体言)を承けるか 分類の方法 学校文法における対応する分類
属(たぐひ) 承ける(たゝちに名をもうくへきかきり) 意味上一括する(その心をとりてすへたり) 助詞
家(いへ) 属に準じるもの(そのたくひをえらひてあつめたり)
倫(とも) 承けない(名をうくへからぬかきりなり) 意味上一括する(其ことわりをもてよせたり) 助動詞
身(み) 倫同様活用する(其立ゐすへきをたと〓たり)
隊(つら) 倫、身に似て活用しない(此ふたつに似て立ゐさるをつらねたり) 接尾辞

つまり

活用研究[編集]

日本語の用言の活用表を最初に一応の形にしたのも富士谷である。『あゆひ抄』の中で「装図」(よそひのかたがき)として示されたものである。








           
      靡引
   
    やえ とち ほは なね
             
                           
                           


















  • 『あゆひ抄』一、九ウ~十オ

これによれば装(よそひ・用言)は事(こと)と状(さま)とに大別される。状は在(ありさま・形容動詞)芝(しさま・ク活用形容詞)鋪(しきさま・シク活用形容詞)に、事は孔(ありな・ラ変動詞)と狭義の事(こと・ラ変以外の動詞)に分けられる。

この表は今日の学校文法でいうナ行変格活用を除くすべての活用を網羅している。タリ活用形容動詞もないが、在の一種として見ることができる。

活用形を学校文法の活用形の名に当てはめると次のようになる。

活用形 対応する学校文法の活用形
本(もと) 語幹・終止形(「居」「来」「為」「寝」「得」)
末(すゑ) 終止形・連体形(四段動詞および「居」)
引(ひき) 連体形(接辞「る」のないもの・四段動詞や「居」以外)
靡(なびき) 連体形(接辞「る」のあるもの)
徃(きしかた) 連用形
目(めのまへ) 命令形・已然形(四段動詞、ラ変動詞、形容動詞)
来(あらまし) 未然形
靡伏(なびきふし) 已然形(四段動詞、ラ変動詞、形容動詞・形容詞以外)
伏目(ふしめのまへ) 形容詞の已然形
立本(たちもと) カリ活用形容動詞の語幹

言語の変遷についての研究[編集]

富士谷は言語の変遷についても言及している。

開闢より光仁天皇の御世まてをおしなへて上つ世といふ。其後より花山院御世まて二百五年を中むかしといふ。後白河院御世まて百七十二年を中ころといふ。四条院御世まて八十四年を近むかしといふ。後花園院御世まて二百二十二年ををとつよといふ。其のちを今の世とす。

—『あゆひ抄』一、十三ウ

まとめると次のようになろう。

時代 定義 西暦
上つ世 開闢より光仁天皇の御世まで ~781
中むかし 花山院御世まで ~986
中ころ 後白河院御世まで ~1158
近むかし 四条院御世まで ~1242
をとつよ 後花園院御世まで ~1464
今の世 其後

言語の変遷への深い洞察のためであろうか、当時の文語崇拝、口語蔑視に対しても富士谷は次のように批判している。

すへて里言をつくれは事あさくなるやうなりとてきらふは、かけをおそれけむ人のたくひなり[3]

(すべて口語訳をあてると浅薄になるようだと言って嫌うのは、影を恐れるようなタイプの人である。)

—『あゆひ抄』二、十オ

その他の業績[編集]

「お」と「を」の所属[編集]

富士谷は『あゆひ抄』の「たてぬき」(五十音図)で「お」をア行、「を」をワ行に置き、次のように述べている。これ以前、たとえば契沖は「お」をワ行に、「を」をア行に入れていた。

世にたてぬきのことわりをしらぬ人.あたてのおもしをわたてにおき.わたてのをもしをあたてにおくはあやまれり.

(世の中で五十音の構造を知らない人が、ア行の「お」の文字をワ行に置き、ワ行の「を」の文字をア行に置くのは誤っている。)

—『あゆひ抄』一、十三オ

ただしその理由は細かく述べられていない。その詳しい説明は本居宣長の『字音仮字用格』(1776年刊)になって初めて現れる。そのため、一般には「お」と「を」の所属を正したのは宣長であるとされる。

語義・用法の記述[編集]

『かざし抄』では「かざし」について、『あゆひ抄』では「あゆひ」について、語義・用法を記述し、優れた口語訳を行った。

評価と後世への影響[編集]

富士谷の業績は、山田孝雄がこれに注目するまで、あまり世間の注目を集めなかった。その理由はしばしば、用語の難解さのためであると言われる。松尾捨次郎(1935)はその用語の難解さを指摘し、「蓋し成章は其の明敏な頭脳を以て精細な研究を試み、之を発表したのであるから、宣長が或程度まで啓蒙を志したのと違ふのは止むを得ないが、此の難点が一大原因となつて、其の説の弘通を妨げ、後継者として其の子御杖・御杖の門人五十嵐篤好・福田御楯・等を出すに過ぎなかったのは惜むべきである」(p.91)と述べている。

富士谷の時代以降の日本語研究者としては本居宣長やその子本居春庭の影響力が強く、それに比べると富士谷の影響は小さかった。ただし、その宣長は富士谷を高く評価している。『玉かつま』(八の巻・二五)の「藤谷成章といひし人の事」には次のように書かれている。

ちかきころ京に、藤谷専右衛門成章といふ人有ける、それがつくれる、かざし抄、あゆひ抄、六運図略などいふふみどもを見て、おどろかれぬ。それよりさきにも、さる人有とは、ほの聞たりしかど、例の今やうの、かいなでの歌よみならんと、みゝもたたざりしを、此ふみどもを見てぞ、しれる人に、あるやうとひしかば、此ちかきほど、みまかりぬと聞て、又おどろかれぬ、そも〳〵此ごろのうたよみどもは、すこし人にもまさりて、もちひらるゝばかりにもなれば、おのれひとり此道えたるかほして、心やりたかぶるめれど、よめる歌かける文いへる説などをきけば、ひがことのみ多く、みないといまだしきものにて、これはとおぼゆるは、いとかたく、ましてぬけ出たるは、たえてなきよに、この藤谷は、さるたぐひにあらず、又ふるきすぢをとらへて、みだりに高きことのみいふともがらはた、よにおほかるを、さるたぐひにもあらず、万葉よりあなたのことは、いかゞあらむ、しらず、六運の弁にいへるおもむきを見るに、古今集よりこなたざまの歌のやうを、よく見しれることは、大かたちかき世に、ならぶ人あらじとぞおぼゆる、北辺集といひて歌の集もあるを、見たるに、よめるうたは、さしもすぐれたりとはなけれど、いまのよの歌よみのやうなる、ひがことは、をさ〳〵見えずなん有ける、さもあたらしき人の、はやくもうせぬることよ、その子の専右衛門といふも、まだとしわかけれど、心いれて、わざと此道ものすときくは、ちゝの気はひもそはりたらむと、たのもしくおぼゆかし、それが物したる書どもゝ、これかれと、見えしらがふめり

—吉川幸次郎・佐竹昭広・日野龍夫校注『本居宣長(日本思想体系40)』(岩波書店、1978)による

富士谷は生前には十分に評価されなかったが、山田孝雄は富士谷に注目し、富士谷の文法理論は山田文法に大きく取り入れられた。山田は単語を、「概念語」「陳述語」「副用語」「関係語」の四つに大別した。これは富士谷の、「な」「よそひ」「かざし」「あゆひ」の四分類を継承している。山田(1908)は自身の四分類について次のように述べている。

これを富士谷氏のに比するに名は即概念語、装は陳述語、副用語は挿頭、関係語は即脚結なり。元より多少の出入はありといへども余は大体に於いて富士谷氏の説を是認す。この故に余を以て富士谷氏の説を奉ずるものといふ人ありとても、余は敢へて之を辞せざるなり。

—『日本文法論』(p.158-159)

これ以降富士谷の学説はようやく注目されるようになる。

現代の国語学的研究にも富士谷の知見は活かされている。たとえば、富士谷は『あゆひ抄』の中で、「ヤ」は疑問詞を承けないが「カ」は受けるとしている。大野晋は「ハとガの源流」(『日本語と世界』(講談社学術文庫)1989、p.93)において、これを援用して係助詞の体系的分類を試みている。

人物[編集]

富士谷がどのような人物であったのかは、皆川淇園によって書かれた墓誌銘によって知ることができる。これは『淇園文集』にも収められている(勉誠社文庫の『あゆひ抄』の解説にも影印が掲載されている)。その大意はおおよそ次のとおりである。

成章。は仲達。初めは層城と雅号をつけた。後に改めて、住んでいる場所の名前から取って北辺と雅号をつけた。実は私の弟である。

三歳で文字を書き、七歳で漢詩を作った。九歳の夏に朝鮮人が来て歓迎しているところに出会い、館に行って筆談した。機知が抜きんでており、朝鮮人たちは驚嘆した。

成長して学問は経書・史書に及び、私が経書を学んで解説するのを見て「これは遠い昔の道徳が今に伝わっている。しかし聖人の著作ではあっても外国の故事だ。我が国の故事ではないから、これを伝えつくして我が文化を感化してよくすることなどがなぜできようか」と思って、以前私が注釈をした国史以下さまざまな令式などの書物、それから諸々の我が国の古の有名な偉人の家の歴史、遺した文集など、なんでも探らないものはなかった。探ればすべて究めた。

また苦心して和歌を修めた。幼いころから死ぬまでに作ったのは何十万首にもなる。さまざまな文体を全て備え、思いを歌にするのに困ることがなかった。

授業を受けた者はあちこちにおり、注釈を作って生徒たちに口授した。著書に『かざし抄』『あゆひ抄』があり、世間に流布している。著作しようとしてまだ完成しなかったものが何百種あるかわからない。

普段の人となりは、風流で温和、さらにその天性の聡明さでさまざまな技芸を学び、一回聞いただけで理解した。そしてまだ完成していないものは世に出すことはなく、出せば必ず人を超えていた。天文や暦などのさまざまな学問、そして雑技や音楽も、みなそのようであった。

初対面の人は、その体が小さいのを見て馬鹿にするが、その聡明さを見れば大いに驚愕し、そしてきっと天人に違いないと思う。空いた時間に新しい発想を出して道具を創造し、その道具は必ず人によって人によって伝えられて広まった。

私はかつて清君錦(清田儋叟)たちと成章の家に集って、百のテーマを出して五言律詩を作った。正午から正子までかけて、私がまず完成させた。君錦が次に完成させた。成章は一人だけ遅かった。だが成章が詩を出すと、各々全てに和歌が添えてあった。

十九歳のとき、(会々通家富士谷尹寿死シテ子無シ)。その母が成章をほしがったので跡継ぎにした。その娘と結婚し、(男成元(富士谷御杖)ヲ生ム。次ニ次女次男、尚幼、側室ノ生ム所、三女、次ハ男)。

(尚幼)、父が病気になり、(成章ノ家耳目ヲ悞スル所多キヲ以テ、)その家に住み、成章は孝行を尽くした。飲みたい食べたいと思ったものは必ずその日のうちに用意した。(其ノ家世、筑後柳川藩ノ為メニ買局ノ事務ヲ幹辨ス。)これで生活をしていた。(柳川侯)が(京ニ入ル毎ニ)(輒)がその家を通りすぎてから(其ノ坐スル所常ノ位ニ有リ)。成章が寝るとき、足の裏の方向を父のいる部屋に向けなかった。その慎み深さにはこのようなことが多い。成章はかつて病気になり、髭を剃ることができなかった。心のうちでその病気を心配することに気を使って、彼の前に行くたびに必ずその髭を隠していた。

父が亡くなり、悲しみは度を過ぎていた。病を冒して葬送した。それによって遂に回復できなくなってしまった。

享年四十二。戒名を紹琬という。これを京の北の蓮台寺の先祖の墓の側に葬った。その銘文にはこうある。

「才能と学問は仲間を超え、国の並外れた人材であった。天は長寿を許さず、急にこのような人を奪った。嗚呼。」


主な著書[編集]

  • 『あゆひ抄』(1773年成。1778年刊。)
  • 『かざし抄』(1767年識語。)
  • 『六運略図』
  • 『非なるべし』
  • 『北辺家集』
  • 『北辺七体七百首』

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • 竹岡正夫解説(1978)『稿本あゆひ抄 勉誠社文庫45』勉誠社
  • 中田祝夫解説(1977)『あゆひ抄 勉誠社文庫16』勉誠社
  • 富士谷成章(1767)『かざし抄』
  • 富士谷成章(1778)『あゆひ抄』
  • 松尾捨次郎校訂(1934)『かざし抄』大岡山書店
  • 松尾捨次郎(1935)『国語学史講義』大岡山書店
  • 山田孝雄(1908)『日本文法論』宝文館

[編集]

  1. ^ なお本記事において『あゆひ抄』および『かざし抄』からの引用は版本からいま新たに翻刻する。
  2. ^ ただしこの例で「よし」を「装」としたのは「名」の誤りであろう。
  3. ^ 『荘子』漁父の「影を畏れ迹を悪む」の故事からか。