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利用者:夢之枕/sandbox/sandbox17

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東京大学での演武

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1883年7月7日(明治16年)に戸塚彦介と門人が東京大学で戸塚派楊心流の紹介をしている。当時、天神真楊流を修行し後に講道館柔道創始者となる嘉納治五郎が飛び入り参加して戸塚派楊心流と試合を行った。


筑波大学・桜庭文庫蔵「戸塚英美が千葉県令船越衛二呈出セル楊心流柔術意見書類」(写本) この書類の中に「明治16年7月7日, 東京大学校二於テ, 先師故毛利銃平氏ト手形ヲ演セラレ, 後試合数番アリ. 是時坐ニアリタルハ山田顕義君・古川顕正君等ノ貴紳ヲ初メトシ, 加藤弘之君・長与専斎君専ラ其ヲ管セラル, 外人ベルツ氏亦坐ニアリ. 技了ルノ後, ベルツ氏先師ノ妙技二感歎シ目, 我国老テ益々壮ンナル者其人ナシトセズ. 然レドモ妙技先師ノ如キニ至テハ, 蓋シ比ヲ見ズト, 大二感称ノ余, 先師ノ真影ヲ乞ヒ, 之二酬ユルニ我真影ヲ以テセリ云々・・・・・・」という記録があり, 当日, 戸塚英美・毛利銃平・嶋村峯宥・天明正雄・相田豫五郎・佐野周三郎・佐野清助・岩崎秀雄の各氏が出席した. 又, 嘉納治五郎がこの時飛入り参加し, 佐野周三郎並びに天明正雄と試合をし投げられてしまったことも記されている。



藍澤勝之の『練体五形法』によると明治15~16年頃に某館において佐野周三郎と試合を行い、嘉納治五郎はその頃から専ら教授に自任して横山作次郎山下義韶戸張瀧三郎などの技量家を輩出したと記している。

明治16年11月25日発行の『医事新聞 第百四号』には東京大学で戸塚彦介が柔術を演武した際の形と演武者が記されている。 戸塚彦介、 毛利釻平、島村峯窮、戸塚英美、天明正雄

ドイツで出版された『Das Kano Jiu-Jitsu』に、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のエルヴィン・フォン・ベルツが序文を記している。それによると嘉納治五郎とその弟子は千葉県から東京大学に戸塚派楊心流を招致することを大学にお願いしたところ遂に実現し柔術の大試合が行われた、この時に東京の若者たちの中で誰一人として、嘉納治五郎でさえも、どの千葉から来た警察官(戸塚の門人)のどの一人に対しても正面から太刀打ちできるもの東京かなわなかったと記している。

講道館柔道の機関紙『柔道』に『Das Kano Jiu-Jitsu』に、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のエルヴィン・フォン・ベルツが序文


この時に演武された戸塚派楊心流の形は下記の通りである[1]

起合
指捕、手捕、合捕、袖車、腕車、帯引
受 戸塚英美 捕 天明正雄
衣紋崩、甲回、臑押、帯車、小裾返、引回、大殺
受 戸塚彦介 捕 毛利釻平
松葉殺、小回、伏鹿、巖石、壁添、當曲尺、心車
受 戸塚英美 捕 島村峯窮
行合
小當、小返、紅葉亂、紋所、外掛、内掛、突附、大當
受 戸塚彦介 捕 島村峯窮
虎走、瀧落、脇山陰、向山陰、後山陰、劔ノ位(二本)、浦風、龍飛前
受 戸塚英美 捕 毛利釻平
關留、電光、引回、小膝回、磯浪、小車、突身、下藤
受 戸塚彦介 捕 島村峯窮
居捕
心ノ位、無刀別、袖車、膳越、車劔、抜身目附、應太刀、釣固
受 島村峯窮 捕 毛利釻平
甲廻、猿猴、大堅、貫、関留、小車、龍虎
受 戸塚彦介 捕 戸塚英美
五行七行合捕
大抜、梅ノ折枝、指捕崩
受 戸塚英美 捕 島村峯窮
獅子奮迅、偕老級、小當返
受 戸塚彦介 捕 毛利釻平
脇車、手曲尺、紅葉亂
受 毛利釻平 捕 戸塚英美
刺又落、巖石、落山嵐
受 戸塚彦介 捕 島村峯窮






戸塚派年表

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1813年
戸塚彦介
1820年
毛利釩之助
1824年
横倉喜三次
1828年
篠原泰之進
今田七郎
1830年
戸塚彦介、駿河国沼津藩に仕える。
1832年
柏崎又四郎
1837年
戸塚彦右衛門死去により戸塚彦介が継ぐ。
1840年
藍澤重次郎
1850年
照島太郎
1854年(嘉永7年)
松平甲斐守の屋敷で今田七郎の道場と天神真楊流は磯道場が試合。
1855年
大竹森吉
1860年
戸塚彦介、幕府講武所柔術教授方となる。
1860年
鈴木清助
1862年
山本欽作
1868年(明治元年)
沼津藩が上総国菊間藩に転封する。戸塚彦介も千葉に移住。
石井又左衛門、戊辰戦争で戦死。
1876年(明治9年)
藍澤勝之、山岡鉄舟の推薦で宮家の家扶となる。
久富鉄太郎、上京し東京市内の柔術の状況を調べたがどこもやっていなかった。
深井子之吉
1877年(明治10年)
金谷元朗
1879年(明治12年)
久富鉄太郎、警視庁で柔術教授開始。
藍澤勝之、千葉県警の警部となる。
1880年(明治13年)
上野八十吉
1883年(明治16年)
山本欽作、戸塚彦介に入門。
戸塚彦介、東京大学で演武。佐野周三郎、天明正雄が嘉納治五郎と試合する。
1883年(明治17年)
戸塚彦介、剣槍柔術永続社の柔術教授方となる。
1885年(明治18年)
山本欣作、千葉監獄の看守となる。
1886年(明治19年)
戸塚彦介死去。
大竹森吉、東京本所区相生町に道場開設。
大竹森吉、警視庁柔術世話係となる。
1870年(明治3年)
戸塚英美、フランス式操練伝習のため浜町の沼津藩邸から通学。
1888年(明治21年)
山本欽作、戸塚英美より免許皆伝、千葉監獄看守長代理となる。
大竹森吉、日本橋区浜町に道場を設立。
1889年(明治22年)
山本欽作、警視庁柔術世話係となる。
1890年(明治23年)
山本欽作、東京法学院に入学。
1892年(明治25年)
山本欽作、田辺又右衛門と試合。
1894年(明治27年)
大竹森吉、日本橋区浜町1丁目の道場を新築。戸塚英美と西村定中と演武する。
1895年(明治28年)
金谷元朗、今田正儀に入門。
山本欽作、海軍予備学校の柔術教授となる。
1897年(明治30年)
上野八十吉、大木友藏に入門。
大竹森吉、千葉県千葉町寒川に道場を設立。
1898年(明治31年)
久富鉄太郎、死去。
1900年(明治33年)
上野八十吉 大竹森吉に入門。
大竹森吉、千葉寒川に住居を移す。
深井子之吉、浅草區田中町に練武館を開設。
1901年(明治34年)
金谷元朗、今田七郎より免許皆伝。
1902年(明治35年)
今田七郎、死去。
山本欽作、攻玉社中学校柔術教授師となった。
山本欽作、本所相生町3丁目24番地に講武館を開設。
1903年(明治36年)
藍澤勝之、『練体五形法』を出版。
大竹森吉、日本橋区浜町2丁目に道場を開設。
1904年(明治37年)
竹田常次郎、大竹森吉に入門。1909年(明治42年)に免許皆伝を受けた。
1906年(明治39年)
上野八十吉、下谷区に第二練武館を開設。
1909年(明治42年)
亀崎忠一、通行人妨害により警察に捕まる。
竹田常次郎、大竹森吉より免許皆伝。
1910年(明治43年)
深井子之吉、帝國尚武會実習部主任となる。
1911年(明治44年)
深井子之吉、柔術の教授書『奥秘龍之巻』『奥秘虎之巻』を発行。
1913年(大正2年)
金谷元朗、麻布笠町に修道館を開設。
1924年(大正13年)
竹田常次郎、東京府北豊島郡岩淵町稲村に道場を開設。
1925年(大正14年)
戸塚派楊心流の朽木倒しが双手刈という名称で講道館の技として採用される。
1926年(大正15年)
金谷元朗、大日本武徳会柔道教士となる。
保立謙三
1930年(昭和5年)
大竹森吉、死去。
1937年(昭和12年)
金谷元朗、大日本武徳会柔道範士となる。
1942年(昭和17年)
上野八十吉、死去。
1945年(昭和20年)
深井子之吉、死去。
1949年(昭和24年)
保立謙三、金谷元朗に入門。
1953年(昭和28年)
保立謙三、金谷元朗より免許皆伝。
  1. ^ 医事新聞社 編『医事新聞 第百四号』医事新聞社、1883年