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利用者:岡部碩道/下書き3/執筆中1

蓮下絵和歌巻断簡本阿弥光悦筆、俵屋宗達

寛永の三筆(かんえいのさんぴつ)とは、安土桃山時代から江戸時代前期に活躍した能書3人(本阿弥光悦近衛信尹松花堂昭乗)の総称である。

概要

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江戸時代前期の寛永年間(1624年 - 1643年)を中心とした約80年間の文化を寛永文化というが、光悦・信尹・昭乗の3人はこの時期に能書をもって聞こえた。『後漢書』に、「三は、数の小終なり」とある。もともと、「三」という字は、「おわり」という意味があり、三という数字によってすべてを代表させることを意味する[1]。よって寛永の三筆とは、寛永文化を代表する能筆ということである。

背景

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この一時代前は室町時代であり、戦乱につぐ戦乱に明け暮れた時代であったが、こと書道という一面においてこれを眺めると、おびただしい流派が乱立し、その数50を数えるほどであった。一見、書道が隆盛を極めたとも考えれるが、実は打続く戦乱に、京都公卿が所領と権威を失い、下国せざるを得ない状態になり、その中で彼らの生活権を保持するものは伝統的な芸能、家職の伝授ぐらいのものであった。書道もまた重要な財源の一つとなったため、家々は競って書流を立てた。しかし、どれもが似たり寄ったりのひ弱な書風でしかなく、こうした書にあきたらぬものを感じたのが寛永の三筆であった[2]

新しい和様の開拓

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世は信長秀吉家康と覇権をふるい、豪放闊達を誇った。光悦、信尹、昭乗ら三筆は時勢を享受しながらも平安貴族文化の高尚優雅な古典に強く憧れた。しかも、その模倣にあまんずることなく、それぞれ天与の才能と個性を発揮し斬新な世界を創り出した[3]。信尹の大字仮名はその先鞭をつけ、続く光悦の大胆な新しい美、昭乗の上代様は柔軟で人好きのする書と、寛永の三筆によって安土桃山時代・江戸前期の書は和様を中心として復興したのである[4]

狂い咲きの花

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しかし惜しいことに、これらの先達の没後、その業績を継承してさらに発展させることのできる人材が続かなかった。寛永の三筆は日本書道史上に咲いた狂い咲きの花のようなもので、それらが散った後はまた元に戻ってしまったのであった[5]

寛永の三筆

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光悦の書を光悦流、信尹は近衛流または三藐院流、昭乗は松花堂流または滝本流と呼ばれ、江戸時代初期にかなり流行した[6][7][8]。そして光悦流と近衛流は没後100年、つまり元禄ごろまでは命脈を保ったが、以後はいつしか消えてしまった。これに対して松花堂流は江戸時代を通じて、いく種もの木版本手本が刊行されて、一世を風靡した[2]

本阿弥光悦

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初め青蓮院流を習い、一派を創始した光悦の書は、漢字も優れているが、ことに仮名が傑出している[6]。光悦の作品は実に数多く残っており、色紙・和歌巻・詩書巻・短冊謡本手紙など数限りない[9]

光悦の書は慶長10年(1605年、47歳)ごろから16年(1611年、53歳)ごろまでが最も好調であり、筆線が豊かに太くなり、とがりが消え、字の構造も字粒も大きくなり、実に堂々としたものとなる。元和年間に入ると光悦には中風の現象があらわれ、以後だんだん調子が衰える。しかし回復した時期もあったようで、好不調の繰り返しとなる。元和2年(1616年、58歳)頃に製作したと言われる『蓮下絵和歌巻』の書風は好調のころの手紙と一致する[9]寛永期(70代)の筆跡には、線にぶるぶると震えが見える[2]

宗達の金銀泥絵

信尹にしても、昭乗にしても、伝統の力を忘れてはいない。けれども彼らの書は伝統を超えられなかった。光悦はそこが違った。伝統を離れず、伝統に埋もれず、光悦の書は彼自身の道をどこまでも行った。光悦の料紙がありきたりをこえて俵屋宗達の金銀泥絵を選んだのは、たどればそういうところに発していた。しかし、金銀泥、色彩をたらしこんで、量感豊かに繊細に描いている宗達画の中に文字を書くには、余程の筆力が必要である[10]

どうして光悦の書は宗達の金銀泥絵を離れることになるのであろう[10]

徳川家康に拝領した鷹峰の山麓に移住して暫くすると光悦の書に変化が生じる。それを確かめるには、『蓮下絵和歌巻』を見ればよい[10]

「伝道風書古今集」を愛蔵していたことから、後世、この断片を『本阿弥切』という[11]

鶴図下絵和歌巻

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松下絵和歌巻

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蓮下絵和歌巻断簡

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『蓮下絵和歌巻断簡』

『蓮下絵和歌巻断簡』(はすしたえわかかんだんかん)は、もと1巻の巻物であったもの。金銀泥の筆を大胆に揮って、・半開き・満開、やがて散花というように、蓮池の中に咲く蓮の一生を長い巻物の世界に収めている[2]。この蓮下絵は、鹿下絵、鶴下絵と同様に宗達画の一代傑作である。この絵の中に出現する光悦の文字は、鶴下絵、鹿下絵のそれに比べるとまるで生まれ変わったかのように静かだ。この書からそれまでのような極端な肥痩の強調が消えた。量感豊かな濃密な漢字と鋭く繊細な仮名によって生まれる肥痩が、二者の距離を縮めて近づいてきており、これによって光悦の書は宗達画の中に以前よりも深く溶け込んでいる[10]

立正安国論

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四季草花和歌巻

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近衛信尹

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少年期から当時盛行していた定家流一本槍で進んだ信尹は、青年期になると次第に自己の個性を加味して独自の境地を開いた[2]。その書風は若い頃は迫力に満ちており、年とともに繊細さを加えていくようである[12]

近衛流

近衛流の様式が芽生え始めたのは、陽明文庫に残る天正18年(1590年)ごろの小田原在住の秀吉に宛てた書状案、文禄元年(1592年)の日記などからで、始筆を鋭くしないで、横画は水平に穏やかに、縦画は紡錘形[13]にふっくらと、字形を横広にする特色が見える[14]

天正末期、文禄、慶長初期の信尹の筆跡を並べてみると、時代の流行の書から近衛流へ次第に移行していく様子が見られ、その後、ほぼ1つの様式に固まってくる。これが後世、近衛流と呼ぶものであり、慶長初期ごろ、年齢でいうと20代後半から30代半ばでこの近衛流が完成されたと思われる[14]

連歌玄仍の死去に言及することから慶長12年(1607年)のものとされる書状では、近衛流の特色である線の紡錘形が顕著となり、しかも縦画は右に凸の回転運動をとるようになる。線の浮き沈みも大きく、細部までよく気力が充実して緊張感が漲る。晩年になってもこのような近衛流の特色は維持されている[14]

三十六歌仙屏風

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『三十六歌仙屏風』(さんじゅうろっかせんびょうぶ)は、唐紙1枚に1首ずつを大書してある。当時おそらくこの大書は、仮名としては最大な試みであったであろう。その筆力は紙外に溢れ、豪放大胆、散布の妙があり、傑作と称すべきである[15]

源氏物語和歌色紙貼交屏風

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檜桐原図屏風

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大字仮名の作品として古いものである[12]

松花堂昭乗

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幼少のころから書画を好み、上代様の復古に努めた。初め尊朝法親王につき御家流を学び、のち大師流を究めて、その書風の作品を多く遺している[8][16]。穏やかな形の美しい書である。尊円法親王以来の伝統を守り通した書流だけに書の個性的な面白みがないが、幅広い交友から意外にも江戸幕府に招かれて右筆役の師範に出世した。以来この書流が江戸幕府300年の公用書体となった[2]

和漢朗詠抄色紙

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『和漢朗詠抄色紙』(わかんろうえいしょうしきし)は、六曲屏風に72枚貼られてある。建仁寺蔵。代表的な遺墨で、色紙の布置もおもしろく、もっとも意匠を凝らしたものという[17]

三十六歌仙色紙

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『三十六歌仙色紙』(さんじゅうろっかせんしきし)も代表的遺墨で、仁和寺蔵。下絵のある地紙に、三十六歌仙の歌を書している[17]

新歌仙

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『新歌仙』(しんかせん)は、松花堂の真跡中、最も清爽流麗なもの。松方家蔵[17]

琵琶行

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阿房宮賦巻

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大師流で書いている[18]

関連年譜

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時代 元号 西暦 関連事跡
室町 永禄元年 1558年
永禄8年 1565年
安土桃山 天正10年 1582年
慶長3年 1598年
江戸 慶長19年 1614年
  • 近衛信尹没(49歳)。
元和2年 1616年
寛永14年 1637年
  • 本阿弥光悦没(79歳)。
寛永16年 1639年
  • 松花堂昭乗没(57歳)。
  • 安土桃山時代(1568年 - 1603年)
  • 江戸時代(1603年 - 1867年)
  • 寛永文化
  • 慶長年間(1596年 - 1615年)
  • 元和年間(1615年 - 1624年)
  • 寛永年間(1624年 - 1643年)
  • 寛文年間(1661年 - 1672年)

脚注

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  1. ^ 『特別展 日本の書』P.12
  2. ^ a b c d e f 『特別展 日本の書』P.28 - 29
  3. ^ 加藤湘堂「寛永の三筆」(「図説日本書道史」『墨』P.151)
  4. ^ 黒野清宇「江戸の書論と信尹」(「図説日本書道史」『墨』P.146)
  5. ^ 堀江知彦「明治以後の仮名書道 書における時代性と芸術性」(「近代日本の書」『墨』P.162)
  6. ^ a b 「書道辞典」 P.43
  7. ^ 「書道辞典」 P.51
  8. ^ a b 「書道辞典」 P.64
  9. ^ a b 渡部清「光悦流」(『影印 日本の書流』P.169 - 184)
  10. ^ a b c d 鈴木史楼 P.24 - 30
  11. ^ 藤原鶴来 P.316
  12. ^ a b 「図説日本書道史」P.145
  13. ^ 紡錘形(ぼうすいけい/つむがた)とは、糸をつむぐ錘(つむ)のような形で、中央が太く両端が次第に細くなる形をいう。
  14. ^ a b c 渡部清「近衛流」(『影印 日本の書流』P.59 - 86)
  15. ^ 藤原鶴来 P.315
  16. ^ 藤原鶴来 P.317
  17. ^ a b c 藤原鶴来 P.318
  18. ^ 「図説日本書道史」P.151

出典・参考文献

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  • 西川寧ほか 「書道辞典」(『書道講座』第8巻 二玄社、1969年7月)
  • 渡部清 『影印 日本の書流』(柏書房、1982年3月)
  • 小松茂美ほか 『特別展 日本の書』(東京国立博物館、1978年10月)
  • 「図説日本書道史」(『墨スペシャル』第12号 芸術新聞社、1992年7月)
  • 「近代日本の書」(『』芸術新聞社、1981年10月臨時増刊)
  • 「光悦 人と書」(『墨』芸術新聞社、1981年1月号)
  • 鈴木史楼 「江戸の書(2)本阿弥光悦」(『書道藝術』日本書道新聞社、1991年1月号)
  • 藤原鶴来 『和漢書道史』(二玄社、2005年8月)ISBN 4-544-01008-X

関連項目

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