利用者:奈良たかし/下書き2
落ち武者狩り(おちむしゃがり)は、戦国時代に農民が自分の村の地域自衛の一環として、敗戦で支配権力が変わった時に敵方の逃亡武将を探して略奪し殺害する慣行であり[1]、そのとき鎧や刀など装備を剥いで売ったり金品など得るためでもあり、「落武者襲撃慣行」ともよばれる[2]。室町時代にすでに原型が見られ、中世以来の敗者を法外人とみる習慣の存在があり[3]、特に戦国時代には慣行として許され広く展開し、豊臣秀吉の「落武者襲撃慣行停止令」まで存続していた。
概要
[編集]室町時代、没落したり後ろ盾が無くなった公家や武家は落武者として扱われ、その地域の町人に襲われた。また失脚した武家の屋敷が略奪にあった。さらに流刑で流刑先に移動している罪人も落武者とみなされ対象となった。[3]
戦国時代には、農民は農村で、名字を持ち帯刀する別の階級の「おとな百姓」と目下の「子百姓」の2種類に分かれ、農業は「子百姓」に任せ、「おとな百姓」は、雑兵浪人として戦争への参軍と戦闘と落ち武者狩りが専業であった[4]。当時は敗戦して敗残兵となると武士は身分にかかわらず落ち武者狩りの対象とされ、たとえそれまで支配地でも、地域一帯が落ち武者狩りの百姓勢の跋扈する危険地帯となり、逃げる場合でもこの危険に直面し、これら百姓雑兵たちに捜索され、見つかると襲撃されて殺害され略奪された。
これが許されていたのは、中世以来、自力救済の考えと掠奪慣行が社会にあり、敗者は、法の保護から外れる存在で、「法外人」から財産や命まで奪っても何も悪くないと考えられていた[3]。
特に、本能寺の変で明智光秀の小栗栖または山科または醍醐での百姓による鑓または打ち殺し(『多聞院日記』、『たいこうさまくんきのうち』)による殺害が有名である。この変で、徳川家康一行が堺から三河まで脱出したが、その道中で落ち武者狩りによる襲撃を危惧していたが、家康一行と距離を置いていた穴山信君と配下が、山城国綴喜郡の木津川河畔の渡し(現在の京都府京田辺市の山城大橋近く)にたどり着いた時に、落ち武者狩りの百姓勢に追いつかれ殺害された。
豊臣秀吉の落武者襲撃慣行停止令
[編集]豊臣秀吉は、「関白の平和」を目指す政策で、1585年天正13年から翌年にかけて惣無事令を出し、1588年天正16年刀狩令や、村の雑兵浪人を追い払う「浪人停止令」などに続き[5]、「落武者襲撃慣行停止令」を出した。このため石田三成も関ヶ原の戦いでの敗戦後に隠れ住んでいる穴ぐらへ飲食を運ばれている所を百姓に見つけられたが自力襲撃はされず、役人への通報という形で秀吉の公機関に捕縛されている[6]。