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魚津市「北鬼江」町内会
[編集]北鬼江(きたおにえ)町内会は富山県魚津市にある町名の町内会。郵便番号は937-0066
地理
「北鬼江」は富山県魚津市の平野部を形成する片貝川扇状地の扇端地中央部に位置する道下地区に属し、富山湾沿いに於ける蜃気楼の景勝地としても全国的に知られた地域であり、付近には特別天然記念物の指定を受けている魚津埋没林博物館や海の駅シンキロウがある。
町内会は現在約330世帯で組織しているが、昭和55年に始まった魚津駅西地区土地区画整理事業に因って町内の景観が大きく変わり、全般に農地が大きく減少し宅地化が進んだ。結果今日マンション等への入居者世帯が増え老若男女バランスの取れた人口構成を呈している。
町内には市浄化センターやスポーツ施設のありそドームそして道下小学校、すずめ児童館、道下公民館が点在。またご神木の「大欅」や大銀杏、そして幹が上方で「窓」を形状する珍しい「窓木サカキ」などを境内に擁し、先に大修復の竣工をみた北鬼江八幡宮が地内中央部に鎮座している。伝承の神輿巡回や獅子舞奉納は秋祭りに挙行される。町内のコミニュテイーセンターでもある北鬼江会館は神社前に建っている。
平成27年4月、JRを引き継いだあいの風とやま鉄道魚津駅や富山地方鉄道新魚津駅は隣接した地に建つ。
歴史
「北鬼江」の呼称について魚津市史は「村名の起こりは魚津の下町(しもまち)鬼江橋の北にあることから村の名がつけられたといわれている」とし、また「魚津で最も早く開けた所」と記している。1650年頃の制作とされ越中最古の国絵図である「越中四郡絵図」には道下地域に在ってただ一村、338石の村高と共に「北鬼江」の村名が記されている。
北鬼江を含む道下地域は永く片貝川扇状地を流れる片貝川の度重なる氾濫の歴史を背負っており、田畑の開拓は非常に困難な地域であったことは否めない。この地域に開拓の槌音が本格的に響くのは加賀藩が開拓、開墾に乗り出した1640年頃と考えられている。ただ、北鬼江を中心とした道下地域の海岸沿いには、海藻や貝類の採取を生業としていた浜仕(はまし)と呼ばれる人々もいたが何れも農業との兼業であり、北鬼江地域は長く米作りを中心とした農村地帯として続いてきた。
藩政期に於ける「北鬼江」を語る史料としては「市史」が記す浜仕の採藻作業を通しての加賀藩主との繋がりや、石高・村役人名・世帯数そして慶安4年(1651)に発生した「北鬼江村走り跡田地の処置」に関する問題の記載以外は見当たらない。しかし、開拓当初から続いてきたと考えられる「~どん」の家号をもつ家数が16軒と道下全域の36軒に比して非常に多く、当時の自作農家が多い地域としての全容が伺えよう。
戸数の推移は享保18年(1733)24戸、明治5年(1872)48戸、昭和12年48戸、昭和27年54戸、昭和45年97戸、昭和61年241戸となりこの年町内に道下市営住宅2棟が建設された。
明治期以降の「道下」は明治21年(1888)、政府の全国一斉市町村再編成や合併の訓令を受け、地域は古来からの呼称「ミチノシタ」という地方の通称名を命名し、翌年4月から周辺の9ヶ村合併の上、字「道下村」を形成した。「北鬼江」はこの時を以て下新川郡北鬼江村から下新川郡字道下村大字北鬼江村となった。以降大正、昭和を経て道下村の村役場、小学校そして道下農協を抱た道下村の中核村としてその役割を担ってきた。
参考文献
魚津市史
道下のあゆみを尋ねて