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利用者:城たけあき

光浄寺
みやき町の光浄寺本堂
本堂
所在地 佐賀県三養基郡みやき町西島2153
位置 北緯33度17分47秒 東経130度26分24秒 / 北緯33.29639度 東経130.44000度 / 33.29639; 130.44000座標: 北緯33度17分47秒 東経130度26分24秒 / 北緯33.29639度 東経130.44000度 / 33.29639; 130.44000 
山号 医王山
宗派 臨済宗南禅寺派
寺格 諸山
本尊 薬師如来
創建年 嘉暦2年(1327年)
開山 空山自空
開基 板部成尚
正式名 医王山光浄禅寺(旧字:醫王山光淨禪寺)
文化財 『光浄寺文書』佐賀県重要文化財
法人番号 3300005004896
城たけあきの位置(佐賀県内)
城たけあき
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光浄寺(こうじょうじ)は、佐賀県三養基郡みやき町西島にある臨済宗南禅寺派の寺院筑前肥前などの守護であった名族少弐氏の祈祷寺であり、少弐氏の支族で西島城主の横岳氏の菩提寺である。

概要[編集]

光浄寺の建立以前、この地には板部氏[1]環濠集落[2]を築いていた。

鎌倉時代嘉暦2年(1327年)[3]、地頭の板部六郎成尚(宗全)[4]が空山月堂自空和尚を招聘して、西島郷(現:みやき町西島)の環濠集落に同寺を創建した。

開山の空山自空和尚[3]は、留学後に、帰朝して肥前国最初の禅寺である水上山万寿寺を建てた神子栄尊の法孫である。また、万寿寺の第九代住職[3]を務めた勅賜紫衣の高僧であった。

開基檀那の板部成尚[3]は、現在のみやき町の板部から西島、天建寺の領地をもっていた。成尚の子の成基は、貞和6年(1350年)[3]に寺領を寄進していて、肥前国三根郡矢俣保[5][6]、西島郷[7]、中津隈荘[8]および筑後国三潴荘 [9] の木佐木村 [10] 、牟田口村[11] を含む七十数ヵ所[12]の小規模の田地で合計三十九町五反余[13] [14]であった。

歴史[編集]

南北朝時代[編集]

建武三年(1336年)3月[3]室町幕府の初代将軍足利尊氏は肥前の諸社寺に祈祷を命じて、同寺は祈願所となった。

貞治1年/正平17年(1350年)7月[15][16]南朝の征西将軍宮懐良親王(後醍醐天皇の皇子)は寺領を安堵されて、祈祷寺となった。

応安6年(1373年)9月[17]北朝足利一門今川仲秋(今川貞世の弟)は、同寺を祈願所して、同寺領を安堵した。

室町時代、戦国時代[編集]

文安元年(1444年)頃[18][19]までに同寺領の北西に隣接して、少弐一門の横岳頼房[20]西島城を築城した。当時、少弐氏はみやき町綾部城を拠点とする足利一門で九州探題渋川氏と争っている。そのため、同寺には少弐氏[21][22]、渋川氏[23]の両方の書状が残る。

この頃、天文9年(1540年)6月[3]室町幕府の第12代将軍足利義晴が同寺を、諸山に列せしむ。

少弐氏永禄2年(1559年)に滅亡後も、横岳氏龍造寺隆信と戦っていたが、西島城天正3年(1571年)に落城。翌年[3]、隆信は寺領を安堵して、その後、同寺は鍋島氏が引き継いでいる。

江戸時代[編集]

寛永5年(1628年)~天明7年(1788年)[24]に当寺の三十五世清済和尚が寺領を佐賀藩に上地した代わりに、[24]七ヵ所の修理が行われた。七ヵ所[24]は、仏殿・山門・鐘楼・中間・大門・鎮守社・廊下で藩の直轄事業で修理営膳を行った。

寛政4年(1792年)[24]の光浄寺には寺社差出によると、

塔頭[編集]

  • 光明院 - 現存せず。本尊は現存する。

末寺、末庵[編集]

  • 報恩寺 - 現存せず。現:みやき町東寒水公民館にあった。
  • 三英寺 - お堂のみ現存。現:みやき町江口豆津。
  • 鎮空寺 - 現存せず。現:みやき町原古賀綾部にあった。
  • 妙音寺 - 祠のみ現存。現:みやき町中津隈宝満神社の隣。

などの八ヶ所があった。

抱宮[編集]

  • 中津隈宝満神社[25]などの六ヶ所の抱宮があった。

現在[編集]

平成の本堂改築により、本堂は新しくなった。

なお本堂の鬼瓦は平安京大内裏豊楽院で出土の鬼瓦(平安鬼面[26])を模したものの規格外サイズが敷かれている。

文化財・史跡[編集]

佐賀県重要文化財

  • 光浄寺文書:鎌倉末期から江戸初期の計104通の文書群であり全4巻。東肥前の歴史を知る上で重要な資料である。

横岳氏墓所

  • 2代当主:横岳資貞の墓
  • 5代当主:横岳鎮貞の墓

交通[編集]

その他[編集]

光浄寺の寺紋は、足利氏引両紋鍋島杏葉である。境内に、引両紋鍋島杏葉が残存している。

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 北茂安町史編纂委員会『北茂安町史』p.299によると、『島氏系図』によれば、鹿ケ谷の陰謀で配流にされた藤原成親の三人の子が、源頼朝より肥前国の矢俣、板部、西嶋などの領地を賜った。三子は、それぞれ地名から矢俣氏、板部氏、西島氏を名乗っている。そのため、矢俣氏・板部氏・西島氏は同族である。
  2. ^ 佐賀県教育委員会『佐賀県の中近世城館 第2集 各説編1(三養基・神埼・佐賀地区)』p.16によると、この環濠集落は光浄寺を核とした集落で光浄寺環濠集落と呼ばれている。所在地は光浄寺境内、他。標高4m、比高0~1m。残存規模は南北260m、東西500m。遺構は濠のみ。
  3. ^ a b c d e f g h 三根町史編さん委員会『三根町史』三根町、1984年。p.1047~1051
  4. ^ 服部英雄「文書研究」50,16~32頁-「肥前光浄寺文書にみる南北朝の動乱-- によると通常1通の寄進状」、1999年。”. 九州大学付属図書館. 2022年1月9日閲覧。
  5. ^ 日本荘園データベース  ”. れきはくデータベース. 2022年1月9日閲覧。によると、【史料村郷名】は弥吉名・犬丸名蓮町・友永名・弥吉名・西嶋郷。
  6. ^ 「角川日本地名辞典 41 佐賀県」p.714~715によると、矢俣保は中世では矢俣郷、西嶋郷を含む地域と比定される地域。この文章では、近世の矢俣郷の地域である現在のみやき町天建寺、坂口と比定される地域を指している。
  7. ^ 「角川日本地名辞典 41 佐賀県」p.528によると、西嶋郷は現在のみやき町西島と上峰町江迎と比定される地域。
  8. ^ 「角川日本地名辞典 41 佐賀県」p.500によると、現在のみやき町中津隈と比定される地域。
  9. ^ 「角川日本地名辞典 40 福岡県」p.1302によると、三潴郡ほぼ全域の荘園。
  10. ^ 「角川日本地名辞典 40 福岡県」p.中世の木佐木村は、江戸時代に分かれて上木佐木村(現:福岡県大木町上木佐木)、下木佐木村(現:福岡県大川市下木佐木)に比定される地域。
  11. ^ 「角川日本地名辞典 40 福岡県」p.1332によると、p.中世の牟田口村は、江戸時代に分かれて上牟田口村(現:福岡県大木町上木佐木)、下牟田口村(現:福岡県大川市下木佐木)に比定される地域。
  12. ^ 北茂安町史編纂委員会『北茂安町史』p.290~295
  13. ^ 江戸 面積のメートル換算”. keisanサービス. 2022年1月9日閲覧。計算すると、39万㎡
  14. ^ 東京ドーム何個分 ”. keisanサービス. 2022年1月9日閲覧。東京ドーム8.4個分。
  15. ^ 光浄寺文書 ”. 東京大学史料編纂所. 2022年1月9日閲覧。
  16. ^ 光浄寺文書 ”. 東京大学史料編纂所. 2022年1月9日閲覧。
  17. ^ 光浄寺文書 ”. 東京大学史料編纂所. 2022年1月9日閲覧。
  18. ^ 『肥陽諸系図』によると、横岳頼房は文安元年十二月廿十三日卒のため。
  19. ^ なお異説あり。『光浄寺文書』三根町史編さん委員会『三根町史』三根町、1984年。p.197~199によると、1445年に頼房が菩提寺である光浄寺で祈祷を行っているため、存命と考えられ確定しがたい。
  20. ^ 『北肥戦記』によると、頼房頓テ東肥前ヲ領知シ。文安ノ末ニ居タリ。少貳ノ代官ト稱シテ。三根郡ヘ移住シテル。
  21. ^ 光浄寺文書 ”. 東京大学史料編纂所. 2022年1月9日閲覧。によると、文明17年、少弐政資、肥前光浄寺に、寺領同国三根郡の地を安堵せしむ、
  22. ^ 光浄寺文書 ”. 東京大学史料編纂所. 2022年1月9日閲覧。によると、天文3年、肥前少貳資元、舊に依り、同國光淨寺領を守護不入と爲す、
  23. ^ 光淨寺文書 ”. 東京大学史料編纂所. 2022年1月9日閲覧。によると、寛正2年、九州探題澁川教直、肥前光淨寺に、同國矢俣保犬丸名の地を安堵せしむ、
  24. ^ a b c d 三根町史編さん委員会『三根町史』三根町、1984年。p.1052~1055
  25. ^ みやき町sampo”. みやき町観光協会. 2022年1月9日閲覧。
  26. ^ 平安鬼面”. 浅田製瓦工場 京瓦.com. 2022年1月9日閲覧。

参考文献[編集]

古典[編集]

主要文献[編集]

  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名辞典 41 佐賀県』、角川書店、1982年。
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名辞典 40 福岡県』、角川書店、1988年。
  • 北茂安町史編纂委員会『北茂安町史』北茂安町、2005年。
  • 佐賀県教育委員会『佐賀県の中近世城館 第2集 各説編1(三養基・神埼・佐賀地区)』佐賀県教育委員会、2013年3月。
  • 三根町史編さん委員会『三根町史』三根町、1984年。
  • 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』海鳥社、1989年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]