利用者:桂鷺淵/資料5
- en:Dwight Baldwin (missionary)( 22:08, 14 August 2023)
Dwight Baldwin | |
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生誕 |
1798年9月29日 Durham, Connecticut, US |
死没 |
1886年1月3日 (87歳没) Lahaina, Hawaii |
国籍 | Hawaiian Kingdom |
職業 | Missionary, Physician |
配偶者 | Charlotte Fowler |
子供 |
David Dwight Baldwin Henry Perrine Baldwin Five others |
親 |
Seth Baldwin Rhoda Hull |
署名 | |
ドワイト・ボールドウィン(Dwight Baldwin、1798年9月29日 - 1886年1月3日)[1]は、アメリカ合衆国のプロテスタント系キリスト教宣教師・医師。ハワイ王国に渡り、マウイ島で宣教活動を行うとともに、感染症の流行に対処した。その子孫はハワイの有力な事業家一族となった。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]1798年9月29日、アメリカ合衆国コネチカット州ダーラムに生まれ、1804年にニューヨーク州ダーラムに移った。父はセス・ボールドウィン(Seth Baldwin, 1775年 - 1832年)、母はローダ・ハル(Rhoda Hull)で、12人きょうだいの第2子である。ドワイトのいとこのエリフ・W・ボールドウィンは著名な長老派教会の牧師であり、ウォバシュ大学の学長を務めた人物である。
ドワイトはウィリアムズ大学で2年学んだのち、1821年にイェール大学を卒業。その後、3年間教職に就いた[2]。ドワイトはハーバード・カレッジ[注釈 1]で医学の授業に出席しているが、理学修士号を取得したものの医学博士号を取得することはできなかった。
宣教師になりハワイへ渡る
[編集]1826年頃、ドワイトは宣教師となることを決意する。かれはオーバーン神学校 (Auburn Theological Seminary) に学び、1830年にニューヨーク州ユーティカにおいて牧師に叙任された。1830年12月3日、コネチカット州ノース・ブランフォードの教会執事ソロモン・ファウラーの娘であるシャーロット・ファウラー(1805年 - 1873年)と結婚した[5]。わずか数週間後の1830年12月28日、彼らはアメリカン・ボード[注釈 2]第4団の一員として、マサチューセッツ州ニューベッドフォードから「ニューイングランド号」で出航した。同船者にはシェルドン・ディブルがいる。彼らを乗せた船は、1831年6月21日にハワイに到着した[8]。1832年にハワイ島のワイメアに宣教師として派遣され、ロレンゾ・ライオンズとともにイミオラ教会で奉職した[9]。
なお、アメリカン・ボードが派遣した次の宣教団には、ウィリアム・P・アレクサンダーとその妻メアリー・アン・マッキンリーが加わっており、1831年11月にハワイに上陸した[10]。2つの家族は長きにわたる友情をはぐくみ、2組の婚姻を結ぶとともに、ビジネス面でもパートナーとなった。
ラハイナにて
[編集]転任
[編集]1836年にマウイ島ラハイナのワイネエ教会(現在のワイオラ教会)に着任した。この教会がボールドウィン牧師のキャリアの残りの時期の活動拠点となる[9]。
ラハイナでの奉仕は、ロリン・アンドリューズの後任であり、船員たちの礼拝堂を設立した。また、マウイ島の非公式の郵便局長を務めた[11]。ボールドウィンはアルコール依存症の害を理解しており、禁酒に関する小冊子をハワイ語に翻訳した。また、アンドリュースを補佐し、新約聖書の福音書と使徒言行録の改訳にたずさわった[12]。ラハイナは当時ハワイ王国の首都であったため、カメハメハ3世王、マウイ島総督ホアピリとその妻カラクア・カヘイヘイマリエ (Kalākua Kaheiheimālie) といった要人たちも彼の教会に出席した[13]。
疫病とのたたかい
[編集]1848年10月から1849年初頭にかけて、ハワイ諸島を感染症が次々に襲った。最初に発生したのは百日咳と麻疹であったが、ハワイ人たちには免疫がなかった。宣教師は第一に精神的な癒しの訓練を受けているが、ボールドウィンは学生時代に生物学の授業を受けており、このためマウイ島では西洋医学の第一人者ということになった。島内で正式な教育を受けた医師は、ゲリット・P・ジャッド (Gerrit P. Judd)、トーマス・チャールズ・バイド・ルーク (Thomas Charles Byde Rooke)、ウィリアム・ヒルブランド (William Hillebrand)、ウェスリー・ニューカム (Wesley Newcomb) といった数人のみで、それぞれ開業していた。ボールドウィンは公衆衛生に着目し、隔絶された熱帯環境でどのような技術を適用できるかについての経験を重ねた。彼は以下のように語った。
私が比較できるのは、あらゆる混乱と死と大虐殺の悲しい光景を伴う激しい戦闘以外の何ものでもありません。 毎週、毎月、休む間もなく、これほど気を散らすように駆り立てられたことは一度もありませんでした[14]。
その後すぐに、赤ゼン症とインフルエンザの波が続きました。 以前にも流行はあったが、このタイミングに至った理由の一つとして、カリフォルニアのゴールドラッシュが示唆された。 この時までは、外国人はヨーロッパから南アフリカを周回するか、ニューイングランドからホーン岬を回って航海していました。 これらの航海は十分に長かったため、船がハワイに到着するまでに感染者は死亡する(そして海に埋葬される)か回復していました。 しかし 1848 年以降、サンフランシスコからのより速い船が 2 週間以内に海を渡ることができるようになりました。 彼らが到着した時点ではまだ船内に感染症が存在していた可能性がある[8]。
ボールドウィンはマウイ島、モロカイ島、ラナイ島を旅し、できる限りの疫病対策に努めた[9]。 そして 1853 年に天然痘が島々を襲いました。 今や経験豊富な開業医となったボールドウィンは、ラハイナを隔離してできるだけ多くの住民にワクチン接種をさせることができ、その後、マウイ島や隣接する島々の遠隔地に住む人々の世話を始めた。 正確な数は不明ですが、オアフ島では数千人が死亡しました。 ボールドウィンはマウイ島での犠牲者を数百人に抑えたと信じられている[9][10]。
1855年、ワイニー教会の信徒たちは彼の指示の下、疫病の中で生き延びた記念としてヘイル・アロハと呼ばれる大きな建物を建設するためにボランティア活動を行った[11]。 彼は最終的に 1859 年にダートマス大学から名誉医学学位を授与されました。[12][13]:293[14]
晩年
[編集]ハワイ医師会を設立した開業医は彼の資格を認めず、保健委員会からの正式な医師免許を拒否した[15]。 彼は 1868 年に引退しようとしましたが、ベンジャミン ワイマン パーカー (1803 ~ 1873 年) の説得で、ハワイ先住民の牧師を養成する神学校での教鞭を手伝うことになりました。 彼は 1872 年から 1877 年までホノルルの神学校で教鞭をとりました[2]。 彼は1853年から1875年までオアフ大学(現在はプナホウ・スクールとして知られ、多くの子供や孫が通うことになる)の理事を務めた[16]。
1870年、ドワイトとシャーロットは健康状態が悪化したためホノルルに移り、娘のハリエット(「ハッティ」と呼ばれた)と一緒に暮らした。 シャーロットは1873年10月2日に死去し、ドワイトは1886年1月3日に死去した。夫妻はホノルルのカワイアハオ教会の墓地に埋葬されている[15]。
活動
[編集]Baldwin began a seaman's chapel at Lahaina where Lorrin Andrews served. He acted as unofficial postmaster of Maui.[16] He understood the toll of alcoholism on the people, so translated a tract on temperance into the Hawaiian language and assisted Andrews with the translation of the Gospels and Acts for a new edition of the New Testament.[12] Since Lahaina served as the capital of the Kingdom at the time, King Kamehameha III and other important leaders such as Maui island governor Hoapili and his wife Queen Kalākua Kaheiheimālie would attend his church.[17]
A series of epidemics swept through the Hawaiian islands from October 1848 to early 1849. The first to hit were whooping cough and measles, to which the Hawaiians had no resistance. Although trained primarily for spiritual healing, his biology coursework made him the leading expert on Maui in Western medicine. By then the royal court and government functions had moved to Honolulu. The few formally educated medical doctors in the islands were in private practice there: Gerrit P. Judd, Thomas Charles Byde Rooke, William Hillebrand, and Wesley Newcomb. Baldwin instead focused on public health issues, and discovered through experience what techniques could be applied in the remote tropical environment. In his words:
I can compare to nothing but a raging battle, with all its turmoil & its sad scenes of death & carnage. Never was I driven so to distraction, week after week, & month after month, with no respite.[14]
Soon after followed waves of dysentery, and influenza. Although there had been previous epidemics, one reason suggested for this timing was the California Gold Rush. Before this time foreign arrivals sailed from either Europe around South Africa, or from New England around Cape Horn. These voyages were long enough that infected people had either died (and were buried at sea) or recovered by the time their ships arrived in Hawaii. But from 1848 faster ships from San Francisco could cross the ocean in less than two weeks; there could still be infection aboard when they arrived.[14]
Baldwin traveled throughout the islands of Maui, Molokaʻi and Lānaʻi dealing as best he could with the epidemics.[18] Then in 1853, a smallpox epidemic struck the islands. By now an experienced practicing physician, Baldwin was able to get Lahaina quarantined and vaccinated as many residents as he could, then set out to take care of people in the far reaches of Maui and adjacent islands. Although precise counts are not known, there were thousands of deaths on Oahu; Baldwin is credited with keeping the toll to only a few hundred on Maui.[18][19]
In 1855 the congregation of Waineʻe church volunteered their labor under his direction to build a large building called Hale Aloha to commemorate living through the epidemics.[20] He was finally granted an honorary degree of medicine by Dartmouth College in 1859.[21][22]:293[23]
The privately practicing physicians who formed the Hawaii medical association did not accept his credentials, and denied him an official medical license from the Board of Health.[24] He tried to retire in 1868, but Benjamin Wyman Parker (1803–1873) convinced him to help teach in a seminary to train native Hawaiian pastors. He taught at the Theological School in Honolulu from 1872 until 1877.[9] He served as trustee of Oahu College (now known as Punahou School, where many of his children and grandchildren would attend) from 1853 to 1875.[25]
家族
[編集]The Baldwins had seven children: David Dwight Baldwin (1831–1912), Abigail Charlette (1833–1913), Charles Fowler (1837–1891), Henry Perrine Baldwin (1842–1911), Emily Sophronia (1844–1891), and Harriet Melinda (1846–1932). A son, Douglas Hoapili Baldwin, died young in 1843.[26]
Eldest son David Dwight Baldwin (1831–1912) was a businessman, biologist, and educator on Maui.[27] He and his sons started the first pineapple business on the island.[28][29]
Daughter Abigail Charlotte Baldwin (1833–1912) married William DeWitt Alexander (1833–1913) in 1861, and their daughter Mary Charlotte Alexander (1874–1961) became an author.[30] Mary Charlotte Alexander wrote a biography of her grandfather, Dr. Baldwin of Lahaina[22] and a history of Hawaii.[31]
Son Henry Perrine Baldwin (1842–1911) married Emily Whitney Alexander in 1869 and co-founded with Samuel Thomas Alexander the partnership of Alexander & Baldwin, one of the "Big Five" corporations that dominated Hawaii's economy in the early 20th century.[32]
Daughter Emily Baldwin married businessman William Olmsted Atwater (1848–1908) on April 5, 1873.[33][34]
Daughter Harriet Melinda Baldwin married Samuel Mills Damon (1845–1924), the son of missionary Samuel Chenery Damon, who became a wealthy businessman.[35] Before her last grandchild died in 2004, and the estate was divided, it was one of the largest private landowners in the state.[36]
On August 8th 2023, a massive wildfire destroyed the Baldwin Home Museum alongside most of the historic town of Lahaina.[37]
Baldwin House | |
2012年撮影 | |
所在地 | 696 Front Street, Lahaina, Hawaii |
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座標 | 北緯20度52分23秒 西経156度40分40秒 / 北緯20.87306度 西経156.67778度座標: 北緯20度52分23秒 西経156度40分40秒 / 北緯20.87306度 西経156.67778度 |
所属 | ラハイナ歴史地区 |
ボールドウィン・ハウス (Baldwin House) は、アメリカ合衆国ハワイ州マウイ島のラハイナにあった家屋。1836年にラハイナに着任したドワイト・ボールドウィン牧師 (Dwight Baldwin (missionary)) が暮らした家で、130年あまりボールドウィン家が使用した。1967年にボールドウィン・ホーム博物館 (Baldwin Home Museum) となった。
ラハイナ歴史地区の貢献的建築物 (contributing buildings) であったが、2023年の大火(ハワイ・マウイ島山火事)で焼失した。
解説
[編集]この家は、1834年から1835年にかけて、エフライム・スポールディング牧師によって建てられた 。この家はサンゴと火山石で造られ、分厚い壁は材木で組み立てられていた[38]。
ドワイト・ボールドウィン牧師(1798年 - 1886年)は、1832年にハワイ島のワイメアに宣教師として派遣された。その後1836年にマウイ島ラハイナのワイネエ教会(現在のワイメア教会)に赴任した。この教会はウィリアム・リチャーズによって創建された教会である。この教会がボールドウィン牧師のキャリアの残りの時期の活動拠点となる[9]。
1838年、スポールディング牧師は米国に帰国したため、ボールドウィン一家がこの家に移り住んだ。以後この家は、約130年間にわたってボールドウィン家の所有となる。1840年に寝室と書斎が増築され、1849年には2階全体が完成した[38]。
この家は1967年にボールドウィン家からラハイナ修復財団に譲渡され、ボールドウィン・ハウス・ミュージアム(ボールドウィン・ホーム・ミュージアムとも呼ばれる)として使用されることとなった[39]。
ボールドウィンは科学書を収集しており、その蔵書は200冊以上に及んだ。アメリカ合衆国探検遠征隊をはじめとして、島を来訪した科学者はボールドウィン家に滞在した[40]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ OBITUARY RECORD OF GRADUATES OF YALE COLLEGE Deceased during the Academical Year ending in June 3 1886. Yale College. (1886). pp. 280–81
- ^ Charles Candee Baldwin (1881). The Baldwin genealogy from 1500 to 1881. O. Cleveland. p. 562
- ^ “「Harvard University」と「Harvard College」は同じ大学ですか?”. eigopedia. 2023年8月27日閲覧。
- ^ “HARVARD COLLEGEに通っていてよく聞かれる12の質問”. ハーバードな人々. 2023年8月27日閲覧。
- ^ Arthur D. Baldwin (1915). A Memoir of Henry Perrine Baldwin. Privately Published, Cleveland, Ohio
- ^ “アメリカン・ボード”. 世界大百科事典 第2版. 2023年8月27日閲覧。
- ^ “アメリカン・ボード”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2023年8月27日閲覧。
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