利用者:射丸蔵/sandbox/釣崎清隆
釣崎 清隆(つりさき きよたか 1966年 - )は日本の写真家、映像作家、文筆家。
死体写真家として知られ、ヒトの死体を被写体にタイ、コロンビア、メキシコ、ロシア、パレスチナ等、世界各国の犯罪現場、紛争地域を取材し、これまでに撮影した死体は1,000体以上に及ぶ。
富山県出身。慶應義塾大学文学部卒。学生時代より映画制作、文筆活動に従事。大学卒業後、AV監督を経て、1994年、写真家として活動を開始。1995年、NGギャラリーにて初個展。
経歴
[編集]十歳の時、映画ジョーズが公開されたことに刺激を受け、一人で劇場に足を運び、自然と「映画監督になりたい」と思うようになる。中学生になると一層映画館へ通うようになり、劇場に弁当を持ち込んで『ジャンク』を一日中見るほどだった[1]。また家庭でも親子でデスファイルやグァルティエロ・ヤコペッティの作品を観るなど、両親は子供だからと残酷描写を子供の目から隠したりしなかった[3]。
高校一年の頃から自主映画の撮影を始め、慶応大学に進む。当時はバブル景気で社会全体が軽佻浮薄な方向に流れ「ひとつのことに打ち込むことがバカにされる時代」であったが、同じ方向を目指す者同士が集まり映画制作を続けた。サークルの先輩の紹介でアダルトビデオの批評を書いていたことからAV業界に詳しくなり、人権団体と争ってでも作品を出すV&Rプランニングの姿勢や、当時日活ロマンポルノが潰れて、その人材の受け皿となっていたシネマジックを見、「AVから日本の映像文化が変わると確信」してAVの世界に飛び込むことになる。当初はV&Rプランニングへ入社する予定だったが、彼女の説得によりシネマジックに入社する[5][7]。
シネマジックには二年半勤めたものの、二十七歳になり、AV業界での活動に限界を感じ始めていた。その時、悪趣味を売りにする雑誌『TOO NEGATIVE』の編集者小林小太郎[8]にタイで死体写真の撮影を勧められ、それまでは写真は映像より劣る物と考えていた[9]ものの、ロサンゼルス行きを考えていたこともあって承諾、タイでの撮影後、ロサンゼルスへ行き、さらにそこから近いということで1995年1月コロンビアへ拠点を移した[4]。
後に、釣崎は「自分たちは純粋培養でどうしようもなく甘い世代だから、ただ絶望して潰れてしまうより自発的に突破口を切り開いていかないと何も変わらないという思いがあった。例えば、実際の死に触れないでホラー映画監督になるほど、僕は恥知らずじゃない」と語っている[10]が、このコロンビアでの体験は衝撃的なものとなった。当時のコロンビアは政府とメデジン・カルテルという巨大犯罪組織との間に繰り広げられた麻薬戦争が終わって間もなく、その残党や後を取ったカリ・カルテルの跳梁は元より、左翼ゲリラFARCが国土の三分の一を支配し、極右民兵組織なども入り乱れる内乱状態にあり、麻薬や誘拐、暗殺といった犯罪が日常化した世界だった。首都ボゴタで死体の撮影を求めてマフィアとの接触を図っていた釣崎は、エンバーミングを専門とするオロスコと出会い、その生き様に惹かれて長期の撮影に入る事になる[6]。
思想
[編集]危険地帯での撮影
[編集]危険な国に入国して殺される日本人に対して、現実認識の甘さを指摘している[11]。「なんとかなるさ」と思ったことは一度もないと、情報収集の重要さを訴える[13]。
安全な社会に暮らす者たちの想像力の欠如、現に存在する命の危険を冒さねば "人権"など安易に批判できる言葉で
パレスチナなどの戦場も撮影したことがあるが、戦場は死体を撮るにはむしろ不向きな場所で、また同業者の縄張り意識もあって、戦場写真家になる気はないと語る[12]。
表現規制に対する意見
[編集]死体はいかがわしいものでもなんでもなく、自然なものであり、 見た者の心を写す 残虐な映像や写真であっても子供には見せた方がいい、むしろ子供は積極的に見た方がいいという信念で、年齢制限は設けるべきでないとする。 [18] [19]
日本の表現規制や、お上の顔色を窺った性的なものや残酷なものに対する自主規制に問題意識を抱き、様々な提言を行っている。 ただし、あまりにすべてを開放してしまうと、無法国家のようなことになるとも語る。 [20] [21]
『死化粧師オロスコ(完全版)』も、制作のAV制作業者であるV&R プランニングが日本ビデオ倫理協会から、「死体ビデオはもう撮るな」と言われていた為に映画化から、DVD化までに十年近い年月が経った[22]。
なぜ目を背けるか
[編集]死体は人を写す鏡
[編集]日本における残虐趣味
[編集]日本における残虐映像や写真を愛好する趣味については
ただ死体を興味本位で見るのではなく、死体を含む写真を芸術として見て欲しい、と訴える[11]。
作品
[編集]映画
[編集]- 『死化粧師オロスコ』1999年 スペイン語 監督・撮影 釣崎清隆[28]
- 『ジャンクフィルム 釣崎清隆残酷短編集』1995―2007年 監督・撮影・編集 釣崎清隆 2007年 第37回ロッテルダム国際映画祭タイム&タイド部門選出
- 『ウェイストランド THE WASTELAND』2012年 監督・撮影・編集 釣崎清隆 音楽 Corrupted "El Mundo Frio"(H:G fact) 制作 オロスコ製作委員会
著書
[編集]- 『世界残酷紀行 死体に目が眩んで』 リトル・モア 2000年
- 『ファイト批評』 共著アイカワタケシ 洋泉社 2005年
- 『死者の書』 三才ブックス 2011年
- 『エメラルド王』 共著 早田英志 新潮社 2011年
写真集
[編集]- 『danse macabre to the HARDCORE WORKS』 NGP 1996年
- 『REVELATIONS』 IMHO DWW社 2006年
- 『REQUIEM DE LA RUE MORGUE』 IMHO DWW社 2006年
- 『10 stories of DEADLY SPEED』 自主制作 2006年
- 『DEATH:PHOTOGRAPHY 1994-2011』 Creation Books 2012年
出典・脚注
[編集]- ^ ジャンクは後にV&Rプランニングを設立する三枝進の制作指揮。
- ^ a b c 『死化粧師 オロスコ(完全版)』 釣崎清隆 インタビュー 第3回|HMV ONLINE [English Site]
- ^ 小っちゃい頃から大学生くらいの頃までずっと、死体のビデオとか、それこそV&Rが撮った『デスファイル』のシリーズとか、それこそ僕の小っちゃい頃とかは、グァルティエロ・ヤコペッティっていう、イタリアのショックメンタリーの作家の作品とかが大好きで、家族揃って観てるわけですけど。そういう意味で何ていうか、そういうものを観る目が肥えてるっていうか(笑)。むかしから好きだったんですよ。
うちの親父がまた、労働者なんで。肉体労働者って、ああいうのがやっぱり、何か好きなんですよね。世界的にみてもそうですよね。労働者の文化です、大衆文化というか。 [2] - ^ a b c art drops インタビュー 2008 vol.4 テーマ:「現実と虚構の狭間」 ドイケイコ
- ^ 「サークルの先輩の紹介でライターになったんだけど、とにかく毎月平均約50本の作品を観ていて、ひとつの文化圏ともいえるAVのクリエイティビティーに衝撃を受けた。とくにV&Rプランニングは人権団体と一悶着あったり、宮崎勤事件で話題になった『ギニーピック』をリリースしていたことでも知られるエキサイティングなメーカーだった。あと、SMビデオの老舗会社シネマジックの作品は洗練されてて好きだった。ちょうど日活ロマンポルノが無くなった時期で、技術はあるのに仕事を失ったスタッフの受け皿になっていた。その当時僕はAVから日本の映像文化が変わると確信したんだ」[4]
- ^ a b c 釣崎清隆×バクシーシ山下 『死化粧師オロスコ』対談|人間の生と死、尊厳と猟奇、人間存在そのものを問う残酷物語『死化粧師オロスコ』のDVD発売記念企画! - 骰子の眼 - webDICE
- ^ 同年代で、V&Rプランニングに入社していたバクシーシ山下とはすれ違う形になり、付き合いが始まるのはコロンビアに拠点を移した1995年から96年頃になる[6]
- ^ 小林はシネマジックの社長、横畠邦彦氏がかつて雑誌編集者だった時代の後輩にあたる。[4]
- ^ 「もともと僕は、映像畑の出身で、写真とかってそれまで全く撮ったことないというか。映像やってる人には得てしてありえるんですけど、”スチールのことを差別する”っていうか、”バカにする”っていうかね。もう最初っから、高校生の時に自主映画を撮った頃から、写真とか全然興味がなくて。
だからほんとに、AVメーカー辞めてからはずっと純粋に、死体しか撮ってないんですよね。なぜそうなのかって言うとそれは、仕事をもらったからなんですけど。それを受けたのは、まあ、死体は動かないじゃないですか?ほんと単純な理由で、「動かないものをなめるように撮ったところで、結局一緒じゃん」って思ったんですよ。思ったというか、成り立つじゃないですか、そういう考え方は。だから、「死体はスチールが向いてるんじゃないかな」っていう、ほんとに簡単な理由なんですけど。[2] - ^ a b c Kiyotaka Tsurisaki interview 2/2 -art drops-
- ^ a b c 死体写真家釣崎清隆氏インタビュー 2005年11月28日
- ^ a b c d e X51.ORG : "死体なき国の死体写真家" — 釣崎清隆インタビュー
- ^ 「釣崎さんは、現地に行く前に下調べとかってするんでしょうか。例えばベタですが、地球の歩き方なんかも持って行くわけですか。
釣崎 うん。今まで行った国のやつは全部持ってるよ。まあ、地球の歩き方に限らず下調べはわりとするね。行き当たりばったりなんて絶対に無理だよ。」[12] - ^ 『死化粧師 オロスコ(完全版)』 釣崎清隆 インタビュー 第5回|HMV ONLINE [English Shttp://wp.me/p1BFMs-3Z2ite]
- ^ --- 釣崎さんは、本当に命懸けで危険な国に行かれて、作品を撮られているんですもんね・・・。
釣崎 そうそう。命のリスクを冒して撮ってきたものに対して、よくそんな言葉が言えるなって思いますよね。それって、1500年間続いてきた”裸まつり”を、「あれはセクハラだ」って言うのと同じですよ(笑)。何の疑問もなく言いますからね、いい歳した大人が。
だから、”想像力の欠如”っていうのは、このことだって思いますね。まあね、全く想像出来ない場所に行って撮ってるっていうことは事実なんですけど、だったらそれは普通に、人は観たいものだろうし、観ておもしろいものだとも思うし・・・。「その観る機会を、観る目を自分が摘んでどうするんだ」って思いますね。
条件反射的にそうなってるんでしょうね、だから”条件反射”ですよ。「そう言っとけば間違いない」っていうのがあるから、実際。「人権とか、俺が考えないで撮ってると思ってんのか?」っていうね。確かに考えないで撮ってる人は多いですよ。戦場カメラマンも含めて、メキシコとかタイとかのパパラッチというかイエロージャーナリズムの人たちっていうのは、不謹慎な人もいるし、金のためにやってるっていう人もいるし、まあ人それぞれですけどね。でも僕は結構、その辺は真面目に考えながらやっているつもりでいるんで。 [14] - ^ 『死化粧師 オロスコ(完全版)』 釣崎清隆 インタビュー 第4回|HMV ONLINE [English Site]
- ^ 「”絵ズラ”っていう言い方を・・・日本のジャーナリズムはするじゃないですか。特に報道関係のね。例えば、宮﨑勤事件の時も、『ギニーピッグ』が問題になりましたよね?「表現の自由は表現の自由。でも、これは特別」って言われたでしょ?俺は、何が特別なのかさっぱりわからない」[16]
- ^ 「死体はいかがわしいものでもなんでもないんだから、子供だから見せちゃいけないということはないと思う。死体を見たくない大人が勝手にそう決めてるだけで。」
「子供はなんでも見た方がいいと思う。俺の経験からも、妙なものを見たって子供は健全に育つよ。俺に作家性ってものがあるとすれば小さい頃からの映像体験を土台になってると思うし、だから俺の作品を子供が観られないというのは悲しい。」[6] - ^ 「自分は小さい時に影響を受けた映画を今の子が観られないのはいかにも残念。僕みたいなかた田舎育ちの者が幼いころにそういった作品に出会えるか出会えないかはとても大きいと思う」。
ただ、あまりにショッキングであるが故に、子供に観せたがらない親もたくさんいる。
「小さい時にあらゆる表現に同等に出会うべき。世界中、どんな僻地でも、誰もが同じ土俵で触れることができる芸術こそが映画で、それがまさに映画の素晴らしさで、僕はそれで人生を決めたんだ。だから、子供がきっかけとして出会う表現はなんであれ規制してはいけないと思う」。[10] - ^ 「そもそも“残酷”と呼ばれる表現に法的な規制などないのに、当然のように観るなとはどういうことだ、と思う。結局は、子供と一緒に観て動揺する親自身がそれを恐くて観れないだけであって、子供が恐がっているわけじゃない。自分がコントロールできないものを子供に見せたくないだけ。パソコンができない親たちが子供たちへのコンプレックスで国民の知る権利自体を規制するとか、クソ食らえだよ。これが僕と同じ映像体験を持っているはずの同世代だったりするから、がっかりだよ。日本は世界標準に比べて残酷、暴力の表現に寛容な国といわれるけど、その遺産としての日本文化が世界に今どれだけ開花しているか、知るべきだと思う」。[10]
- ^
――日本の規制に対しては?
釣:残酷描写の規制についてはなんとかしたいって常に思ってる。
でも、一番なんとかしなければならないのは、エロ・メディアの局部の“ケシ”だね。 残酷描写に関しては日本では自主規制で、欧米と少し事情が異なるかもしれない。特に出版は取次業者がそういった自主規制の判断をするんだけど、状況によってころころ変わる。 少年が猟奇犯罪なんかしでかそうものなら、真っ先に残酷メディアが槍玉に上がって、いやぁ~これは通せないですねぇ、ということになる。 でも何年か経ってその手のメディアが市場からまったく消えると、そろそろ死体写真集とかほしいですね、なんて平気で言うんだよ。 このさじ加減をわきまえればなんとなくやっていけるのかもしれないけど、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるよ。 とりあえず日本には残酷描写に関する法的規制はない。
――規制をなくすとどうなると思いますか?
釣:オープンにしすぎるとコロンビアになってしまうかもね。コロンビアは規制というものが何ひとつ存在しない。人の命も奪ってOKな国。 そこまでいってる自由主義の国だからさ。 だから規制を撤廃していくとアメリカ合衆国になり、もっと撤廃するとやがてはコロンビアになる。そんな気がする。 [11] - ^ 『死化粧師オロスコ(完全版)』 釣崎清隆 インタビュー 第1回|HMV ONLINE English Site
- ^ art drops インタビュー 2008 vol.4 テーマ:「現実と虚構の狭間」 ドイケイコ
- ^ ── でも法律とかモラル抜きで、根本的な問いとして、人はどうして死体から目を背けたいんですかね。
釣崎 それはもう、DNAに組み込まれてるだと思うんだよ。だってネアンデルタール人だって、人が死んだら土に埋めたりしてるわけじゃん。屈葬で。そんな原初的な人間がさ、見たくないって、死体を埋めるってことは、もうDNAに入ってるとしか思えないんだよな。それはほんとにもう逃れられないことだと思うんだよ。
── 見たくないから、埋めていたと。
釣崎 いや、見たくないし、忘れたいし、それは大事なものだからだろうね。[12] - ^ 「死体っていうのは、それ以上でもそれ以下でもなくて、要するにブラックボックスだから、見る側の、自分を写す鏡だと思うわけ。そこに自分を見ているんだと思うんだよ。だから死体を見ていかがわしいと思う奴は、自分の心が卑しいんだと思う。」[12]
- ^ 死体だけを穴が開くまで見ても、何も見えてこないんですよ。死体っていうのはある意味で、”生きてる人を映す鏡”だと思うんで、人が見て、「気持ち悪い」って思う奴は、「本人が気持ち悪いんだ」っていうね。なんかそういう風な見方も成り立つんじゃないかなって、最近は思うようになったんですよね。その時に、その人の人間性が見えてくるっていうか。死体に対応してやってる人間のそれぞれの対応の仕方っていうのは、非常に何かね、感動的なんですよね。[2]
- ^ 「── それは実際には死体を目にしない分、想像だけが暴走しているという意味ですか。
釣崎 死体が自分を写す鏡だっていうのは、それが明日の我が身だからなんだよ。まあ手触りを感じないままに変に情報過多になっちゃってると、そういう当たり前のことを忘れちゃって自分の暗い面ばかりが肥大化しちゃうんだろうね。」[12] - ^ 撮影協力 アルバロ・フェルナンデス・ボニージャ 編集 三枝進・釣崎清隆 制作 オロスコ製作委員会 制作協力 V&Rプランニング 2001年モントリオール世界映画祭Cinema of Tomorrow部門・第4回ボゴタ国際ドキュメンタリー展正式出品
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