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利用者:朔山/sandbox

警察国家化[編集]

結社や議会制民主主義が規制されていく中で集団行動を基本とする社会民主主義自由主義共産主義社会主義)などは抵抗する気概を失うか、キリスト教民主主義、民族主義、国家主義の様にファシズム運動による全体主義に合流した。しかし依然としてアナーキストだけは個人主義に基く衝動的なテロによって全体主義体制への抵抗を続けた。1926年10月31日、15歳の少年であったアンテオ・ザンボーニ英語版がボローニャで銃撃事件を起こし、その場で護衛していた党員達の手で暴行を加えられて死亡した[1][2]。ザンボーニはアナーキスト系の政治運動に参加していた。その後もアナーキストによる暗殺計画は続き、ジーノ・ルケッティ英語版ミケーレ・シラー英語版らが同様の暗殺未遂事件を起こしている[3][4][5]。また1926年4月7日にはアイルランド貴族の娘であったヴァイオレット・ギブソンが暗殺を試みて逮捕された[6]。ヴァイオレットは街頭で銃撃してムッソリーニに軽傷を負わせたものの、すぐさま群集に取り押さえられて袋叩きにされ、警察に引き渡された。ヴィオレットは犯行理由について支離滅裂な発言を繰り返し、精神障害者として国外追放が命じられた。

しかしアナーキストによる暗殺事件すらムッソリーニは警察国家化への口実に活用し、首相への暗殺計画は未遂でも死刑とする法律を制定した。1927年、政治犯を対象とする控訴が認められない国家保護特別裁判所を設立する司法改正を行い[7]1930年にはファシスト党指揮下の秘密警察OVRAイタリア語版英語版(Organizzazione per la Vigilanza e la Repressione dell'Antifascismo、反ファシズム主義者に対する監視と鎮圧のための組織体)が警察長官の直属組織として設立され、5000名の隊員が選抜された。1926年から1940年まで14年間の長期にわたって警察長官を務めたアルトゥーロ・ボッチーニイタリア語版の指導下で、OVRAは国家保護特別裁判所と連動して政治犯の摘発を実行している[8]

警察国家化の過程でイタリア社会で根付いて来たイタリア南部の犯罪組織への摘発が開始された。南部の犯罪組織は社会不安を引き起こし、イタリア経済の障害となっていたことに加え、中でも古い歴史を持つシチリア島のマフィアはしばしばシチリア島の分離主義運動とも結びついており、民族主義・全体主義を目指すファシズムから強く敵視された。特にシチリア島に跋扈するマフィアへの対処は徹底的なものであり、警察出身のボローニャ県知事チェーザレ・モーリがパレルモ県知事に抜擢された。チェーザレに対してムッソリーニは以下の様に訓示している。

貴方にはシチリアにおける全権が与えられている。私が日々繰り返している様にシチリア島は秩序を取り戻すべきであり、それを貴方は絶対に実現しなければならない。何かしらの法がその障害になる場面があるのなら、私が新たな法を定めよう。 — Benito Mussolini[9]"

ムッソリーニとファシスト党政権の全面的協力により、モーリ体制下の警察組織は次々とマフィアの大物を投獄・処刑し、またマフィアと関与していたシチリア党支部に対する粛清と再編も行っている。モーリの手法はムッソリーニが期待していた様に手段を選ばず、容赦がなかった。構成員の身元が明らかになると妻子を連行して人質に取り、非合法の拷問を行って内部事情を自白させるなどマフィア顔負けの残忍さで組織を殲滅していった。シチリアマフィアの大物であるヴィト・カッショ・フェロは終身刑を受けて1943年に獄中死し、それ以外の大物も潜伏や海外への亡命を強いられた。今日においてもムッソリーニの評価が維持されている理由の一端として、こうした徹底的な対マフィア政策が思い起こされるためであるとも言われている。事実、モーリがムッソリーニと対立してパレルモ県知事を退任した1929年時点で、シチリアの殺人件数はファシズム体制以前の10分の1にまで低下している[10]

ベニート・ムッソリーニはマフィアの徹底的な取り締まりを行った[11]。ムッソリーニは、マフィア撲滅のためチェーザレ・モーリをシチリアの知事に任命した。モーリには白紙委任に等しい強大な権力が与えられ、合法的とは言い難い強権的な手法でマフィア構成員を次々と検挙していった。しかしモーリが強大な権力を手にし続けることで自分の政権の転覆に繋がることを恐れたムッソリーニは、マフィア取締の功労と言ってモーリに上院議員の地位を与え、知事の地位を剥奪した[12]。自分の手を汚さない上級マフィアは罪状がなく検挙を免れたが、イタリアの敗戦でファシスト政権が崩壊すると、再びマフィアは活動を活発化させた[13]


脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ Cannistraro, Philip (March 1996). “Mussolini, Sacco-Vanzetti, and the Anarchists: The Transatlantic Context”. The Journal of Modern History (The University of Chicago Press) 68 (1): 55. doi:10.1086/245285. JSTOR 2124332. 
  2. ^ “Father inspired Zamboni. But Parent of Mussolini's Assailant Long Ago Gave Up Anarchism. Blood Shed in Riots throughout Italy”. The New York Times. (1926年11月3日). オリジナルの2008年11月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081101201557/http://www.proquest.com/ 2008年9月6日閲覧。 
  3. ^ The attempted assassination of Mussolini in Rome”. Libcom.org (2006年9月10日). 2009年3月13日閲覧。
  4. ^ Andrew (2005年3月3日). “Remembering the Anarchist Resistance to fascism”. Anarkismo.net. 2010年11月6日閲覧。
  5. ^ Melchior Seele (2006年9月11日). “1931: The murder of Michael Schirru”. Libcom.org. 2009年3月13日閲覧。
  6. ^ The Times, Thursday, 8 April 1926; p. 12; Issue 44240; column A
  7. ^ 北村・伊藤 2012, p. 147-165.
  8. ^ 北原 2008, p. 492-493.
  9. ^ Arrigo Petacco, L'uomo della provvidenza: Mussolini, ascesa e caduta di un mito, Milano, Mondadori, 2004, p. 190
  10. ^ Goran Hagg: Mussolini, en studie i makt
  11. ^ 藤澤(2009) p.106
  12. ^ 藤澤(2009) p.123
  13. ^ 藤澤(2009) p.127


参考文献[編集]

  • 藤澤房俊『シチリア・マフィアの世界』講談社、2009年。ISBN 978-4062919654