コンテンツにスキップ

利用者:沢町/下書1

照源寺
所在地 三重県桑名市東方1308
位置 北緯35度4分10.4秒 東経136度40分44.7秒 / 北緯35.069556度 東経136.679083度 / 35.069556; 136.679083座標: 北緯35度4分10.4秒 東経136度40分44.7秒 / 北緯35.069556度 東経136.679083度 / 35.069556; 136.679083
山号 東海山
宗旨 浄土宗
宗派 浄土宗鎮西派
本尊 阿弥陀如来
創建年 寛永元年(1624年
開山 宗蓮社伝誉三甫
開基 松平定行
正式名 東海山泥オン院照源寺
文化財 松平定綱及一統之墓所(三重県指定文化財)
照源寺の夫婦マツ(桑名市指定文化財)
公式サイト 浄土宗照源寺ウェブサイト
テンプレートを表示

照源寺(しょうげんじ)は、三重県桑名市にある浄土宗鎮西派の寺院である。

歴史[編集]

寛永元年()、当時の桑名藩主である松平定勝が亡くなると、(1)江戸幕府二代将軍徳川秀忠は、自身の叔父(父である徳川家康の異父弟)にあたる定勝の菩提寺を建立するよう、定勝次男で次代桑名藩主の松平定行に命じた(10)。定行は定勝の戒名「崇源院殿」から寺号をとり、東海山泥オン院崇源寺と号する一寺を建立し当地に埋葬した(3)。開山一世には、定勝の旧領である掛川天然寺第6世住職であった宗蓮社伝誉三甫を迎えた(1)。三甫は、定勝が桑名藩主になった際に招かれ、桑名城下の本多忠勝菩提寺である最願寺(現・浄土寺)に居住していたが、当寺開山となった後は当寺に移り住んだ(10)。寛永2年2月()に仏堂が完成し、浄土宗鎮西派総本山知恩院末寺となった(1)。寺格は檀林格で、開山より代々宗式金襴衣の着用が認められる。当寺塔頭として、智光院、智徳院、授法院の三院があり(10)、末寺として桑名郡矢田村の白谷山西龍寺、朝明郡杉谷村の杉谷山観音寺、三重郡楠村の文殊山玄忠寺と薬師山東光寺、三重郡川尻村の金剛山浄願寺と上大山福泉寺(もと長福山観音寺)の六箇寺があった(1)。

寛永12年()、第2世住職の道蓮社大誉三恕の時に、定行は伊予国松山藩へ国替えとなり、代わりに定行実弟で美濃国大垣藩主である定綱が桑名藩へ国替えとなった(1)。定行は、新たに藩主となる定綱も同家であるため、当寺を松山へ移転させることなく当地で存続させた(1)。それと引き替えに、三恕と当寺塔頭二院を伴って松山へ移り、松山でも新たに一寺を建立して(現・大林寺)父である定勝の菩提を弔うこととした(10)。定綱は三恕に代わる第3世住職として、奥蓮社深誉長意怡公を知恩院より迎え、寺領二百石を与えた。また、定行からも百石が与えられ、久松松平家代々の菩提寺とされた(10)。

定綱の藩主在任中、当寺は開創以来の寺号である「崇源寺」を「照源寺」と改められる(1)。これは、寛政3年に亡くなった将軍の正室である江の戒名「崇源院殿」と偶然にも同じになったため、定綱が遠慮して改称したと伝わる(1)。また、山号「東海山」の頭文字である「東」、寺号「照源寺」の頭文字である「照」の二文字を合わせることで、徳川家康の神号である「東照大権現」を表すと同時に、久松松平家菩提寺である当寺が家康の供養も行うことで、久松松平家の末代にわたる江戸幕府への忠誠を示しているとされている(3)。

第4世心蓮社光誉南潮霊谷住職の代に、当寺大檀那である久松松平家が総本山知恩院へ願い、住職継承時は直参内すべき寺格となる(10)。さらに嘉永年間( - )、第16世実蓮社浄誉(元・潭誉)真阿法性海山住職の代に、華頂宮院家寺院となり、紫衣の着用が認められ、惣門左右に筋塀二十五間が寄付された(1)。 明治維新を迎えると、それまで境内は除地であったが官有地となる(1)。その後、第二次世界大戦後に制定された宗教法人法により当寺へ無償で払い下げられ現在に至る(10)。

境内[編集]

JR桑名駅から西へ約330メートルに位置し(11)、約6000坪の境内をもつ。(10,14)かつて徳富蘇峰は、夫妻で当寺を訪れた時の所感を、「亭々たる老松、幽邃閑雅の奥庭、さすがは藩公の菩提所なり」と毎日新聞に記した(11)。

  • 本堂 - 当寺創建時の寛永元年に建立されたが、長い年月を経て破損が大きくなり、明治10年()11月に再建を発願する。棟梁は5代目鈴木幸衛門、建設発注者は佐藤義一郎で、明治23年()5月に竣工、同8月5日に再建還仏(10-9)。現本堂は、木造瓦葺の総檜造り、間口9間半、奥行10間、建坪100坪(10-9)。堂内中心には本尊阿弥陀如来、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩、左右には、大檀那である久松松平家の位牌を祀る(1)。
  • 庫裏 - 当寺創建時の寛永元年()に建立、宝暦4年()の第12世棟蓮社聖誉成阿真有可梁の代に改築される。昭和35年に再改築、現在に至る(10-9)。木造瓦葺、建坪84.5坪。
  • 書院 - 旧書院は質素な建物で、大きな法要を行うには狭く不向きであったうえ、さらにシロアリの被害も深刻であった。しかし、当寺は檀信徒が少なく書院改築のような大事業を行うことは困難であった。それでも、檀信徒で何度も議論を重ね、ついに昭和3年11月3日に書院改築が決定する。この年は昭和天皇の御即位御大典記念で日本国中が沸いており、当改築事業も御即位御大典記念事業として位置づけられた。改築費予算は5000円、ただちに寄付を募り始め、昭和5年3月21日から改築工事が始められた。また、この年は浄土宗開祖である法然が師と仰いだ善導の1250年遠忌にあたるので、当事業は善導大師1250年御遠忌記念事業も兼ねることとなった。昭和6年5月末に竣工、総工費は8500円にのぼった。当時の住職は第21世法誉隆慎で、昭和6年10月6日、7日両日に書院新築慶讃法要を執り行い、導師並びに説教は浄華院法主の大野法音が務めた。木造瓦葺、東西4間3尺、南北7間3尺で、付属する便所も含めて建坪35.5坪、隣接する茶室は木造瓦葺、5.25坪(11-13,14)。
  • 位牌堂 - 明治23年()改築、平成12年()当寺第23世の晋山式にあたって再改築(10,10)。
  • 玄関並本堂庫裏廊下 - 昭和60年改築(10-10)。
  • 鐘楼堂 - 明治30年2月17日に建設許可が下り、明治32年8月5日に完成する。当時の住職は第19世願誉乗也、第20世薫誉戒慎。9坪の2階建てで、土台は3間平方、高さは3間半。建築費622円30銭は檀信徒の寄付による。平成12年11月、当寺第23世の晋山式にあたって修理される。旧梵鐘は明治29年8月21日に、口径2尺8寸の重さ160貫で鋳造され、費用401円25銭は個人の寄付による。しかし、太平洋戦争時の金属類回収令により昭和19年2月10日供出された。現梵鐘は、旧梵鐘と同じく口径2尺8寸で、平成12年11月の鐘楼堂の修理と同時に新しく鋳造された(10,11-14)。
  • 山門 - 桑名市指定文化財で、当寺現存する最古の建造物。(3)当寺創建時の寛永元年に開基である松平定行の寄付により建立された(10-10,11)。その後、元治元年()に修理(10-10,11)、昭和51年()に屋根等の応急修理工事(3)が行われていたものの、近年では老朽化は著しく4本の支柱で何とか持ちこたえている状況であった(3)。桑名市議会が、平成19年度から平成20年度までの2年計画で桑名市助成金事業として山門解体修理を認めると、当寺も2011年の法然上人800年大遠忌の記念事業の一環として工費3千万円(内6百万円が桑名市より助成)を見込んで山門修復にあたることを決定する。平成19年11月、桑名市文化局主導のもと、山門は丁寧に解体され、京都の修復作業所にて丸一年かけて修復され、平成20年(2008年)11月からは、創建当時の姿に可能な限り近づけるように、屋根瓦も出来る限り再利用するなどの復元工事にとりかかり、平成21年()3月完成し、平成22年11月7日には山門修復落慶法要が行われた(3)。建築構造の詳細は文化財項目を参照。
  • 門内敷石 - 山門本堂間が幹線で30間、枝線として幹線から庫裏入り口、玄関口、御廟門入口まで敷かれている。大正8年秋から寄付金を募集、総額2,661円が集まる。工事着手は大正9年10月1日、完成は同年12月15日。大正10年4月10日に竣工式法要が行われた(10,14)。