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利用者:東京大仏/予備ページ

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Zyklon B

ツィクロンB (Zyklon B) は、第二次世界大戦中に使用されたドイツ殺虫剤商標であり、ナチス・ドイツによって強制収容所のガス室で用いられたとされる毒ガス。一般には「チクロンB」とも表記される。

シアン化水素(青酸化合物)が致死的であることは広く知られていた。これを毒ガス兵器として使用する試みもあったが、青酸ガスは軽く拡散しやすいために短期間で効力を失うことから兵器としては不適当であった。ドイツでは、青酸化合物は密閉された空間で使われる殺虫剤として有用と考えられていた。フリッツ・ハーバーは1917年から青酸化合物を利用した殺虫剤の研究を始めた。戦時ドイツの食糧難を解決するため、軍からの指示と協力があったと言われる。

研究は毒ガス研究者と昆虫学者の共同作業ですすめられ、第一次世界大戦の終結をはさんで、1923年に商品化された。ツィクロンA, B, Cが作られ、このうちBはもっとも有名である。ツィクロンBはペレットやファイバー・ディスク、珪藻土などの吸着剤に、青酸化合物と安定剤、警告用の臭気剤などをしみ込ませたもので、これをブリキ缶などの密閉容器に保存した。青酸化合物を安全に長期間保管ができることと、いつでも使用できることを両立した製品であった。開封後直ちに効力を発揮するが、過熱燻蒸すると青酸ガスの発生は早めることができた。ツィクロン殺虫剤の製造と販売のためにデゲッシュ社が設立された。発疹チフスを媒介するシラミの対策にとくに有効とされたが、広く穀物などの燻蒸殺菌にも用いられた。

ツィクロンBは、アウシュヴィッツ=ビルケナウマイダネクといった強制収容所のガス室で、ユダヤ人・政治犯・戦争捕虜や同性愛者などに対するガス殺に使用された。マイダネクでは当時のガス室がそのまま公開されており、天井に青くツィクロンB がこびりついているのを見ることができる。デゲッシュ社にはアウシュビッツ収容所などへの納品書が残っており、アウシュビッツには20トンのツィクロンBが納入されている。用いられたガスは一種類だけではなかったようで、その他の収容所においてはベントリックスガスを用いたガス室の設計図等が残されている。

1940年の1月か2月にブーヘンヴァルト強制収容所で、ブルノ出身の250人のロマの子どもたちが実験台として殺害された。続く1941年9月にはアウシュヴィッツ第一収容所で実験が行われた。ツィクロンBはパテントを持つIG・ファルベン社からのライセンスを得たデゲシュ社 (Degesch, Deutsche Gesellschaft für Schädlingsbekämpfung mbH) とテスタ社 (Testa, Tesch und Stabenow, Internationale Gesellschaft für Schädlingsbekämpfung m.b.H.) によって生産された。

ナチスはデゲシュ社に警告のための臭気を付けないツィクロンBの生産を命じたが、それは当時のドイツの法律に違反していた。戦後テスタ社の製造管理担当者2名がイギリス軍の軍事法廷によって裁かれ、化学兵器提供の罪で処刑された。

なお、ツィクロン(Zyklon:独語でサイクロンの意)の単語使用に対して、無差別虐殺の被害者であるユダヤ人は敏感な反応を見せることがある。2002年にボッシュ・シーメンスアンブロの両社が、「Zyklon」の商標登録を行おうとしたが反対活動によって行うことができなかった。

1988年、アメリカの処刑ガス室専門家であるフレッド・ロイヒターはロイヒター・レポートを作成し、その中でツィクロンBによる大量殺戮は不可能だと結論した。しかし、このレポートはアウシュヴィッツにある資料をよく読まずに作成されており、ロイヒターが論拠とした青酸ガスの痕跡に関する資料は、科学的な観点から見て全く不適切なものであった。1990年2月にクラクフ法医学研究所が行なった調査は、ロイヒターの説を否定している。ホロコースト否認論の考察を参照。

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