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利用者:岡部碩道/下書き2

最古の拓本(『温泉銘』、唐の太宗書、部分)

拓本(たくほん)とは、石碑木材・器物などに刻された文字文様を、朱墨などを使ってに写しとったもの。またはその方法をいう。

概説

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拓本は印刷の一種であるが、木版などの印刷の原版が左文字(左右が逆になっている文字)になっているのに対し、拓の原版は右文字になっている。よって、拓本は石碑などの対象物に直接、墨を塗って採るものではない。その方法に湿拓乾拓があり、いずれもまず対象物に紙や布をあて、その上から墨を使って拓をとる。凹んだ部分が白く、凸部分が黒く紙上に現れ、文字や文様が原形そのままの大きさで複製される。

古来の碑帖の名品も多くはこの方法(湿拓)によって現在に伝えられている。石碑などは後世に遺すことが目的であるため、撰文も書作も当時の名手によるもので、学書などの貴重な資料になるものが多い。そのため中国では碑刻の文、書を尊び、唐以前から拓本の技術が生まれ、記録・鑑賞・学書の手本などに用いられた。

拓本は、拓本者の表現意志によって同じ対象物でも味わいの異なったものに表現することができるため、書者と刻者と拓本者の合作といえる[1][2][3][4][5][6][7]

歴史

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『三体石経』の拓本

拓本の技術の起原は明らかではないが、5世紀ごろにはすでに完成されていたと推測される。『後漢書』の蔡邕伝の『熹平石経』に関する記述にある「模写」を拓本と解す説もあるが、その真偽ははっきりしない。唐代の『述書賦』の注に、「打本三体石経四紙」とあるように[8]、唐代では拓本のことを打本または搨本(とうほん)と呼び、広く普及していた。拓本と呼ばれるようになったのは宋代からである。また、宋代には法帖が盛んになって、真跡を石や木に刻してこれを法帖にしたことから、模本・墨本・石本などの語も用いられた。

現存する最古の拓本は、『温泉銘』の拓本で、オーレル・スタインによって敦煌から出土したものである。その余白部分に、「永徽四年(653年)八月、囲谷府果毅児(下欠)」の年記があることから、『温泉銘』の建碑(貞観22年(648年))からわずか5年後の拓とされている。原石は年月とともに損傷するため、拓本は古いものほどその真を伝えるものとされ、唐拓や宋拓は珍重される。よって、『温泉銘』の拓本を仔細に観察すると、文字の輪郭が実に鋭いことがわかる。この文字の輪郭部分を「字口」(じこう)と称し、一般に「字口」が鋭く鮮明な拓本が尊ばれる。

その他の唐拓として、欧陽詢の『化度寺碑』、柳公権の『金剛般若波羅蜜経』がある[1][2][6][9][10]

拓取の方法

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湿拓乾拓とがある。

湿拓

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湿拓は画仙紙などのような吸湿性のある紙を対象物の面に水で貼り付け、密着するように刷毛でたたき、綿で圧して刻線にその部分の紙を押し込む。やがて適度に水の乾こうとする機を見て、墨汁または油煙墨を含ませたタンポで一様にたたく。乾き切らないうちに紙をはがし、新聞紙などの上に広げて乾かす。水拓ともいう[2][3][6]

乾拓

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蝋墨(石花墨・釣鐘墨)

石花墨
釣鐘墨

石花墨の日本名で、釣鐘形…。

拓本の種類

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濃墨を数度に渡って上墨し、光沢のある拓影に仕上げるのを烏金拓といい、対象の部分だけ、あるいは全体に薄く上墨した拓本を蝉翼拓という。

烏金拓

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蝉翼拓

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隔麻拓

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拓本の目的

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蘭亭序』の拓本

書道は古典を手本として学書することが多いが、その古典は拓本真跡に大別され、唐代以前の筆跡は拓本、五代北宋以後のものは真跡が多い。ただし、北宋の時代までは欧陽詢虞世南王羲之の真跡までもが皇帝のもとに収蔵されており、拓本を求めるまでもなかった。その真跡の目録は徽宗の代に著された『宣和書譜』にある。

その徽宗のとき、女真族に宋朝は侵略され、このコレクションは女真族の手に移ったが、女真族は漢字が解らず、全く価値を見出ださなかった。よって、その保管状態はずさんなもので、元朝に滅ぼされたときに亡失してしまう。…[11]。 。

書法への影響

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天発神讖碑』の拓本

拓本は文字の輪郭だけで、その用筆法までは写しとれない。特に篆書の運筆の解明には先人達の苦労があった。筆先は尖っているが、篆書の起筆収筆の形は丸くなっているのである。この矛盾を解決したのが鄧石如でその書法は逆入平出の用法と形容された。

また、の時代に刻された『天発神讖碑』は篆書ではあるが隷書の要素を多分に含んだ奇怪な字で、その拓本から多くの書家が運筆の再現にいどんだ。金農徐三庚の作品にはその影響が鮮明に表れ、さらにその徐三庚に多大な影響を受けたのが、日本の西川春洞である。

さらに、北魏楷書の拓本から新しい書法を導き出したのは、清末の張裕釗趙之謙で、…

この鄧石如、金農、徐三庚、また張裕釗、趙之謙らが拓本に表れた字形からその中に隠された運筆を探り、…[12]

脚注

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  1. ^ a b 今井凌雪 巻頭折込
  2. ^ a b c 中西慶爾 p.653
  3. ^ a b 河合仁 p.140
  4. ^ 飯島春敬 p.481
  5. ^ 藤原鶴来 p.50
  6. ^ a b c 二玄社書道辞典 p.172
  7. ^ 前田次郎 p.90
  8. ^ 「打本《三體石經》四紙。」(『述書賦』
  9. ^ 富田淳 p.108
  10. ^ 藤原楚水 p.870
  11. ^ 魚住和晃 pp..28-35
  12. ^ 魚住和晃 pp..36-38

出典・参考文献

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関連項目

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