利用者:河内蜻蛉/sandbox14
レオノーラ・M・カーニー・バリー(英語: Leonora M. Kearney Barry, 1849年8月13日 - 1923年7月18日)はアイルランドのコーク県に、ジョン・カーニーとオーナー・グレンジャー・カーニーの子供として生まれた。労働騎士団(Knights of Labor)で唯一、全国的な役職を得た女性であり、労働改革運動への関与を通じて、女性労働者の状況に注目を集めさせた。また彼女は南北戦争と再建期(Reconstruction era)ののちの時代において、女性の権利の進歩を推し進めた人物でもあった[1]。
前半生
[編集]レオノーラ・バリーは1849年8月13日、アイルランドのコーク県で農民のジョン・カーニー(John Kearney)とオーナー・ブラウン・カーニー(Honor Brown Kearney)の間に、レオノーラ・マリー・カーニー(Leonora Marie Kearney)として生まれた[2]。当時はジャガイモ飢饉の最中であったため、一家は1851年にアメリカ合衆国ニューヨーク州のセント・ローレンス郡北部に位置する、ピアポント(Pierrepont)へと移住した[3]。
1864年に、レオノーラの母は若くして死んだ。父親が彼女と5歳しか変わらない女性と再婚したのを機に、レオノーラは師範学校に通うことを決めた。新たな母と彼女の間での緊張関係から逃れるために家を出た後、ニューヨーク州・コルトン(Colton)の女学校の校長と連絡をとり、そこで6週間、個人的に指導を受けた[4]。16歳にして、彼女は教員資格をとり、翌年から学校で教えるようになった[5]。
結婚と労働
[編集]1871年11月30日、レオノーラはウィリアム・E・バリー(William E. Barry)と結婚した。彼はアイルランド生まれで、カナダ、そしてニューヨークへと移民した画家・音楽家だった。二人はニューヨーク州・ポツダムに移り、1873年には最初の子、マリオン・フランセス(Marion Frances)をもうけた[6]。南北戦争後に教師は人材不足となっていたにもかかわらず、ウィリアム・バリーと結婚したのちに彼女は職場における差別に直面した。彼女は既婚の女性であるということを理由に、州法で教職を辞めなければならなくなったのである。これにより彼女は肉体労働に従事せざるを得なくなった。一家は頻繁に移住し、マサチューセッツ州・ヘイデンスヴィル(Haydensville)や、ニューヨーク州・アムステルダムを転々とした。そして1875年にはウィリアム・スタンディッシュ(William Standish)、1880年にはチャールズ・ジョセフ(Charles Joseph)という二人の子供を授かった。彼女の夫が肺の病気で死に、娘もすぐにその後を追ったので、バリーは針子として働き始めたが、仕事は非常にきついものであった[6]。そのため、彼女はアムステルダムの靴下工場で働いたが、ここで彼女やその仲間の女性労働者たちは過酷な労働環境、長時間労働、低賃金に直面した[7]。彼女はしばしば週に70時間以上働いたが、給与は成果によって決められたので、初日には11セント、最初の週の給料はたったの65セントであった[8]。働く女性が直面する不正に対して行動を起こすために、バリーは1885年、労働騎士団の地方支部に加入した[9]。
労働騎士団と労働運動への関与
[編集]当時は労働騎士団の全国組織における会員数がピークに達していた時であった。労働騎士団は本来、フィラデルフィアの衣服労働者たちの秘密結社として活動していたが、労働改革を促進するための組合へと変質していた[6]。バリーは経済的な必要に迫られて工場労働に従事せざるを得ず、組合の理想的な女性労働者を体現していた[10]。
バリーが所属した騎士団の地方支部は当時、1,500人の会員を擁していた[5]。彼女は組織の中で成り上がり、まもなく地方支部の長たる、マスター・ワークマンになった[7]。1885年、彼女はディストリクト・アセンブリ65の長となったが、ここには42の地方支部と9,000人以上の騎士団員が含まれていた[11]。一年後に彼女はオルバニー(Albany)で開かれた地区の会議に出席し、ヴァージニア州・リッチモンドで開かれた労働騎士団のジェネラル・アセンブリでは5人の地区代表のうちの一人を務めた[5]。騎士団の全国指導者、テレンス・V・パウダリーの支持を得て、彼女はこの会議の参加者たちによって新設された女性部の代表に選出された[3]。(ジェネラル・アセンブリは女性労働者の労働環境についての情報を集める委員会を創設し、その調査結果によって総調査官が主導の女性部を創設した[5]。)彼女の役目は「女性の雇用条件を調査し、新たなアセンブリを組織し、同一労働・同一賃金という騎士団の綱領を宣伝し、騎士団に女性を統合する」ことであった[12]。彼女は有給の労働調査員及び組織家となった初めての女性であった[8]。しかし、同時に「騎士団の中で全国的な役職に就いた唯一の女性」でもあった[13]。
主任調査官として、バリーは合衆国中の女性たちの賃金と労働条件の改善に人生を捧げ、調査のために国中を旅して回ったが、一方で女性労働者の代弁者としても活動した[7]。このことによって彼女は二人の子供を残して公的な領域に関わらざるを得なくなったので、伝統的な女性社会に関する彼女の見方は複雑なものになった[14][15]。1887年、1888年、1889年に彼女がジェネラル・アセンブリに提出した報告書は、工場における厳しい労働環境や、女性・児童への虐待を伝えていた。これらの報告書により、バリーは初めてアメリカの女性労働者に関する全国的な統計をとった人物となった[6]。当時は65,000人の女性が労働騎士団に参加しており、騎士団は女性に仕事や廉価な商品を提供したほか、女性の工場労働者の利害を守るためのボイコット運動も組織した[14]。騎士団の地方支部のうち、400ほどが女性を包摂しており、これらのうち3分の2は団員が女性に限定されていた[16]。しかしながら、女性労働者たちの無関心や騎士団内部の分断、そして男性優位の社会の中で女性が男性を組織することの難しさのために、バリー自身は確固たる支持者を集めることは無理だと感じていた[17][14]。また雇用主も彼女が自分たちの向上を調査することを許さなかった[6]。こうした雇用主の抵抗のために、女性を組織化することは難しく、そしてしばしば、ある程度高給の労働者は自分たちの労働条件が悪化することをそ恐れて労働運動に加担しようとしなかった。バリーが述べているように、女性たちは「自分たちにもたらされた条件についていかなる疑問を持つこともなく従い、受け入れる習性、そして全く希望の光が見えない人生に悲観的な見方」を持っていた[18]。こうした要因により、バリーは労働者保護のために州や連邦レベルでの立法運動を支持するようになった[19]。この分野での最も顕著な彼女の功績は、1889年にペンシルヴェニア州で初めての工場調査法を通過させたことであった。しかしながらバリーは政治家へのロビー活動はしなかった。なぜなら、彼女がそうした活動を「レディらしくない」と考えていたからであった[17]。彼女はキャリアを通じて500以上の演説を行ったが、特に1888年7月4日には『労働者の尊厳(The Dignity of Labor)』というタイトルで、イリノイ州・ロックフォード(Rockford)の3,000人の聴衆を前に演説を行い、これによって女性のローカル・アセンブリが「母の日(Foremothers’ Day)」とい名前の祝日を作ることにつながった[20]。
バリーは騎士団内部の政治闘争に巻き込まれ、総書記官のジョン・ヘイズ(John Hayes)と敵対した。1888年、ヘイズは女性部の指揮権を掌握し、バリーに嫌がらせを行って、彼女が1890年に辞任するよう追い込んだ[21]。
後半生と遺産
[編集]彼女の努力が常に成功するとせざるとに関わらず、彼女は女性参政権運動に不朽の遺産を残した。バリーは挫折しても常に前進し続け、彼女が信じる大義のために進んでその身を捧げた。結局のところ「運動は、より伝統的な女性の関心と、公的生活の中で重要な役割との間での難しい選択を迫っていた[10]。」彼女が自らの目標を「飢えや寒さ、欠乏に苦しみ、何度も挫け、ぽっかりと空いた不道徳の穴に落ちてしまうような、我々の街に住む数千人の低賃金女性労働者を暴虐と強欲から」解放することだと自覚していたことを考えれば、彼女を駆り立ててていた動機と情熱がよくわかる[22]。
バリーは経済的な必要性がない限り、女性は家庭の外で働くべきではないと考えていた。1890年にオバディア・リード・レイク(Obadiah Read Lake)と結婚したのを機に、バリーは労働騎士団での職を辞し、女性部を廃止させた[14]。
騎士団を辞める際、以下のように述べて、彼女は全ての使命を撤回たように見えた。「もし可能だったなら、女性にとって家事以外のいかなる仕事についても学ぶ必要がなかったら良かったのにと思う。なぜなら私は、男性こそが一家の稼ぎ手であるべきだと信じるからである。」こうした思惑は彼女の人生を通じた理念と相反しているように見えるが、彼女は以下のような条件を付け加えていた。「しかし現在の状況ではそうしたことは不可能であるので、女性たちがいかなる職業を選ぼうと、またいかなる職業が自分たちに最も適していると考えようと、女性たちが熟練労働者になるためのあらゆる機会を手にしているべきだと私は信じる[19]。」レイクはセント・ルイスに住む熟練の印刷工で、『セント・ルイス・グローブ=デモクラット(St. Louis Globe-Democrat)』紙の校正と編集を務めていた[17]。
彼女はセント・ルイスで退職したのちも、女性参政権運動や禁酒運動、その他の改革運動を代表して講演旅行を続けた[7]。彼女は女性の労働における平等を求め続けたが、その方法は組織的ではなかった。バリーは主に改革に関しての大衆演説家として活動したが、1893年にシカゴのコロンビア万博で開かれた世界女性代表者会議(World's Congress of Representative Women)で彼女が行った『労働者の尊厳』という演説からもそのことがわかる[11]。(バリーは決して前もって原稿を用意しなかった[17]。)また彼女はコロラド州での女性参政権運動でも成功し、その存在感を示した[17]。
1916年に彼女はイリノイ州・ミヌーカに転居して、女性キリスト教禁酒同盟(Woman's Christian Temperance Union)やアメリカ・カトリック絶対禁酒同盟(Catholic Total Abstinence Union of America)で活動したが、一方でのちのヴォルステッド法などにつながる、禁酒法に関する大衆の支持を集めることも重視した[7]。野球ファンとして、バリーはしばしばシカゴに観戦に訪れた[17]。晩年はマザー・レイクとして知られ、1923年7月18日に口腔がんで死んだ[17]。
脚注
[編集]- ^ Levine 1983, p. 331
- ^ Weir 2000, p. 144
- ^ a b Anonymous 1990
- ^ Arnesen 2007, pp. 145–146
- ^ a b c d Anonymous 1971, p. 101
- ^ a b c d e Whitman 1985, p. 57
- ^ a b c d e Van Doren 1974, p. 68
- ^ a b "Leonora Marie (Kearney) Barry, Labor Organizer Archived 25 April 2009 at the Wayback Machine.", Women of Courage Profiles.
- ^ American National Biography. 1 Feb. 2000
- ^ a b Levine 1983, p. 333
- ^ a b Anonymous 2002, p. 187
- ^ Arnesen 2007, p. 146
- ^ Levine 1983, p. 332
- ^ a b c d Opdycke 2000
- ^ Levine 1983
- ^ Levine 1983, p. 325
- ^ a b c d e f g Anonymous 1971, p. 102
- ^ Quoted from Garraty & Carnes 1999, p. 253
- ^ a b Levine 1983, p. 334
- ^ Levine 1983, pp. 333–335
- ^ Robert E. Weir, The Nights Unhorsed: Internal Conflict in a Gilded Age Social Movement (2000) pp 141-60.
- ^ Garraty & Carnes 1999, p. 252
参考文献
[編集]英語二次文献
[編集]- Anonymous (1971), “Barry, Leonora Marie Kearney”, Notable American Women, 1607–1950: A Biographical Dictionary, Cambridge, MA: Belknap Press
- Anonymous (1990), “Barry, Leonora Kearney”, Dictionary of American Immigration History, Scarecrow Press, p. 67
- Anonymous (2002), “Barry, Leonora M.”, Women in World History: A Biographical Encyclopaedia, Yorkin Publications, pp. 186–187
- Arnesen, Eric (2007), Encyclopedia of US Labor and Working-Class History, New York, NY: Routledge
- Garraty, John A.; Carnes, Mark C. (1999), American National Biography, New York, NY: Oxford University Press
- Kenneally, James J., "Eve, Mary and the historians: American Catholicism and women." "Horizons" 3, no 2 Fall 1976, p 187-202.
- Levine, Susan (1983), “Labor's true woman: domesticity and equal rights in the Knights of Labor”, The Journal of American History 70 (2): 323–339, doi:10.2307/1900207, JSTOR 1900207
- Opdycke, Sandra (2000), “Barry, Leonora”, American National Biography Online[リンク切れ]
- Van Doren, Charles, ed. (1974), Webster's American Biographies, G. & C. Merriam
- Weir, Robert E. (2000), “A Dubious Equality: Leonora Barry and Women in the KOL”, The Nights Unhorsed: Internal Conflict in a Gilded Age Social Movement, pp. 141-160
- Whitman, Alden, ed. (1985), American Reformers, New York, NY: H. W. Wilson