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利用者:加藤勝憲/ザリャー (雑誌)

『ザリャー』は(: Заря)はマルクス主義の学術・政治雑誌。シュトゥットガルトの新聞イスクラの編集局によって発行された。第1号は1901年4月、第2-3号は1901年12月、第4号は1902年8月に発行された[1]。ロシアから亡命した社会主義者たちの手によって発行された「ロシア社会民主労働党の理論誌」であった[2][3][4]。誌名は「日の出」の意味。

発行までの背景と経緯[編集]

1905年の革命に向かっての運動の高揚期[編集]

1890年代、ロシアの大工場ではストライキが非常に頻繁に行われるようになり[5]、社会民主主義の思想がインテリゲンツィアの間に急速に普及し、労働者とインテリゲンツィアとのサークルがいたるところに出現しているにもかかわらず、革命運動は分断された細分性・手工業性を克服できていなかった[6]。運動の細分性が

ロシア社会民主党はスモレンスク全ロシア大会を計画していたが一連の弾圧のために頓挫してしまっていた。そこで活動計画は変更され、アレクサンドル・ポトレソフロシア語版レーニンが国外へ向かい、ゲオルギー・プレハーノフが率いる労働解放団と協力して独立した党としての全国的労働者新聞と学術・政治雑誌を創刊し党の再組織を目指すこととなる[4]。新聞は『イスクラ』(火花の意)、雑誌は『ザリャー』(日の出の意)と名付けられた。

レーニンは、マルクス主義に基づき、ロシアの分断された革命運動の細分性・手工業性を克服し団結させることをザリャーに意図した[7][8]。レーニンは、シュシェンスコエロシア語版に亡命した後、新聞の発行をを組織し始めた。この目的のために、1900年、彼はウファモスクワサンクトペテルブルグニジニ・ノヴゴロドサマーラシズラニポドリスクリガスモレンスクで仲間と会った。

ロシアに残った同調者は多くの都市に拠点を設け、そこから地方組織への働きかけをすることとなった。新機関紙誌の綱領は1900年5月のプスコフ協議会で作成される[4][9][10][8]

革命政党の理論誌[編集]

こうした準備段階を経てザリャー第1号は1901年4月、第2-3号は1901年12月、第4号は1902年8月にシュトゥットガルトで発刊され[11]、ロシアに持ち込まれた[12]。その後、ミュンヘンロンドンジュネーヴで発行された。 当初、イスクラはレーニンによって編集されたが1903年7月、ロシア社会民主労働党第1回党大会(ブリュッセル大会)のあと、党がレーニンのボリシェヴィキユーリー・マルトフメンシェヴィキに分裂する。レーニンはイスクラの編集部からも離れ、その後はメンシェヴィキの手によって編集が行われ、1905年までプレハーノフが責任者を務めた。イスクラの平均発行部数は約8000部であった。

イスクラのタイトルは、シベリア流刑となったデカブリスト(十二月党)を称えたアレクサンドル・プーシキンの詩 [13] に応える形でアレクサンドル・オドエフスキーが作った詩[14]の一節「火花から炎が燃え上がるだろう」 "Из искры возгорится пламя"から採られた。

1917年ロシア革命十月革命)が勃発すると、編集部員の多くはボリシェヴィキに入党した。


«Заря» — марксистский научно-политический журнал. Издавался редакцией газеты «Искра» в Штутгарте. Всего в свет вышло четыре номера (в трёх книгах): № 1 — в апреле 1901, № 2-3 — в декабре 1901, № 4 — в августе 1902. Цели и задачи журнала были сформулированы Лениным в «Проекте заявления редакции „Искры“ и „Зари“» (см. Полн. собр. соч., 5 изд., т. 4, с. 322-33). Журнал пропагандировал идеи революционного марксизма, критиковал народничество, «легальный марксизм», бернштейнианство и другие оппортунистические течения. . В журнале публиковались Ульянов (Ленин), Плеханов, Засулич, Аксельрод («Ортодокс»), Щеколдин (он же Повар), Мартов, Потресов и другие видные марксистские публицисты.

脚注・参考文献[編集]

  1. ^ Wildman, Allan K. (1964). “Lenin's Battle with Kustarnichestvo: The Iskra Organization in Russia”. Slavic Review 23 (3): 479-503. https://www.jstor.org/stable/2492685. 
  2. ^ Ц. С. Зеликсон-Бобровская. К 50-летию выхода первого номера ленинской «Искры»”. 2014年4月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月31日閲覧。
  3. ^ [./Краткий_курс_истории_ВКП(б) Краткий курс истории ВКП(б)], 1938.
  4. ^ a b c 「イスクラ」および「ザリャー」編集局の声明草案』〈レーニン全集第4巻〉、347-359頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2978952/1/182 
  5. ^ ストライキについて』〈レーニン全集第4巻〉、335-336頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2978952/1/176 
  6. ^ 「イスクラ」および「ザリャー」編集局の声明草案』〈レーニン全集第4巻〉、347-348頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2978952/1/182 
  7. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「:12」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  8. ^ a b 「イスクラ」編集局の声明 編集局から』〈レーニン全集 第4巻〉、384-393頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2978952/1/201 
  9. ^ どのように「イスクラ」はあやうく消えかけたか?』〈レーニン全集第4巻〉、360-381頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2978952/1/189 
  10. ^ 協定草案』〈レーニン全集第4巻〉、382-383頁https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2978952/1/200 
  11. ^ J・マールトフ『ロシア社会民主党史』新泉社、1976年、P.59頁。 
  12. ^ Lih, Lars (2005). Lenin Rediscovered: What is to be Done? in Context. Brill Academic Publishers. ISBN 978-90-04-13120-0 
  13. ^ http://www.rvb.ru/pushkin/01text/01versus/0423_36/1827/0432.htm
  14. ^ http://decemb.hobby.ru/index.shtml?litera/poezia/odoevski
  • «Заря» (журнал) // Евклид — Ибсен. — М. : Советская энциклопедия, 1972. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 9).
  • «Заря» (журнал) // Евклид — Ибсен. — М. : Советская энциклопедия, 1972. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 9).

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


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