利用者:村田昇

村田 昇(むらた のぼる)とは、元・株式会社チェンジビジョンの開発者であり、現在は国立大学法人福井大学の事務職員である。 IPユーザーとしては2006年初頭ごろから記事の編集に加わった事がある。 現在は、自分史の編纂の為に史料を収集中である。 その史料から分かった事を、ウィキペディアにも還元していきたいと思っている。 2017年11月18日に、福井ウィキペディアタウンに参加。若い頃に色々と迷惑を掛けてしまった管理者の方々と実際に会う事が叶う。それを機に、本格的にウィキペディアへの加筆を再開する。

パソコン歴のはじまり[編集]

8bitパソコンが全盛だった13歳の時からパソコンを触っている。最初のコンピュータは、1982年8月発売のカシオのPB-100である。二番目の愛機は同年11月発売のシャープのパソコンテレビX1であった。これを翌年2月に買い与えられたと記憶している。

少し前の事[編集]

2015年8月現在の体重は70kg前後である。オムロンの体脂肪計付き体重計が測定する「体年齢」は、実年齢前後だったので、統計学的な健康状態としては、中央値付近に居た事になる。水泳などの適度な運動によって、これを維持してきたが、2017年現在はまた太ってしまい、78kg前後の体重となっている。

職業としては、CADの開発や組込系開発を経験して、2003年ごろから現在astah*(旧名称:JUDE)の開発にかかわっていた。

(なお、JUDEの発音は「ユダ」ではなく、「ヘイ・ジュード」の「ジュード」。)JUDE (ソフトウェア)の項目を立ち上げ、astah*への改名も行ったが、宣伝にならない様に、また発表していない情報を書かない様に、気を使った。良記事にする為にも、他のウィキペディアンによる加筆をお願いする。)なお、あまり頻繁に記事に手を加えるという事をしていないので、下記の公式サイトで最新の情報を手に入れていただきたくお願いします。

オブジェクト指向を学び始めたのは比較的遅く、株式会社永和システムマネジメントに転籍してからである。この為、astah*の開発に関わったのはJude竹の時代からである。UMLの飲み込みは早かった方だと思うが、特にクラス図をきちんと設計に応用できるようになるには結構時間が掛かった。

システムエンジニアと言っても色々ある[編集]

さらに以前の職場では組込系開発を経験しており、趣味で自作パソコンを作っていたので、私をハードウェア畑の技術者だと思った同僚が居るが、実は誤解である。

確かに、組込系開発を経験しているので、若い頃から自己流のステートチャート図を描いたりしていた。例えば、ダンプリストの状態で放棄されてしまった機械語のソフトウェアを改良して完成させる仕事を経験した事がある。そうした経験から、同じ機械語の技術者でも、ハードウェア畑の人とソフトウェア畑の人では、こういう部分での発想が異なる様に感じている。

組込ソフトウェア技術者は、ハードウェア技術者にあらず[編集]

例えば、CPUの設計に関わる技術者にとっては、CPUの振る舞いは、基本的にメモリやI/Oとのデータのやりとりと、演算や命令の結果による各レジスタの変化が重要なのである。だから逆アセンブルコードを解析する場合には、こうした個々の振る舞いに目を留める。よって、比較命令と減算命令の違いにあまり注意を払わないらしい。しかし、同じ逆アセンブルコードをソフトウェア畑の技術者が見ると、比較命令や減算を含む各種の演算の結果によるフラグレジスタの結果と、その直後のフラグレジスタの状態に条件付けられたプログラムカウンタレジスタの変化は、一体の条件分岐命令として映るのである。この意識は、処理の流れの把握に決定的な差を産む事になる。よって、両者が書き起こすフローチャートが、トポロジー的には同義であっても、ソフトウェア畑の技術者が描いた場合には、状態を意識したレイアウトへと洗練されているのである。そして、その中間生産物として自己流のステートチャート図が存在する事には疑いの余地がない。(無論、これは技術者の役割の差から生じる違いであって、ソフトウェア畑の技術者には、間違ってもCPUの設計はできない。実際、私はその頃、「神の手」の様な半田付けの腕前を持つ人たちに囲まれて働いていたのである。これに比べれば、今日の自作パソコンなど積み木遊びも同然だろう。)

この様に、現在UMLの一部になっている図の概念については、どの様な分野のソフトウェア開発者でも、自己流で似た様な発想をするものだと思う。それらの記法を統合したスリーアミーゴスは偉大であるが、同時に、UMLだけでは解決できない問題もあるわけで、astah*をより実践的なツールに成長させる事に、技術者としての誇りを求めたいと考えていた。

人間系技術への目覚めと、心理臨床家への転身[編集]

株式会社チェンジビジョンの創業者・平鍋健児は、病弱な私に目を掛けてくれていたと思う。平鍋が、数学や物理学では割り切れない「世界の半分」と呼んでいる人間の心理に関する部分を、私は平鍋に師事した事で、専門的に学んでみたくなったのだと思う。在籍中から「産業医の様な立場で心理学を仕事に活かす役割を得たい」と思うようになり、「産業カウンセラー」という「造語」を作ったが、その時はまさか本当に「産業カウンセラー」という資格があるとは思っていなかった。

同僚がなんとなくSNSで呟いたコミュニケーションフォーラム北陸の事を業務上の出張だと勘違いして参加し、そこで交流分析と出会う。そして、交流分析の学習者から「産業カウンセラー」という資格の実在を知らされ、産業カウンセラーを目指す事になる。交流分析を学んだ影響もあってか、思考傾向としてのプログラミングの能力が急速に減退してしまい、心理学の勉強に専念する為に、2013年7月に職を辞す。同僚たちは明るく送り出してくれた。

後に、交流分析や、取り組んでいた電話カウンセリングのボランティア団体とは袂を分かつ事になってしまったが、それでも勉強を続けている。

2016年2月、産業カウンセラー試験に合格。2017年10月、認定心理士に認定される。

基本仕様[編集]

心理学を勉強してきて解ったこととして、私の知能はどうやら指数的には高い方らしいが、私の交友関係には私より高いらしい人がゴロゴロ居るし、知能指数的には低いかもしれないけれども立派な人格を備えた人物たちとも出会ってきたので、私はあまり知能の高低を気にしなくなった。

現在放送大学教養学部の「心理と教育コース」に在学している。近畿大学商経学部経済学科卒であるが、ゼミは「管理工学」を取っていたので、卒業論文では「イベント駆動型マルチタスクアプリケーションにおける電子計算機資源の管理と配分」というテーマをこじつけて単位をもらった。平たく言うと、コンピュータで複数のアプリケーションを動かす仕組みについてである。なお、当時の近畿大学商経学部のコンピューターは古いもので(翌年入れ替わる)、COBOLの単位を取るために、パンチカードを使ってソースコードを入力した経験がある。

また、放送大学や近畿大学には3年生として編入学しており、その前にはECCコンピュータ学院(現ECCコンピュータ専門学校)大阪校のAIB(近畿大学短期大学部併修特待生)コースの第一期生であった。

出身高校は兵庫県立川西緑台高校で、所属クラブは数学研究部で、部長を一年間務めた。

合格した事のある試験[編集]

旧第一種情報処理技術者
旧パソコン認定試験1級
旧UMLシルバーレベル(オージス総研)
交流分析士1級(日本交流分析協会主催)
ほめ達検定2級(日本ほめる達人協会主催)
メンタルヘルスマネジメントI種(マスターコース) (大阪商工会議所主催)
産業カウンセラー試験(日本産業カウンセラー協会)
認定心理士(日本心理学会)

関連リンク[編集]

大野大人図鑑 平鍋健児
株式会社チェンジビジョン
JUDE Community Site

技術者として書きたい項目[編集]

XML Metadata Interchange
イヴァー・ヤコブソン
祝一平(テクニカルライター、満開製作所初代社長)残念ながら故人。私の技術者としての情熱とおたくとしてのコダワリの基礎になった人。
デバッグ
2進接頭辞の各リダイレクト元
統一モデリング言語 UML(モデリング言語)への改名も提案したい処だが…
マインドマッピング
トヨタ生産方式
自己診断機能 (自動車) OBD(On Board Diagnosis)とも言う。

...などなど。

おたくとしての略歴[編集]

1980年代からのパソコンおたくである。

私用の愛機の遍歴は、PB-100(CASIO)、X1X68000(シャープ株式会社)、マッキントッシュPerforma520(これを購入したのは同時期のX68030の3分の1の値段で買えたからである)、LC575、PowerMacintosh8115(出版業関係の為に販売され、一般向けに販売されなかったレアな機種。一度友人の手に渡り、現在私の手元に戻った)、PowerMacintosh G3(B&W)(300MHzモデルを500MHzに改造しペルチェ素子で冷却。この機種ではギリギリ動作するMacOSX Tigerをインストールしてある)、PowerBook G3(Lombard)(333MHz)、PowerMac Mini(G4 1.25MHz)(アップルコンピュータ)、AT互換機自作パソコン(常時改造中:Pentium4 3.4GHz(Prescott)を搭載していたPCのマザーボードが故障し、使っていたCPUを予備機のマザーボードで使用できない為、Pentium4 2.8GHz(NorthWood)にグレードダウンした。この時の予備機のマザーボードのチップセットがインテル製なので、むしろ動作が安定して快適になった感がある。そして、インテルチップセットのPrescott対応のマザーボードで組みなおしたので、性能的には元に戻った。)。その後、2010年にDELLのStudio XPS8100(Core i7 860 2.8GHz)を購入した。これは自作する事のリスクを避ける為である。

仕事では8bitマイコンから64bitワークステーションまでと、色々な開発環境を利用してきた。

また、SF・ファンタジー系のアニメおたくであるが、主に1970年代から1980年代の作品を好む。ポールのミラクル大作戦(タツノコプロ)、魔法のプリンセスミンキーモモ(旧作)(葦プロダクション)など。また、スタートレックシリーズのファン(トレッキー)でもあった。

さらに、1970年代のスーパーカーブームの影響から、自動車おたくでもあり、1970年代のヨーロッパ車やレシプロエンジンの仕組みには詳しい方である。

おたくとして書いた項目[編集]

新規に立ち上げた項目[編集]

多く書いてそれが現在でも活かされている項目[編集]

他の来歴[編集]

解散直前のシャープEXEクラブ「おみこし活動隊」に、X68000シリーズの行く末を心配する投書を続け、これが機関紙の「おみこしプレス」に「メーカーに物申す」という短期連載という形で掲載されてしまった事がある。今にして思えば青臭い文章だったが、日本語で主張を表現する事が若い頃から好きだったのだろう。

高校三年生の時に、文化祭で演劇を行う事になり、オリジナルのファンタジー劇の脚本を書いて、自ら魔王サラマンダーの役を演じた。(この時の演技は、デーモン小暮や、ジョジョの奇妙な冒険のディオ、ポールのミラクル大作戦のベルト・サタンを意識したものだった。)他の組を抑えて優勝したので、二回上演されたが、二回目の上演で、勇者が使う小道具の「風の剣」を折ってしまい、アドリブでなんとかしのいで、勇者に魔王の「炎の剣」を奪わせて自滅した。なお、上演時のBGMにはホルスト組曲惑星」から「火星」と「土星」を使用し、殺陣を「火星」の曲調に合わせる等の工夫をした。

10代の頃には、科学で説明できない世界に傾倒していた。今でこそ健康保険も適用される様になった東洋医学だが、当時はオカルト雑誌で取り上げられる事も多かった。勿論、私はそれについても関心があって、保健体育の自由研究では気功をテーマにしたのである。この時、教師からは「病は気から」というフォローが入ったが、同級生たちは、『魁!!男塾』において、主人公が「氣功闘法」という技を使い、作中で引用された架空の本の出版社「民明書房」がそれをもっともらしく解説していた事から信じてしまった。この為、しばらく尊敬を集めてしまう。今でこそ「民明書房」が作品世界を演出する為にトンデモ本ばかりを出版している事になっている架空の出版社である事は広く知られているが、『男塾』の連載当初は結構信憑性の高い取り上げ方をされていたので、同級生たちは実在の出版社だと信じてしまったのである。

好きな動物はうさぎ。また、スズメの雛を保護して育てた事もある。

好きな画家は、永田萠きたのじゅんこおおた慶文深沢邦朗ディック・ブルーナなど。

好きな童話作家は角野栄子立原えりかなど。

最初に萌えたキャラクターは、SPハーレーのピカちゃん。(「SPハーレー」は学研の学習雑誌に連載されていた石ノ森章太郎の萬画であり、チックンタックンの前身になった作品。ピカちゃんはサイボーグ009の003(フランソワーズ)を幼くしたようなキャラクター。)

次に萌えたキャラクターは、ポールのミラクル大作戦のニーナ。男ばかりの兄弟で育った為か、ポールとニーナの様なちょっと大人な仲良しさんの関係には、幼心に憧れを抱いていたと思われ、幼馴染萌えもしくは姉妹萌えなのかもしれない。 (この様に「二次元の人物を好きになる」という「萌え」の資質を、私は元から持っていたらしい。)

幼少期から球技に関しては特に「運動音痴」である事にコンプレックスを持っていたが、父からは登山とハイキング、母からは水泳を教えられ、健康に育つ事ができた。

ルーツ[編集]

名の「昇」は、五島昇にちなんで名付けられた。

「村田」という極めて平凡なであるが、福井県大野市の百姓の出であり、「一本差し」(ここでは、高額納税者に与えられる名誉士族としての身分の事。2006年に亡くなった父方の祖母が、そういう表現をしていた。本来の士族は、刀と脇差の「二本差し」。[1])としての姓である事が判っている。

祖先は代々(6代目である祖父までは公式に)、「村田甚太夫」と名乗っていた(菩提寺の記録により確認)が、江戸時代からの事であり、戦国時代の武将ではない事だけは確実である。また、祖父、父の二代に渡って大工ないしは建築家である。曾祖父は農家だったと伝えられる。祖父・村田實永は若き頃に大阪で職を転々とした末に大工となり、福井に戻って、白山神社、秋葉神社、簸川神社を含む建物を設計・施工した。(秋葉神社を作っている事と、孫の中にアキバ系が出てきた事は、何だか因縁めいている。)父の建築家としてのスキルについては、祖父から学んだものではないというのが父の証言である。

父の持論によると、日本人の人名に用いられる「」という文字には、文字通りの「たんぼ」の意味を越えて、「○○がある所」という意味があるとの事である。(例えば、「石田」さんは「石を作る田んぼ」ではないし、「竹田」さんは「竹を作る田んぼ」ではない。)そうだとすると、「村田」は「村がある所(に住む人)」という意味であり、極めて平凡な「とある日本人」という事になる。


母方の祖父は、宝生流楽師(東海能楽研究会にシテ(主役)としての記録が残っている[2]。晩年に勲五等を受賞した。)、 古田卯太郎である。この名も代々のものらしく、曽祖父も同名である事が判っている(出典:明治42年刊「福井案内記」)が、能楽師としては祖父一代限りで、親戚には弟子は居ない。(しかし、私が2013年の夏に祖父の弟子だった人に入門して、細々と嗜んでいる。)古田織部とはおそらく無関係である。代々、古田材木店の経営者でもあったが、第二次世界大戦福井地震の被害と、祖父が能楽に打ち込んだ事によって、店が衰退してしまった。父と母の縁は、大工の家と材木商という商売上の繋がりだったそうであるが、母が縁談を受けた理由は父が大工を継がずにゼネコンに就職したサラリーマンだったからとの事である。(おかげで私は産まれる事ができた。)

また、母方の更に母方の旧姓は「根来(ねごろ)」であり、雑賀衆と共に現在の和歌山県を拠点にしていた鉄砲軍団の根来衆に属していたと伝えられる。(根来衆は信長とは協力関係にあったが、信長の死後、大阪での利権争いの末に秀吉に滅ぼされた。祖先は父方も母方も一兵卒としては秀吉と敵対していた事になり、反秀吉の血が濃いのかもしれない。)ちなみに、歴史シミュレーションゲームの「-陽炎の時代-」では、根来衆は「雑賀党根来衆」という一つの勢力として表現されている。私がこのゲームで遊んでいた頃、ご先祖様とは露知らず、「ねごろ」と読む事もできず、「ざつがとうこんぺいしゅう」を信長を使って蹂躙して遊んでしまっていた。

なお、母方の祖母は、祖父に嫁いだ際に、姓だけではなく名も改名させられたというエピソードを持つ。(商慣習上の理由らしいが、詳しい事を孫の私は知らない。)