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利用者:桑原英眞/sandbox

奈良村について


奈良村(現沼田市奈良町)は 楫取素彦県令の指示により編纂された上野国郡村誌(明治10年編)の奈良村沿革に拠れば、「正治元年(1199年)鎌倉浪人石田勘解由ナル者本村ニ流寓ス、石田ノ子孫五郎兵衛代々ノ過去帳を有ス、コレヲ開村ノ祖ト言伝フ」とある。また「沼田記撮抄ニ、源義家奥州征伐ノ時岡谷村ヨリ生科村(川場村生品)へ云々、野道(飛火坂)を越スニ鹿トモ四方ヘ駆け出ケレバ、奈良ニヒトシト仰ケレバ奈良ト名付云々」、と奈良村の由来が記されている。

 源頼朝の1193年の富士巻狩夫人足帳(池田村史)には利根郡29ヶ村384人とあり、そこに隣村岡谷村・発知村・川場村等の名はあるが奈良村・秋塚村・横塚村の名はない。源頼朝没年の1199年奈良村開村という記録と一致する。

 645年大化改新後の国郡里制にてヌマタ・ナマシナ・カサシナ・ナグルミの利根四郷が記載されているがそのひとつナマシナ(奈萬之奈郷、男信郷)に属していたとされる(池田村史、沼田市史等)。ナマシナの範囲は史誌によって異なるが馬牧村史によればナマシナ:川場村+旧池田村とある。白沢村の一部も含んでいるとされる。現在の川場村生品はその名残である。古馬牧村史によればヌマタ:旧古馬牧村+師+後関+政所古墳群、ナマシナ:川場村+旧池田村、カサシナ:旧久呂保村+森下+川額古墳群、ナグルミ:旧桃野村+塚原+上津+月夜野古墳群。和名抄(938年)ではナマシナはホッチ・カワバ・タカヒラ・アカギネとなっている。江戸中期1766年の奈良村名苗顕然記にも沼須村はいにしえの片品なり、とあり、現在の片品とは異なっている。カサシナは利根川に合流する片品川の沼須村を含む両岸周辺という。ナマシナは奈良古墳群を含む奈良村・秋塚村・川場村天神・高平村に及ぶとも言う。ナグルミは利根川の川西、北は越後界、南は岩本までの全体を指したという(北毛乃史跡と伝説)。郡衙は現在の昭和村森下、国衙は現在の前橋市とされている。

 1368年には白澤村戦争が発生し、南朝方の新田義宗・脇屋義治らが川場村の北朝足利方の大友氏時方と死闘を行い、地元民による新田方足利方双方の両者多数死亡者を弔う塚跡が残っている。大友氏時本人の死地は九州とも川場村とも異説あるが、大友氏時の内室と娘珠垣媛はこの川場村戦争にも生き残ったという。新田義宗の墓は雲谷寺にある。大友家家老と氏時内室の墓は川場村にあり(川場村誌)、珠垣姫は根岸主馬之介に嫁し身を隠したという(糸之瀬村誌)。この時、沼田氏一族、川田村、利根村及び白澤村、は新田義貞方で戦った。川場村隣村の奈良村は両者の狭間に位置しどちらについたかの記録はない。脇屋義治は出羽に逃れたとも阿波に逃れたとも言われる。

 明治22(1889)年の町村制施行に伴う八ケ村(佐山・上発知・中発知・発知新田・下発知・岡谷・奈良・秋塚)の合併で、池田村が誕生し、昭和29年の町村合併(沼田・池田・利南・薄根・川田)で沼田市が誕生した。


 奈良古墳群について。

 地元では奈良の百塚と言われた奈良古墳群がありその多くが田畑に変えられていて池田村史(昭和39年刊)時点で60基を確認しているが、その後更に田畑に変えられて現在では13基しかない。

 薄根川右岸に形成された緩やかな南面した河岸段丘に造られた古墳群で典型的な群集墳である。522年頃の榛名山二ツ岳伊香保噴火の軽石層(FP層。早川由紀夫ら、群馬大学教育学部紀要63:35-39,2015)の上にあり1108年浅間山噴火の軽石B層の下にあるという。九州では527年筑紫君磐井の乱・関東では534年武蔵国造の乱が勃発して、それに打ち勝って名実ともに大和王権が日本列島を統一して行く頃、538年仏教が公伝して、そして587年丁未の乱で蘇我氏と聖徳太子が物部氏を滅ぼし、聖徳太子が活躍した頃、である。

 日本のボンベイと言われる渋川市金井裏遺跡では榛名山二ツ岳渋川噴火(早川由紀夫らによれば497年頃)で埋まった人骨が見つかったが、頭蓋骨判定ではこのうち男性は渡来系で女性は在来系であり配下の住民達を逃したのち最後まで踏みとどまったその家族ではないかという。近隣の黒井峰古墳とともにこれらの遺跡は既に上野国にも馬匹生産と渡来人がいたことを示している。奈良古墳群の成立はその後であるが、やはり多くの馬具製品が出土している。奈良古墳群は646年大化薄葬令後も8世紀初めまで続いたと想像される。


 魏志倭人伝によれば馬は3世紀日本にいなかったが4世紀以降大陸から日本へ馬が移入されて東国でも5世紀には馬匹生産が始まっていた。上野国の渡来人集団は、馬匹生産による軍馬・農業動力・輸送・情報伝達・駅制等の発達、鉄銅などの冶金、農業土木などの治水、須恵器・瓦等古代窯業、紡織業等、の技術的文化的集団としての役目を担い、多胡郡や榛名山麓周辺から次第に北部山間地域まで展開して行ったとされる。

 703年持統天皇が火葬され火葬習慣が導入されてから古墳文化は消滅したとされるが、奈良古墳群は8世紀聖武天皇が国分寺を建てた頃まで続いていたという。小規模古墳群にはそぐわない様な馬具が多数出土しており、その後の奈良~平安時代の軍馬の供給源としての長野牧・久屋牧・尾合牧も周辺にあり源義家の東北征伐の通り道であり会津裏街道であったという言い伝えにも一致する。一部から空風輪が出土していて鎌倉時代にも重葬墳として使われていたことも確認されている。 927年延喜式の上野国にある勅旨牧9牧のうちの2牧のオオアイ、クヤは利根郡内にあるとされるがそれとの位置関係は今なお不明である。