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利用者:善積錬太郎/油揚げを鳶に 鰹節を猫に

油揚げを鳶に 鰹節を猫に[編集]

第一章[編集]

章頭歌[編集]

春眠不覺曉
處處聞啼鳥
夜來風雨聲
花落知多少

――孟浩然[1]「春眠」

春ノ寝覚メノ現(うつつ)デ聞ケバ
鳥ノ啼ク音(ね)デ目ガ覚メマシタ
夜ノ嵐ニ雨混ジリ
散ッタ木ノ花如何(いか)程バカリ

――井伏鱒二[2]『厄除け詩集』「春暁」

第一節 プロローグ[編集]

 久し振りの晴天だった。

 数日前から降り続いていた雨は昨夜の中に歇(あ)がり、眩しい曙光(しょこう)が街を燦々(さん〳〵)と照らしていた。普段であれば、朝日は靄ったスモッグ[3]に隠され朧げにしかその姿を見せない。しかし、春の霖雨(りんう)によって大気中の微粒子は大方流れ落ち、街に林立するビルは濃く長い影を地上へ投げ掛けていた。人工の吸水素材で出来た街路には水溜りは見受けられなかったが、浅春(せんしゅん)の早朝特有のどことなく重たい空気[4]までは処理しきれなかったようで、時刻は午前七時を少し回ったところだったが、街はまだ眠たげな雰囲気に包まれていた。

 天をも貫く勢いで聳(そび)え建つ数多(あまた)のビルは、その中でも最も高く最も厳かな尖塔(せんとう)〝中央塔郭(セントラルタワー)〟を中心として、その丈をなだらかに低くさせており、その様子は差し詰め広大な裾野を持つ

  1. ^ 孟浩然(689年‐740年)…中国盛唐時代の詩人。現湖北(こほく)省襄陽(じょうよう)市出身。自然を題材にした詩が評価されており、詩の中に人生の愁(うれ)いと超俗(ちょうぞく)とを行き来する心情を詠みこんでいる。
  2. ^ 井伏鱒二(1898年2月15日‐1993年7月10日)…日本の小説家で新興芸術派。本名は井伏(いぶし)滿壽二(ますじ)。広島県安那(やすな)郡加茂(かも)村出身。早稲田大学仏文科中退。代表作に、「山椒魚」(1929年)や、「黒い雨」(1966年)、1938年に第六回直木賞を受賞した作品である「ジョン萬次郎漂流記」(1937年)などが挙げられる。1966年文化功労者・文化勲章受章。
  3. ^ スモッグ(smog)…大気中に大気汚染物質が浮遊しているため視程が低下している状態を指す言葉であり、高濃度の大気汚染の一種である。smoke(煙)とfog(霧)を合成したかばん語である。
  4. ^ 春の早朝特有のどことなく重たい空気…春の空気は漠然と重く、そして皮膚をむずむずとさせた。
    ――村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」