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利用者:加藤勝憲/ 江戸時代の出版業者 田中屋治兵衛

田中屋治兵衛(たなかやじへえ)、あるいは文求堂は、江戸時代末期の安政文久年間から明治時代初頭に松下村塾版の書籍を多く発行[1]したことで知られる京都の書肆で、幕末明治維新に際して殉難した志士を回想した西村兼文の著作も出版している。

事業継承、禁門の変で罹災

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先代で父親の田中屋治助[2]が、京都東洞院通二條上ルで営んでいた事業を文久年間についだのだが、1864年(元治元年)の禁門の変の兵乱による火災で類焼を被ったために、京都四條通御旅町北側の後寺町通四條上ル西側に移った[2]。20歳の時であった[2]

これまでの経過

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これより前のことになるが、長州の志士入江九一王事に奔走せむとして上洛の志須りなりしが幕府の警戒嚴重にして大阪以東に上る事を得ず、遂に一策を案じて書買を装び假稱して入桝屋九兵衛といひ京都の書肆田中文求堂の註文に應じ大内版論語を賣渡さむが為め上京する者なりと言ひ掠めて首尾よく其の志を果し得たりとぞ、蓋し豫め治兵衛と密約する所あり、即ち九一の手にしたる註文帳には文求堂の證印を押捺し其の帳簿を幕更に示したるを以て無事通過を許されたる也、是よりして長州の志士と文求堂とは一種の關聯を生じ其の店宅は常に其等志士の為に密議の席に充てらるゝまでに至れり、然れば當時長州人中の異材山縣狂介及び品川弥二郎の兩氏の如きは其の関係上最も多く出入せられし人なり、殊に品川氏に至りては文求堂に庇護せられし所勘しとせず、後年尊醸堂の管理並に其の藏版製本發質の事を一に此の家に委ねられたるも其の縁由する所顔る深大なるが故なり、主人晩年移住して東京本鄉湯島四丁目にあり、明治四十五年二月廿九日残す年六十八、法諡を釋道信といい西大谷の墓地に葬られ、嗣子慶太郎は東京市本郷一丁目でその業を営んだ。因みに彙文堂主人は此の家に業を受けたる人なり[2]

松下村塾版

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こういう因縁があったために松下村塾の出版物は、田中屋治兵衛から製版販売されることになったわけである[1]

作品

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出典

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参考文献

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関連項目

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[[Category:江戸時代の出版]] [[Category:江戸時代の出版業者]] [[Category:京都の出版業者]] [[Category:松下村塾]]