コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:加藤勝憲/田中敬 (図書館学者)

田中敬(たなかたかし、1880年 - 1958年)は日本の図書館学者、図書学者、書誌学者。大正期から戦後にかけて活躍した図書館人である。

生い立ち

[編集]

1888(明治13)年兵庫庫県多紀郡北河内村(現在は丹波篠山市)の農家に生まれ、幼少時から勉学を好み、やや長じて身を寄せていた地元の寺坊で篤学の住持に漢学の手ほどきを受けた。その後、東洋大学に進学し1907年(明治40年)専門部第一科、翌1908(明治41)年には大学部第二科(支那哲学科)を卒業し、修身科の中等教員免許状を取得した。そして1908(明治41)年3月に同大学の大学部研究科卒業後、同年4月より沢柳政太郎の著作助手として著作編集に従事することになった。

沢柳政太郎の助手時代

[編集]

田中は1908年3月に東洋大学の大学部研究科卒業後、沢柳政太郎の著作助手となり、沢柳が1911年に東北帝国大学の初代総長に就任したことから東北帝国大学附属図書館の職員として勤務することになる。1923年には司書官に任命されるなど、東北帝国大学附属図書館の中心人物として同図書館の基礎づくりと発展に尽力した。1933年同大学退職後、郷里の兵庫県に近い大阪帝国大学附属図書館に勤務し、戦後は近畿大学からの招きにより同大学の図書館長を務めた。

また大学図書館員の職務と平行して研究活動にも取り組み、『図書館教育』(1918年)、『図書学概論』(1924年)、『粘葉考』(1932年)、『汲古随』(1933年)、『和漢書目録法』(1934年)のほか、雑誌の論稿も多岐にわたって数多くの著述を残した。1941年には、これらの功績により日本図書館協会から総裁賞を受賞し、1956年にはこれまでの図書学研究の集大成ともいえる「図書形態学とその応用」をあらわし、文学博士を取得した。

田中の死後、著作集刊行に尽力した岩猿敏生は、「幅広い図書館学の研究者」として評価した。なかでも『図書館教育』と『図書学概論』は最も知られている文献である。彼の処女作でもあり、図書館の教育的職能を論じた『図書館教育』(1918年)は我が国における図書館学の古典として広く知られている。岩猿は復刻版の『図書館教育』の解説において、図書館管理法や図書館経営法から脱却し、わが国最初のライブラリー・サイエンを志向した労作であり、その特色として図書館活動の本質の追求から図書館学の成立を要請したこと、open shelves を開架式と訳し現代図書館の特質としてその意義を強調した点を評価した。『図書学概論』は文化の伝達手段である図書に関する一切の事項を研究する学問として図書学を提唱したもので、書誌学の大家である長沢規矩也が書誌学という名称を図書学と呼称するまでに至るなど高い評価を受けている。このことから、岩猿は図書館の方面から書誌学分野に影響を与えた点を高く評価した。このように高い評価を受けている田中であるが、これまで田中の図書館論を本格的に究明した先行研究はない。その要因は多々あると思うが、本研究者は、田中が自身の図書館論を展開していくための立脚点がこれまで明らかにされてこなかったことが最大の要因であると考える。その理由は、処女作である『図書館教育』を発表するまで田中の存在が図書館界において殆ど知られていなかったことにある。それは田中が日本の主要都市から離れた東北地方の仙台に新設された大学の図書館に31歳というオールドルーキーとして入職したこと、業界における全国レベルの機関誌ともいうべき「図書館雑誌」に論稿を発表することがなく『図書館教育』を刊行しているため、図書館界において認知されていなかったことにある。

では、なぜ田中は我が国の図書館学において古典ともいうべき『図書館教育』を執筆することができたのか。筆者は田中の師匠ともいうべき沢柳政太郎の存在が大きく影響していると考える。沢柳は明治期から昭和初期にかけて我が国の教育界においてオピニオンリーダー的な存在であり、以前から自学自修の修養を推奨し、読書に高い教育的効能があることに着目をしていた人物である。また、拙著「沢柳政太郎の地方文化発展論」において指摘したように、図書館の教育的機能に着目していた。このことから田中は、図書館の教育的職能を我が国の教育関係者に伝えることを目的に教育学の観点から『図書館教育』を執筆したと考えられる。

以上のことから本研究では、沢柳の著作助手としての田中の活動を明らかにするとともに、田中の著作活動を手掛かりに彼の図書館論の立脚点について検討する。

1. 沢柳の著作助手時代

沢柳の著作助手としての田中の活動を示すものに、1936年10月田中が沢柳礼次郎に宛てた書簡がある。この書簡は沢柳礼次郎が『吾父沢柳政太郎』(1937年)執筆の際、編纂補助者であった田中に『孝道』執筆時とその前後の様子について質問し、田中が答えたものである。この書簡では、田中が著作助手を務めたのは東洋大学大学部研究科在学中であった1909年1月下旬から1911年4月までであり、この間、『我国の教育'』(1910年)の原稿整理のほかに『中学修身書』などの起草、『中學修身書備考』(1909年)など3著ぺの編纂、『孝道(1910年0年)作成における東洋関係資料の蒐集選択、謄写、訳文に取り組んだと述べている。『我国の教育』をのぞく、これらの著作はすべて修身教育に関する著作物であり、支那哲学を研究し、修身科の中学校教員免許を取得していた田中は適任であったと考えられる"。

 さらに書簡では「その年(1909年・著者注)諸方の夏季講習会に御出講になるので其の準備として多くの代表的な教育学に関する著書の要項を簡単なる形に壓縮し且つ批判を加へる下書を作ることが私に命ぜられた主要な仕事でした』。」と記されている。沢柳は1909年8月、東参一市四郡教育会連合夏期講習会において自著『実際的教育学』の観点から谷本富など当時著名な教育学者の著作を批評し、従来の教育学の問題を指摘する講義をおこなっている。後に「教育学批判」」という題で翻刻されたこの講義は、沢柳の教育学論を知るうえで重要な文献として知られている。このように、「教育学批判」の講義時期、内容と書簡に記された内容が一致することから、田中が作成したという下書きは「教育学批判」の下書きであったといえる。

 また「教育学批判」において沢柳は、教育学書の批評を通じて読書法を実演し、受講者である教育者たちに読書の教育的効能を伝えることも目的としていた。そして、その意図を論じる過程で読書の観点から図書館の必要性を指摘した』。沢柳は「教育学批判」後の数年間に図書館関係の論稿を残し、さらに拙著"において指摘したように、沢柳が教育による地域発展の要として図書館の教育的機能を重要視していたことから、「教育学批判」は沢柳による図書館論の嚆矢と見ることができる。

 以上のことから、田中は沢柳の著作助手の職務を通じて、沢柳自身から教育学の薫陶を受けるとともに、沢柳が図書館に求める教育的機能についても理解を深めたと言える。


・表1 1912年〜1924年における田中敬の著作(Oは著作集未収録、口は図書館館雑誌)

1,図書目録編纂私見一,教育学術界,教育学術研究会 ,1912年10月

2,書物の述懐〜,宮城県教育雑誌,宮城県教育会 ,1915年1月

3,図書館学最近の進歩25,教育学術界,教育学術研究会 ,1916年10月

4,現代図書館》,河北新報,河北新報社 ,1916年11月

5,大学の発達と図書館の拡張2,教育学術界,教育学術研究会 ,1917年10月

6,大学図書館の今昔2,自修会報,東北帝国大学理学部学自修会 ,1917年12月

7,随感随聴2,自修会報,東北帝国大学理学部学自修会 ,1917年12月

8,活動写真と読書の習慣。,帝国教育,帝国教育会 ,1918年1月

9,少女営火団と図書館”,教育時論,開発社 ,1918年2月

※,図書館教育,同文館,1918年5月

10,活動写真の教育的利用〜,家庭及学校,自学奨励会 ,1918年7月

11,理科教授と活動写真,教育学術界,大日本学術協会 ,1919年4月

12,補習学校としての図書館の職能,帝国教育,帝国教育会 ,1919年4月

13,戦時図書館の活動。,図書館雑誌,日本図書館協会 ,1919年5月、9月

14,ルーレーベン俘虜収容所の教育施設設。,帝国教育,教育会 ,1919年9月

15,図書館学研究の栞。,学燈,丸善 ,1919年9月〜11月

16,洪水と図書館。,学燈,丸善 ,1920年8月

17,活動写真と現代人生,教育学術界,大日本学術協会 ,1921年4月

18,学校と図書館との協同",宮城県図書館編,明治五年学制頒布五十年宮城県図書館創立四十年記念誌]

,1922年10月

19,通俗図書館の施設経営に就て4,図書館時報,宮城県図書館 ,1923年4月

20,図書学のレーゾンデートル#,觀想,東洋大学観想発行所 ,1925年1月

21,蔵書印と蔵書心理,東京朝日新聞,東京朝日新聞社 ,1925年3月

※,図書学概論,冨山房,1924年10月

  • 田中敬 (4658). [教育学術界 図書目録編纂私見一]. 1. 教育学術研究会. p. 1. 教育学術界. 
  • 田中敬 (5480). [宮城県教育雑誌 書物の述懐〜]. 1. 宮城県教育会. p. 1. 宮城県教育雑誌. 
  • 田中敬 (6119). [教育学術界 図書館学最近の進歩25]. 1. 教育学術研究会. p. 1. 教育学術界. 
  • 田中敬 (6150). [河北新報 現代図書館》]. 1. 河北新報社. p. 1. 河北新報. 
  • 田中敬 (6484). [教育学術界 大学の発達と図書館の拡張2]. 1. 教育学術研究会. p. 1. 教育学術界. 
  • 田中敬 (6545). [自修会報 大学図書館の今昔2]. 1. 東北帝国大学理学部学自修会. p. 1. 自修会報. 
  • 田中敬 (6545). [自修会報 随感随聴2]. 1. 東北帝国大学理学部学自修会. p. 1. 自修会報. 
  • 田中敬 (6576). [帝国教育 活動写真と読書の習慣]. 1. 帝国教育会. p. 1. 帝国教育. 
  • 田中敬 (6607). [教育時論 少女営火団と図書館”]. 1. 開発社. p. 1. 教育時論. 
  • 田中敬 (6696). 図書館教育. 1. 同文館. p. 1. 
  • 田中敬 (6757). [家庭及学校 活動写真の教育的利用〜]. 1. 自学奨励会. p. 1. 家庭及学校. 
  • 田中敬 (7031). [教育学術界 理科教授と活動写真]. 1. 大日本学術協会. p. 1. 教育学術界. 
  • 田中敬 (7031). [帝国教育 補習学校としての図書館の職能]. 1. 帝国教育会. p. 1. 帝国教育. 
  • 田中敬 (1919年5月、9月). [図書館雑誌 戦時図書館の活動]. 1. 日本図書館協会. p. 1. 図書館雑誌. 
  • 田中敬 (7184). [帝国教育 ルーレーベン俘虜収容所の教育施設設]. 1. 教育会. p. 1. 帝国教育. 
  • 田中敬 (1919年9月〜11月). [学燈 図書館学研究の栞]. 1. 丸善. p. 1. 学燈. 
  • 田中敬 (7519). [学燈 洪水と図書館]. 1. 丸善. p. 1. 学燈. 
  • 田中敬 (7762). [教育学術界 活動写真と現代人生]. 1. 大日本学術協会. p. 1. 教育学術界. 
  • 田中敬 (8310). [宮城県図書館編 学校と図書館との協同]. 1. 明治五年学制頒布五十年宮城県図書館創立四十年記念誌]. p. 1. 宮城県図書館編. 
  • 田中敬 (8492). [図書館時報 通俗図書館の施設経営に就て4]. 1. 宮城県図書館. p. 1. 図書館時報. 
  • 田中敬 (9133). [觀想 図書学のレーゾンデートル#]. 1. 東洋大学観想発行所. p. 1. 觀想. 
  • 田中敬 (9192). [東京朝日新聞 蔵書印と蔵書心理]. 1. 東京朝日新聞社. p. 1. 東京朝日新聞. 

・表2『図書学概論』刊行後2年間の田中敬の著作(Oは著作集未収録、口は図書館雑誌)

20.「図書学のレーゾンデートルペ」『觀想』東洋大学観想発行所 (1925年1月)

21.「蔵書印と蔵書心理。」『東京朝日新聞』東京朝日新聞社 (1925年3月)

[22.「支那古刻書の一面」『図書館雑雑誌』日本図書館協会 (1925年4、6、7月)

25.「図書館の教育的機能について」『千葉教育』千葉県教育会 (1925年11月)

[26.「図書館員の資格について。」「図書館雑誌」日本図書館協会 (1925年11月)

27.「書斎の色〜」「東京朝日新聞」東京朝日新聞 (1925年12月)

28.「仙台府学養賢堂版に就いて54」『書誌』書物同好会 (1926年2月)

29.「教育の民衆化と図書館の施設一(林靖一君の『図書の整理と利用法」を読みて)一“」「帝国教育」帝国教育会

(1926年4月)

30.「故総裁閣下の御遺徳を慕ひまつりて8」『図書館雑誌』日本図書館協会 (1926年5月)

31.「訳語の字義に就て山本氏の批評に答う『」『図書館雑誌』日本図書館協会 (1926年7月)

32.「鞠谷中島両両氏共編「目録編成法」を批評す」「図書館雑』日本図書館協会

33、「鞠谷中島両氏共編「目録編成成法」を批評す」『図書館雑」日本図書館協会(1927年3、4月)

34.「開架式の延長。」「読書往来』読書往来同好会 (1927年4月)

35、「校正難。」「読書往来」読書往来同好会、 (1927年5月)

36..「四五の弁〜」「図書館雑誌」日本図書館協会 (1927年8月)

37.「著者名標目式の一新例。」「侨例 (1927年10月)

38.「目録法統一の希望(第21回日本図書館協協会協議会提案要綱)*」「図書館雑誌」日本図書館協会(1927年11月)

39.「東北帝国大学図書館。」『図書館学研究』芸艸會 (1927年11月)

40.田中敬「弁疑》」「図書館雑誌」日本図書館協会 (1927年12月)

41.田中敬「愛水満筆。”」「学燈」丸善 (1927年12月)


2.「図書館教育』までの田中の著作活動

1911年3月、著作助手の仕事が残っていた田中は、初代東北帝国大学総長(1911〜1913)に任命された沢柳とともに仙台へ赴任し、1911年5月には沢柳の助手として東北帝国大学雇となる。同年6月、新設の図書館に配属されると図書館事項講習会(1911年7月・京都府立図書館)を受講"し、図書館員としての基礎を学んだ"。1913年、京都帝大総長に任命された沢柳は仙台を離れることになったが、田中は東北帝大に残り、引き続き附属図書館の職務にあたった。このように図書館人生を歩みだした田中は、図書館業務と平行して図書館に関する著述をはじめる。

表1から田中は『図書館教育』以前の論稿は『学術教育界』など教育系雑誌を中心に発表されていたことが理解できる。なかでも3、5、8、9は『図書館教育』の一部となる論稿であり、これらの論稿が掲載された『教育学術界“』、『帝国教育2』、『教育時論"」では、「図書館教育」の刊行が紹介されている。このことから田中は、教育分野において図書館研究者として認知されていたといえる。田中が教育系雑誌を中心に投稿した理由について、「図書目録編纂私見」からその意図を読み取ることができる。この論稿の冒頭で田中は、文化の上級にある国民は図書館を利用していると指摘し、文教職の人士に図書館の理解と利用指導に努めることを求めた。そして「図書館のことが屢々誌上に現はれるやうになると一般人士の眼に留まることが多くなり、随つて暗々裡に図書館の発達を促すやうになるのであろう"」とし、図書館専門の『図書館雑誌』ではなく「教育学術界」を投稿先に選んだと述べている』。また『図書館教育』の起草にあたっても「広く教育家諸君の斯業に対する領会と協賛とを得ることあらずんば其(図書館)の機能を十分に発揮すること能はず"」と述べていることから、教育関係者を第一の対象者をしていたといえる。

一方、田中が「図書館雑誌」に投稿をはじめたのは「戦時図書館の活動」(1919年5月)からである。これは『図書館教育』の刊行から1年後であり、1917年に植松安の『教育と図書館"』が『図書館雑誌』に紹介されたのに対し、『図書館教育』が紹介されることはなかった。また、1981年に刊行された田中の著作集第6巻においても、『図書館教育』刊行以前に著述された教育系雑誌の論稿は収録されていない。このことから『図書館教育』刊行から半世紀以上たった当時においても、当時の田中の方針を認知していなかったといえる。

以上のことから田中が教育系雑誌に投稿したのは国民の図書館利用促進に教育の力が不可欠と考えていたといえる。そのためには、教育関係に図書館の機能が教育の目的達成に貢献できることを示す必要があった。『図書館教育』の一部となる論稿を教育系雑誌へ投稿したのはこのたであったといえる。

3.「図書学概論」刊行後の田中の著作活動

表2は『図書学概論」刊行(1924年)から2年間に著述された田中の論稿である。『図書学概論』刊行後は「図書館雑誌」への投稿が増加する。そして図書学関係の論稿は書誌学系雑誌、目録法関係は「図書館雑誌」へと、論稿内容に合わせて雑誌への投稿の棲み分けが行われていることが理解できる。一方、教育系雑誌への投稿は『図書学概論』刊行後急激に減少していき、1928年以降になると、「小学教育の合理化へ》」『帝国教育」(1931年1月)、「時代の要求と図書館の施設教の朝鮮』朝鮮教育会(1932年1月)を最後に教育系雑誌への投稿は終わる。そして、沢柳が死去した1927年以降になると、『内外参考図書の知識〜』(1929年7月)、「図書解題の解題へ》」(1929年8、11月)、「読書と図書の力限」(1930年3、5月)といった図書館学の論稿を図書館事業研究会の出版物へ寄せるようになる。1932年以降になると論稿の多くが書誌学系雑誌の投稿が増加し、内容も媒体を問わず、図書学関係の論稿が大半を占めるようになった。

4.考察

 田中は著作助手の職務を通じて、沢柳の教育思想や方法論を学ぶとともに、彼が図書館に求めた教育的機能についても理解を深めた。そして、教育学の観点から『図書館教育』を執筆し、教育関係者に対し、図書館の教育的職能の意義を広く伝えようとした。以上のことから、田中の図書館論は教育学から立脚したものであったといえる。

 一方、図書館界は教育界に存在する田中の存在を把握することができなかった。しかし「図書学概論』刊行以降、「図書館雑誌」への投稿が増加し、高い書誌学の知見を持って目録法について意見を述べる図書館界の人物として認識するようになった。その認識は彼の著作集が刊行された時期まで長く続き、その結果、今日の図書館学研究者としての評価が確立されていった。

今後の課題であるが、現在、先述した拙著を手がかりに論文を作成し、田中の図書館論の究明に努めていきたい。

著作

[編集]

単著

[編集]

雑誌

  • 田中敬 (4658). [教育学術界 図書目録編纂私見一]. 1. 教育学術研究会. p. 1. 教育学術界. 
  • 雑報,図書館雑誌,No.16,1912.12,p.30-31.
  • 一月号記事中訂正,図書館雑誌,No. 137, 1931.4, p. 161.,図書館雑誌,で掲載された,懐古座談会,(No.134,1931.l,p.3-27)で,坪谷善四郎は1903年の大橋図書館における講習会の回想で田中の名前をあげている。これに対して田中本人が1911年の京都府立図書館で開催された図書館事項講習会であることを指摘し,坪谷の記憶錯綜を訂正した。そして最初の図書館事務に就いたのが東北帝大附属図書館であり,1911年以前は帝国図書館と大橋図書館の利用者であったこと,1911年の事項講習会で太田為三郎の目録編纂法の講義に大に啓発されたことを記している。
  • 紹介,教育学術界,大日本学術界,No.38 vol.5, 1919.2, p. 103
  • 新刊紹介,帝国教育,帝国教育会,No.433,1918.7, p. 88.
  • 新刊紹介,教育時論,開発社,No.1195,1918.6, p. 24
  • 図書目録編纂私見,教育学術界,教育学術研究会,Vol.26,No.1,1912.10,p.93-99
  • 書物の述懐,宮城県教育雑誌,宮城県教育会,Vol.212,1915.1,p.30-36
  • 図書館学最近の進歩,教育学術界,教育学術研究会,Vol.34,No.1,1916.10,p.6-19
  • 現代図書館,河北新報,河北新報社,1916.11
  • 大学の発達と図書館の拡張,教育学術界,教育学術研究会,Vol.36,No.1,1917.17.10, p. 5-13
  • 大学図書館の今昔,自修会報,東北帝国大学理学部学自修会,No.3,1917.12,p.5-12
  • 和製赤毛布,随感随聴,自修会報,東北帝国大学理学部学自修会,No3,1917.12,p.16-19
  • 活動写真と読書の習慣,帝国教育,帝国教育会,No.432,1918.1,p.52-56
  • 少女営火団と図書館,教育時論,開発社,Vol.1181,1918.2,p.22-24
  • 活動写真の教育的利用,家庭及学校,自学奨励会,Vol.3,No.1,1918.7.48-57
  • 理科教授と活動写真,教育学術界,大日本学術協会,Vol.39,No.1,1919:4,p.55-59
  • 補習学校としての図書館の職能,帝国教育,帝国教育会,No.441,1919.4,p.15-19
  • 戦時図書館の活動,図書館雑誌,日本図書館協会,No.38,19195,p.5-12,No.39, 1919.9, p. 44-50
  • ルーレーベン俘虜収容所の教育施設,帝国教育,帝国教育会,No.446,1919.9,p.74-78
  • 図書館学研究の栞,学燈,丸善,Vol. 23 No. 9, 19199, p. 1-7, Vol. 23, 10. 10,1919.10 p. 1-7, Vol 23 No. 11, 1919.1, p. 1-5
  • 洪水と図書館,学燈,丸善, Vol.24, No. 8, 1920.8, p. 9-15
  • 活動写真と現代人生,教育学術界,大日本学術協会,Vol.43,No、1,1921.4,p.79-88
  • 学校と図書館との協同,宮城県図書館編,明治五年学制頒布五十年宮城県図書館創立四十年記念誌,宮城県図書館,19229,p.27-29
  • 通俗図書館の施設経営に就て,図書館時報,宮城県図書館,No.1,19234,p.10-13
  • 図書学のレーゾンデートル,觀想,東洋大学観想発行所,No.12,1925.1,p.20-25
  • 蔵書印と蔵書心理,東京朝日新聞,東京朝日新聞社,大正14年3月15日夕刊,1925.3.15, p. 5
  • 図書目録編纂私見,同上,p.93
  • 教育学術界,(1899年11月〜1939年4月)は小・中学校の教師をはじめ師範学校の学生,文部省教員検定試験受験者のあいだで広く読まれていた学術雑誌であり,教育を通じて図書館の意義を広めようとした田中にとって最適な媒体であったといえる.
  • 図書学のレーゾンデートル,觀想,東洋大学観想発行所,No.12,1925.1,p.20-25
  • 蔵書印と蔵書心理,東京朝日新聞,東京朝日新聞社,大正14年3月15日夕刊,1925.3.15, p.5
  • 支那古刻書の一面,図書館雑誌,日本図書館協会,No.68, 1925.4, p. 8-10 , No.69, 1925.7. p. 12-13, No. 71, 1925.9. 7-9
  • 図書館の教育的機能について,千葉教育,千葉県教育会,Vol.403,1925.11,p.11-16
  • 図書館員の資格について,図書館雑誌,日本図書館協会,No.73,1925.11.p.9-10
  • 書斎の色,東京朝日新聞,東京朝日新聞,大正14年12月13日夕刊,1925.12.13,
  • 仙台府学養賢堂版に就いて,書誌,書物同好会,No.3,1926.2,p.6-9
  • 教育の民衆化と図書館の施設-(林靖一君の,図書の整理と利用法,を読みて)-,帝国教育,帝国教育会,No.524,1926.4,p.88-97
  • 故総裁閣下の御遺徳を慕ひまつりて,図書館雑誌,日本図書館協会,No.80,1926.5, p. 29-30
  • 訳語の字義に就て山本氏の批評に答う,図書館雑誌,日本図書館協会,No.81,1926.7, p. 10-11
  • 鞠谷中島両氏共編,目録編成法,を批評す,図書館雑誌,日本図書館協会,No.88, 1927.3, p. 93-99
  • 鞠谷中島両氏共編,目録編成法,を批評す,図書館雑誌,日本図書館協会,No.89, 1927.4, p. 119-128
  • 開架式の延長,読書往来,読書往来同好会,Vol.1,No.3,1927.4,p.2-3
  • 校正難,読書往来,読書往来同好会,Vol. 1, No. 4, 1927.5, p. 11-14
  • 四五の弁,図書館雑誌,日本図書館協会,No.93,1927.8,p.240-242
  • 著者名標目式の一新例,図書館雑誌,日本図書館協会,No.95,1927.10,p.287
  • 目録法統一の希望(第21回日本図書館協会協議会提案要綱),図書館雑誌,日本図書館協会,No.96,1927.11,p.316-321
  • 東北帝国大学図書館,図書館学研究,芸神會,Vol.5,No.2·3·4,1927.11,p.64-70
  • 弁疑,図書館雑誌,日本図書館協会,No. 97, 1927.12, p. 359-360
  • 愛水満筆,学燈,丸善,Vol. 31,No. 12, 1927.12, p. 1-2
  • 小学教育の合理化へ,帝国教育,帝国教育会,No.581,1931.1,p.13-15
  • 時代の要求と図書館の施設,文教の朝鮮,朝鮮教育会,No.77,1932.1,p.15-24
  • 毛利宮彦,田中敬,内外参考図書の知識,図書館事業研究会,19297(本書において、参考図書一覧のほか,参考書の本質と利用法,を執筆)
  • 図書解題の解題(第一講),図書館学講座,図書館事業研究会,Vol.7,19298,p. C71-C92
  • 図書解題の解題(第二講),図書館学講座,図書館事業研究会,VoL8,1929.11,p. C93-C99
  • 読書と図書の力(第一講),図書館学講座,図書館事業研究会,Vol.9,19303,p. C100-C107
  • 読書と図書の力(第二講),図書館学講座,図書館事業研究会,Vol.10,19305,p. 3C8-3C18

脚注・参考文献

[編集]
  • 岩猿敏生,解説 田中敬と,図書館教育,(中敬,図書館教育,復刻図書館学古典資料集,日本図書館協会1978,p.1-10.)
  • 岩猿敏夫,幅広い図書館学の研究者 田中敬,(石井敦編,図書館を育てた人々日本人編I,日本図書館協会,1983.6,p.83-88)岩猿は著名な書誌学者である長澤規矩也が,図書学略説,(明治書院1979年)において書誌学の名称を"図書学"へ変更すべきと主張した点を上げている
  • 森上修,初代館長田中敬博士のこと,香散見草:近畿大学中央図書館報,近畿大学中央図書館,No.11,1989.1,p.16-19
  • 田中敬 沢柳礼郎宛書簡1936年10月17日消印(成城学園教育研究所 澤柳文庫所蔵)
  • 沢柳政太郎,我国の教育,同文館,1910
  • 沢柳政太郎,中学修身書,(同文館明治42年7月),女子修身訓,(同文館明治43年9月),実業修身訓,(同文館明治44年2月).これらは修身教育の教科書として作成された.沢柳礼次郎は,吾父沢柳政太郎,で,当時片瀬の別荘にあって,田中敬氏が父の助手として最も力を注ぎ,と記している。(沢柳礼次郎,吾父沢柳政太郎,冨山房,1937,p132.)
  • 中學修身書備考,(同文館明治42年12月),女子修身訓備考,(同文館 明治4年2月),実業修身訓備考,(同文館明治44年3月).これらは先にあげた修身3著作と対をなす教師用参考書として作成された.
  • 澤柳政太郎,孝道,富山房,1910.
  • 沢柳は東洋大学の前身である哲学館創設者・井上円了とは仏教を通じて交流があり,哲学館で心理学を講義するなど東洋大学にも関わりを持っていた。田中が著作助手に採用されたのもこのような背景があったと考えられる.
  • 田中敬発 沢柳礼次郎宛書簡1936年10月17日消印
  • 沢柳政太郎,実際的教育学,同文館, 1909.
  • 沢柳政太郎,教育学批判,沢柳政太郎全集,第1巻,1975,p.247-368.
  • 沢柳政太郎,教育学批判,沢柳政太郎全集,第1巻,1975,p.248-256.
  • 沢柳政太郎の地方文化発展論 東北帝国大学における事例を手がかりに,日本生涯教育学会論集,No.30,2009,p. 101-110,
  • 沢柳政太郎,実際的教育学,同文館,1909.
  • 植松安,教育と図書館,目黒書店,1917.6