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利用者:玉井輝大/sandbox

主基斎田から見た農士学校 全貌
農士学校正門

福岡農士学校の沿革 --玉井輝大会話) 2020年12月20日 (日) 03:47 (UTC)(青柳正彦という卒業生の方からの資料に基づいています。)

1. 農士学校の正式名称

・ 福岡農士学校(昭和6年6月)

・ 財団法人 九州農士学校と改名(昭和21年6月)

現在は西教寺の本堂に使われています。

2. 存在期間;創立、閉校 創立 S6年(1931)6月

・ 昭和6年福岡県知事松本学を中心として、安岡正篤、佐藤慶太郎、麻生太吉の諸氏が努力して創立。

・ 金鶏学園より伊藤角一学監着任 S7年(1932)4月

・ 第一期生入学9名 S6年~21年

・ 松本学をはじめとして、歴代の福岡県知事が学校の代表者となって経営にあたる。 S21年(1946)

・ 野田勢次郎を理事長として財団法人に改組し九州農士学校と改名する。 S27年(1952)

・ 安川第五郎を会長として第一次後援会を結成。 S28年(1953)5月

・ 西鉄糸島農園を譲り受け、本校を移転す。 S32年(1957)

・ 佐藤篤次郎を理事長、安川第五郎を会長として第二次後援会を結成する。 S39年(1964東京オリンピックの年)11月

・ 閉校解散する。  最後の卒業生を送る。S38年3月  本科及び研究科卒業生総数256名を世に送る。


3.学生及び出身地

・ 青森県から沖縄県まで全国的に、総数256名。

・ 31年間で年平均8名程度。

・ 多い年20名、少ない年3名。 寮 ・ 明徳寮。師弟起居を共にする。年中5時起床。


4.なぜ、農士学校が脇山にできたのか?

・ 亀朴の占いで福岡県となった昭和御大典の大嘗祭主基斎田縁の地として。


5.農士学校の理念

・文武農一如。知、行、徳、具足の青年を養成、以て農村の振興を期す。(知識、実行力、道徳が十分に備わっている青年の養成)

教師の写真とその居宅です。

6.職員名簿(下線は在校中教わった方で面識ある方々です)

名誉校長: 松本学

学監校長(理事長): 伊藤角一 菰田正郎 西坂経孝 佐藤篤二郎 野村理一

    (校長代理) 赤羽善治

教授: 高木繁雄 富樫勇 西坂経孝 門田正亮 岡政登 桑原東 福元三郎 新居田静 鈴木礼三郎 家藤栄一 川崎三郎 青木長吉 波多江直治

助教授: 福沢章甫 沢近栄一

武道教師: 高山喜六 乙藤市蔵

講師: 三隈虎雄 武内晴好 石橋一 佐藤敏夫 飯田左翼 福島泉 角田貫治 重野敏 大塚英雄

教正: 上野千伍 菰田正郎

助教: 長仁助 上野千伍 門田正亮 結城清 工藤順二 福元三郎 桑原東 山路市郎 中原光明 武田耕三 川崎三郎 山本信夫 青木長吉 永長太七 渡辺直治 早川和見

助手: 平島駒夫 中野伝 桑原東 家藤栄一 岡 優

主事: 石津新四郎 井石宰平 乙藤市蔵

寮母: 長タミ 石津テイ

指導員: 田中梅太郎 執行伊太郎

顧問嘱託: 丸木長雄 占部重吉(木工)

事務員: 亀井房枝

校医: 広橋玄理

炊事: 田中ナオ

太鼓で目覚め、愛日神社にお参り。

7.具体的な教育内容

・師弟起居を共にしての塾教育。

○文 講義;

・ 原則として午前中や雨天時

・ 四書五経の四書(論語、孟子、中庸、大学)

▲ 儒教で仁は博愛の美徳

・ 儒教とは孔子を祖とし、仁を根本とする政治道徳の実践を説いた教え。

・ 来客による講義(精神訓話教育思想講座、農学、栽培技術、農業経営など)

▲ 座禅

・ 線香一本 30分程度。

▲ 禊(みそぎ)祓(はらえ)


○ 武

▲ 杖術

・ 神道夢想流の杖道(黒田藩の秘武道)。警視庁特別警備隊導入→警官警棒として全国普及。

・ 全校上げて真剣に励み国民武道会結成して杖道の普及振興をはかった。


○ 農

▲ 戦後は極めて重視される。

・ 農作業実践による技術の修得(育苗から収穫まで多収穫栽培技術について)

▲ 所在地

農地: ・広田農場(水田): 米、麦作

    ・野中農場(畑): 野菜栽培

    ・竹尾農場(茶畑)

農舎: ・大収納舎、畜舎(牛、馬各1頭)、堆肥舎、鶏舎

神道夢想流杖術 鍛錬風景も
農場風景。ほら貝で時が告げられる。

8.農業について(戦後のことしか分かりませんが、思い当たることのみ)

○当時の農業はどんなだったか?

・特筆すべきは片山内閣での農地解放によって、小作農が自作農になった。

▲ 重要課題

・ 農業者に課せられたのは食糧増産であり、質より量の時代が続いた。

○今の農業

・ 家族労働主体は続いているが、普作作、園芸、畜産各部門でも機械化の進展と圃場の基盤整備によって、量から品質の良いものへと急速に進んでいる。

○当時の早良地域は?

・表作は稲作一本。裏作として脇山、内野、入部、金武までは麦作で、収穫時は一面小麦色となり、田隈、原校区では菜種が多く黄色に染まって集落の他はすべて圃場で鉄道の西新駅が見えた。バブル時代から田隈、原の農地はほとんど宅地化した。

○今の早良の農林業

・入部、金武校区でビニールハウス園芸の進展が見られる。

・ 露地では入部で国の冬キャベツの指定産地が定着した。

・ 林業は市全域の山林を金武にある市森林組合が施策を進めているが林業振興に苦慮している。

・ 早良が市域で最も広域の山林を有しているが、間伐が進まぬ状態で、間伐、枝打ち推進による山林の活性化が望まれる。

・ 課題は長期間に及ぶ木材販売のストップ状態にある。山への森林組合員の意欲の喪失を強く感じる。


<追加> 農士学校関連

1. S10年 畑山四男美福岡県知事 県立の農士道場を私立学校令に撚り宗像に設立(県、伝習農場)

2.開校後の諸事

(1)記念碑

ア、 九州農士学校址 赤羽善治書

裏面に創立からの経緯、と、創立33年を記念し碑を立て業績を後世に傳ふ。

名誉校長1名と歴代理事長6名を刻している。

イ、 九州農士学校跡地

早良区より前原市東 当地に移転、昭和28年5月。

解散 昭和39年11月

(2)農士学校の講堂の移築

   早良区東入部 平尾西教寺の本堂と成る

農場の風景。田植え、牛馬を使った耕作。

3.愛日同窓会

会則;文武農三道の道業を振興することを目的とする

・S.8.10.19 結成

・H.19.11.16 解散総会 於 脇山 涼山泊

・農士学校閉校後42年を経て、結成から74年間に及ぶ同窓会を解散する。


<参考資料>

安岡正篤 公開されてはいませんが、民間や放送特番などでの出演者の言などで風聞として下記よのうに言われていることです。

S.20.8.15(終戦記念日)

・ 終戦の詔書の刪修(さんしゅう)者 (刪修とは「より良きものに仕上げるの意」) 「刪定」も同意

・ 平成年号の献創者 地 平らかに 天 成る (書経) 内 平らかに 外 成る (史記)

S.63.9.30 昭和天皇重体 S.64.1.7 6時30分 崩御 時の内閣(竹下首相 小渕官房長官)14:35発表

相撲大会の写真も。

明治三大老農 林遠里 翁

世間では翁を功績の高い農学者と呼ぶ人が多いので、敢えて、明治の三大老農 筑前の林遠里 翁と呼びたい。少なくても翁の郷里の人々は皆んなこう呼んでもらいたい。 老農とは、「老」を尊称する歴代の明治政府が日本農業の振興に特筆の尽力をされた三人の人々に贈った最大の感謝を表した尊称である。 維新後、明治の政治に携わったのは殆どが元武士であり幕府の政治は老中が司った。 幕末の危機を迎えては、老中の上に大老職までおいて対応したことからも「老」が特別な尊称であったことがわかる。

集合写真 安岡正篤が写っている写真も
昭和39年11月に建てられた石碑。歴代理事長の名も刻まれています。

<参考>

●安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月13日)は陽明学者・思想家。 現在の大阪市中央区生まれ。少年期、母、近所の神社のおじさんなどから、四書五経の素読を授かる。1922年(大正11年)に東京帝国大学の卒業記念として執筆され出版された『王陽明研究』が反響を呼ぶ。 大学卒業後に文部省に入省するも半年で辞し、「東洋思想研究所」を設立、当時の大正デモクラシーに対して伝統的日本主義を主張した。拓殖大学東洋思想講座講師をする傍ら『日本精神の研究』『天子論及官吏論』などの著作を発表し、一部華族や軍人などに心酔者を出した。1927年に酒井忠正の援助により「金鶏学院」を設立し、1931年(昭和6年)には三井や住友などの財閥の出資により埼玉県に「日本農士学校」創設し、教化運動に乗り出した。 金鶏学院は軍部や官界・財界に支持者を広げて行き、1932年(昭和7年)には「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として、酒井や後藤文夫、近衛文麿らとともに「国維会」を設立し、新官僚の本山となった。同団体から、斉藤や岡田両内閣に、後藤や吉田茂(後に首相になった吉田茂とは別人物)、廣田弘毅ら会員が入閣したことで、世間の注目も集まったが、一方で政界の黒幕的な見方も強まったため、2年後(昭和9年)には解散に追い込まれる。(ウィキペディア「安岡正篤」より)

農士学校の門柱に合わせて、愛日書院の門柱も。

●安岡正篤先生の「日本農士学校」を範として  郷学の里における教育で最も力を入れるのが「自前の教育」です。農村の持つ不思議な「自然の教育力」を十分生かして人材を送り出してきたのはいつの時代も農村でした。 四季の移り変わり、山川草木、小動物の観察や触れ合い、豊かな感性が磨かれます。野性味が磨かれます。風の谷のナウシカです。加えて、日本精神、東洋思想も真剣に見直さねばなりません。文武両道も道徳教育も日本精神も武士道も一体どこへ行ってしまったのでしょう。肝っ玉の太い胆力(はら)の養成が最大の課題です。女性には日本古来の「婦道」というものがあります。  最近流行の農業体験やら自然体験を教育プログラムに取り入れている学校が増えてきました。 しかし、みな「楽しかった」「いい思い出」で終わりです。生活そのものが農業や自然でなければ身体に染み込まないのになあ・・・といつも思います。親が子供の教育から逃げてはいけません。近隣の人も祖父母も父母も兄弟も友達もみんなそれぞれの立場で教師です。それが「自前の教育」という意味です。村中の人が「人物」になる努力をします。「全村学校」という考え方です。戦中戦後にかけて静岡県庵原村は「全村学校」と呼ばれました。村全体が学校なのです。 小中学校だけではなく、男女青年団あり、家政学園あり、母親学校あり、文化講座あり、図書館ありで、それらを文化専門委員会という組織の下で統一された運営がなされたのです。庵原村民の知性と文化の水準は相当に高かったと言います。講座の担当を村の有識者や経験者で賄うことは、単に経費の節約だけではなく、こういう仕事に協力することによって指導者はさらに人物を高めていったという意義を見逃してはなりません。  先般、明治時代その村の指導者であった片平信明氏の子孫の方に会っていろいろ話しを伺ってきました。二宮尊徳公の報徳の精神で急峻な山間の極貧村が毒荏(どくえ)からお茶の栽培へ、更にお茶からみかん栽培に転換して裕福な村に移り変わってゆく様が「全村学校」(山田清人著 中教出版)でも描かれています。 ゼロ才からの石井式漢字教育、古典の素読、武道、養生訓(貝原益軒)などは必修かと考えます。  私は「農的生活から農士を育てる」「士道を以って農を営む」ことを教育の基本方針とします。「士」とは、たくさんの欲望の中からただ一つを集約してそれに向かって努力精進する者を言います。言い換えれば、「志の高い人間」であります。  私の私淑する故安岡正篤先生(碩学哲人経世家、歴代総理指南役と言われています)は、「都市と農村の人口が半々になるのが理想だ。悪くても農村人口4割を切ってはならない」と言われています。今の日本は8対2の割合になっており、まさに危機的状態です。極度の都市化が出生率の低下を招くとシュペングラー(西洋の没落の著者)も言いましたが、日本はついに1.32人(平成13年度)まで低下してしまいました。歴史上、都市化の過度の集中が国家崩壊を招かない例はありません。安岡先生は、「人類発展の過程でどうしても現れる都市文明というものの危険性、これの救済にあたることが農村の最大使命である」と言っております。  私は一刻も早く農村の再生に取り組まねばならないと考えています。 農士とは、農業の実践をとおして日本精神を具現化する青少年とでも言いましょうか、文武両道の人でしょうか。「徳育」「体育」「気育」「知育」(この順序が大切なのですが)のバランスがとれた人材です。イメージとしては、現代風の武士道を模索しています。  具体的には、昭和6年から 27年まで埼玉県嵐山町にあった安岡正篤先生の「日本農士学校」を範としてゆきたいと考えています。この学校は残念なことに戦後GHQの解体指令で没収されてしまいましたが、安岡教学は現代の日本に最も求められている教育だと信じます。(特定非営利活動法人 共生社会を推進する会のHPより)


●「東京都美術館を寄付した佐藤慶太郎」商才豊か、無欲の若松石炭商

東京の上野公園の中に「東京都美術館」がある。この建設費用は若松のある石炭商が一人で寄付したということをご存じだろうか。その人物とは佐藤慶太郎。若松の高塔山入り口の佐藤公園を寄付した方としてならご存じかもしれない。 大正十(一九二一)年三月十七日の朝、佐藤氏は東京の旅館水明館で時事新報の社説を読んでいた。「東京のような大都市に常設美術館がないのは問題だ。百万円ほどあれば建設できる。だれか心ある人はいないものか」というような内容であった。何と佐藤氏はこの記事を見た直後に東京府知事に電話をかけた。直ちに百万円を寄付するというのだ。当時の百万円は今のお金でどれほどの価値になるのかといえば、新聞一部が四銭の時代であったので、それからすると二十億円以上の大金だ。

しかし、佐藤氏は「私は学者でも政治家でもない。私にできることはまじめに働いて得た浄財を、世のため人のためにささげるという金銭奉仕」と淡々と語って百万円を寄贈した。また東京都から「美術館の名前は何にしましょうか」と尋ねられても「何でっちゃよかー」(何でもかまわない)と答えたそうである。 ゆえに美術館の名前に「佐藤」の文字は残らなかった。 名誉欲なし

本当に名誉欲のない素晴らしい人であった。私の祖父岸田牛五郎は、当時佐藤商会関連のみどり炭坑の坑長をしており、佐藤氏と親しくしていた。佐藤氏は私の祖父に「美術館に百万円寄付することに決めた」と話した。祖父も「それは素晴らしいことだ」と即座に答えたと聞いている。しかし若松では「なぜ東京都に百万円も寄付するのか。若松市にしてくれればよかったのに」という声もかなり聞かれたようだ。 祖父から「佐藤氏のように素晴らしい事業家であり、文化人であれ」とよく聞かされた。彼がいかにすぐれた事業家であったかを示すエピソードがある。 短所を長所に

佐藤商会が取り扱っていた嘉穂郡大隈炭は五層炭で品質があまりよくなかった、というのは火のもちがよくなかった。そこで佐藤氏は大隈炭を売りひろめる適当な販路はないかと思案。思いついたのが捕鯨船であった。捕鯨船はクジラを見つけると、全速力で追いかける。大隈炭は火もちはよくないが、一時にパッともえて火力が出るのでちょうどいい、というわけだ。予想通り、捕鯨船は争って大隈炭を買い求めた。もうその時には左藤商会は五層炭を買い占めていたのである。 また佐藤氏は晩年別府に移り住んだ。そして別府の著名な甲状腺専門の野口病院を寄贈している。私も先日この病院を訪れたが、玄関には「この病院は佐藤慶太郎氏の好意により建てられた」と書かれた銅板プレートがはめ込まれていた。

若松の人なら「佐藤公園」で一度は桜の花見をしたことがあるだろう。佐藤家の屋敷跡で、この公園の中には以前「佐藤クラブ」があり、市民は公民館のように自由に使っていた。私も結婚式の披露宴をここで行った。今は公園だげが佐藤公園という名でかろうじて残されている。 佐藤慶太郎という素晴らしい人間を若松が生んだことを誇りに思い、忘れてはならない。そして東京に行った折には、ぜひ東京都美術館を訪れ、同郷若松人の崇高な行為に思いをはせてほしい。 (出典:http://www.yoshino-hp.com/about/history/first_story.html)