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利用者:加藤郁美/sandbox


久田吉之助[編集]

久田吉之助(ひさだきちのすけ、1877/明治10年ー1918/大正7年12月)は、日本の陶工。タイル・西洋瓦・テラコッタを製造した、日本近代建築陶材製造の先駆者[1]

評価[編集]

日本建築陶材の先駆者[編集]

愛知県知多郡西浦町(現常滑市)の裕福な海運業者の家に生まれる。建築陶材の製造を志し、京都帝国大学(現・京都大学)に工学部建築学科を創設した建築家の武田五一の指導のもと、タイル・西洋瓦・テラコッタを製造した。

1904(明治37)年、日本でもっとも早い時期のタイル特許、「被覆煉瓦」特許第7331号を取得している[1]

日本最古の外壁タイル総貼り建築・名和昆虫研究所記念館[編集]

1907(明治40)年竣工の名和昆虫研究所記念館(岐阜県岐阜市・武田五一設計)の為に無釉湿式淡黄色タイルを焼成した。同建築は、現存する外壁タイル総貼り洋風建築としては日本最古とされる[1]。特筆すべきは、トンボを正確に象ったテラコッタ装飾で、久田吉之助の高い技術を物語るものである。

池田泰山の師匠[編集]

昭和初期に美術タイル・テラコッタの名手として建築家たちから高い評価を受けた池田泰山(1891-1950)は、京都市陶磁器試験場伝習、国立大阪工業試験所窯業部奉職の後、常滑の久田工場でテラコッタを学んだ。工場閉鎖の1917年に京都に戻り、泰山製陶所を開いた[2]

作品[編集]

久田吉之助が建築陶材を納品した建物[1]

  • 名和昆虫研究所記念館[3](明治40年竣工 外装タイル・テラコッタ)
  • 京都府記念図書館(明治42年竣工 テラコッタ)
  • 京都商品陳列所(明治43年竣工 テラコッタ)
  • 長楽館[4](明治42年竣工 外装タイル)
  • 名古屋医科大学校


牧口銀司郎「帝国ホテルのスダレ煉瓦」に記された久田吉之助像[編集]

久田吉之助についてのほぼ唯一のまとまった文献は、帝国ホテルクリーニング部に所属し、スクラッチ煉瓦焼成の現場主任として常滑に派遣された牧口銀司郎の手記「帝国ホテルのスダレ煉瓦」である。1964−66年に『月刊日本クリーニング界』に連載された。これに基づき『帝国ホテルのスダレ煉瓦』(INAX)[5]が制作されている。連載の元になった手稿がINAXライブミュージアムに所蔵されているが、連載原稿とは、内容・掲載順序に異なる点がある。

同手記は、帝国ホテル建設に関するフランク・ロイド・ライトの仕事の進め方、スクラッチ煉瓦焼成までの道のりについては一級の文献資料であるが、全編に渡って久田吉之助への非難が綴られており、久田吉之助の親族の証言と大きく異なる点も多い。誹謗中傷と言わざるを得ない記述も散見される。

帝国ホテルのスクラッチ煉瓦と久田吉之助[6][編集]

1915(大正4)年、帝国ホテルに建て替えの設計を依頼されたフランク・ロイド・ライトは、黄色のスクラッチ煉瓦で外壁を覆うことを提案、当時日本で焼かれていた煉瓦は赤色系のみであったため、帝国ホテルは困惑したが、重役・村井吉兵衛が自らの別荘(現・長楽館)のタイルが黄色系であることを思い出した。そのタイルを焼いた久田吉之助の名が浮上し、帝国ホテル支配人・林愛作との面談ののち、久田にスクラッチ煉瓦が発注されることとなった。1916年には、フランク・ロイド・ライト自らが常滑におもむき、久田吉之助が推薦する煉瓦用の土の出る土地を視察に行っている。

しかし、久田はなかなかスクラッチタイル焼成に取り掛からず、約束した見本も提出しなかったため、建設を急ぐ帝国ホテル側を困惑させることになる。支配人・林愛作は28歳の従業員・牧口銀司郎を現場監督として派遣。牧口は東京のホテルマンであり、窯業産地の仕事のやり方を理解せず、久田と牧口の間に激しい対立が生じた。1917年、牧口は、地元の窯業高校の元教諭・寺内信一を招聘し、現場を久田吉之助工場から、沢田忠吉工場を借りた帝国ホテル煉瓦製作所へと移転させた。その際、工具などを全部持ち去る為に、地元ヤクザを動員するなどしている。

しかし寺内には黄色系のスクラッチ煉瓦を焼くことができなかった。困った牧口は密かに抱き込んだ久田の窯の従業員から「焼きあがる寸前に、久田が窯を壊して空気を入れると、黄色い煉瓦が焼ける」という情報を得て、この焼き方(酸化焼成)を試すよう寺内に進言したが、寺内はこれを受け入れず、突然故郷に帰ってしまった。万策尽きた牧口は、黄色いスクラッチ煉瓦の焼成は不可能と支配人・林に報告するが、慌てて常滑に視察にきた林は、久田が焼いた黄色スクラッチ煉瓦を見て感激、このまま進めるよう、牧口に指示した。牧口は、久田工場の従業員と共に密かに久田の酸化焼成を試し、黄色スクラッチ煉瓦の焼成に成功する。その後、帝国ホテル煉瓦製作所の技術管理は伊奈初之丞・長三郎親子が行い、250万個のスクラッチ煉瓦および透過煉瓦を焼き上げる偉業を達成した。


牧口手記の疑問点[編集]

久田吉之助が帝国ホテルを待たせた期間[編集]


久田吉之助の「異貌」[編集]

牧口は、「久田は片目片腕片肺の異貌であった」と記し、久田が若い時に蕩尽によって海運業者の父親を激怒させ日本刀で切りつけられたためと、1章を割いて記述している。しかし、久田家によると、確かに晩年は片目片腕であったが、父親に切られたなどという事実は全く無い。片目を失明したのは当時の民間療法でホウ酸で目を洗った際に分量を間違えたためであり、片腕を失ったのは、海運業者の父が蒐集品の刀の手入れをしていた際に誤って指を傷つけ、指先から壊死が始まり、ついには腕を切ることになったためであった。久田の妻きんは「指がだめになったところで、医者の言う事を聞いて切断すれば良かったものを、子供が小さかったので躊躇してしまい、指、手、腕とじゅんに切ってゆくことになってしまった」と、最期まで悔やんでいたと言う。糖尿病を患っていたと言う話は、久田家には伝わっていない[7]

「駱駝職人」[編集]

牧口は「久田の工場は、稼ぎのあった時は従業員に給金をたくさん支払ったが、稼ぎの無い期間も多かった。このような職人を、背中のコブに脂を貯めて生き延びる駱駝に例えて駱駝職人と言う」と書いて嘲笑っているが、戦前を知る常滑の製陶所社長に聞いても「駱駝職人などと言う言葉は聞いたことが無い」という[7]。同人は、「久田さんのことは、随分悪く書かれていて驚いている。久田さんが一級の職人であることは、常滑では言い伝えられている」とも語った。


ピストルとヤクザ[編集]

牧口は「帝国ホテルが招聘した技師・寺内は、久田にピストルで脅されて故郷に帰ってしまった」と記述しているが、牧口が久田工場の従業員から聞き出した「酸化焼成」の技法で煉瓦を焼く事を寺内に指示したため、人の技術を盗む事を良しとしなかった寺内が帰郷したという事も推察される。

逆に牧口は地元ヤクザを雇って、久田工場がスダレ煉瓦を焼くために準備した工具類を全て、新工場へと持ち去った。当時の家内工業的製陶所では、工具・備品の準備も陶工の技術の内であり、この牧口の行動は、東京のホテルマン的には合理的であったかもしれないが、常滑の陶工にとっては非道な行いであった。久田の妻きんは最晩年、「ヤクザが来る」と怯える事がままあり、親族は、この牧口の仕打ちの記憶のせいではないかと考えている[7]


原料土の軽視[編集]

牧口は、久田が採用した土を購入することに強い反感を示し、フランク・ロイド・ライトが久田の案内によって用土採取地を視察した事も、不必要な事と激しく非難している。牧口はさらに林支配人が久田が推薦した用土に支払った金額は高すぎると猛反発しているが、焼き物と用土は不可分のものであり、土選びは、陶工の技量の一部である。林支配人はその点を理解していたと推察される。


  1. ^ a b c d INAX日本のタイル工業史編集委員会 編『日本のタイル工業史』. INAX. (1991) 
  2. ^ 「池田泰山」”. 池田泰佑. 2019年8月1日閲覧。
  3. ^ 名和昆虫博物館HP”. 名和昆虫博物館. 2019年8月1日閲覧。
  4. ^ 長楽館HP”. 長楽館. 2019年8月1日閲覧。
  5. ^ 牧口銀司郎『帝国ホテルのスダレ煉瓦』. INAX. (199?) 
  6. ^ 牧口銀司郎手稿『帝国ホテルのスダレ煉瓦』、INAXライブミュージアム所蔵 
  7. ^ a b c 加藤郁美による聞き取り、2019年。