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利用者:真由姫/下書き

高倉藤平[編集]

高倉藤平(たかくらとうへい、1874年(明治7年)-1917年(大正6年)) 堂島株買い占め理事長へ、高倉藤平氏(ニッポン相場師列伝)2005/10/17, 日経金融新聞, 32ページ, 有, 1773文字

弱冠十七歳で家督を相続すると、一挙万金を狙って綿糸相場に挑戦する 活路を求めて大阪に出る。堂島や北浜で勝ったり負けたりしながらも株式仲買店を開業、時に二十二歳。 明治三十三年、天一坊・松谷元三郎にそそのかされて、豊川鉄道株の買い占めのお先棒をかついだのが敗着となった。 二十四円台に逆戻りし藤平は破産、仲買店は人手に渡る。  明治三十七年には再び仲買業の看板を揚げる。折から日露戦争の大相場で巨利を占めると、堂島米穀取引所株の買い占め作戦が始まる。高倉の本邸には脅迫状が舞い込んだり、縁起でもない骨つぼや経帷子(きょうかたびら)が送り付けられる。だが、藤平はひるまない。この時売り方は義侠の相場師岩本栄之助に哀訴嘆願、売り出動を乞う。  高倉買いの岩本売りで市場は大混乱に陥る。高倉が「二百五十円カイ」と叫べば、岩本は「百五十円ヤリ」とやり返す前代未聞の乱戦となる。この戦は野村徳七が仲裁に入って落着するが、この時集めた株がモノを言って高倉は名門堂島米穀取引所の第九代理事長のポストを手にした。まだ三十六歳の若さである。

 大正六年、欧州大戦の最中、北浜のドン松井伊助と組んで郵船株の買い占めに乗り出し、近藤廉平社長に辞任を迫る株主総会を開くところまで追い詰める。 「近藤社長を支持する松方正義公と近藤社長追い出しを図る片岡直輝ら関西側のケンカであり、さらには高倉派の政友会と、近藤派の憲政会の対立でもあった」(宮本又次著『大阪商人太平記』)  憲政会は九州若松の吉田磯吉親分の勢力下の炭鉱夫三百人を総会に送り込む一方、政友会は三百人の院外団を株主に仕 立てて同席を画策する。一触即発の危機を前に、山県有朋公が仲に入って、事なきを得た。

 これより先、藤平は北浜銀行頭取に就任する。大阪財界の名物男岩下清周の野放図経営のトガメで破綻、難題処理にかつぎ出された。営業再開初日、高倉は一計を案じ、ケチンボで有名な大富豪の竹原友三郎にひと役買ってもらう。竹原が雪駄の音も高らかに窓口に現れると「おめでとうさん」と大金を預け入れた。この一件が伝わると、安心した顧客の預け入れが相次ぎ、業績は回復に向かった。財界大御所への道を歩み始めた途端、腸捻転で急逝、四十二歳。太く短い相場師(たかくら とうへい 1874―1917)  明治7年大阪岸和田町出身、同24年家業の木綿商を継ぐが、綿糸の思惑で失敗。日清、日露戦役相場で巨利をつかみ、同44年堂島米穀取引所理事長に就任。大正6年松井伊助と日本郵船株の買い占めに乗り出し、政友会、憲政会、吉田磯吉親分を巻き込んでの大波乱に発展するが、同9年急逝、42歳。 浪速火災保険(明治43年1月頃)-後の太田清蔵、原錦吾らに売却T7.10日本共立火災保険に改称、後に大倉組に売却され大倉火災海上、千代田火災に合併

高倉為三[編集]

十合呉服店より高倉藤平の元にきて、気に入られ養子に 高倉藤平の跡を継ぎ、堂島米穀取引所理事長に 日本貯蔵銀行の常務、実質的なオーナー 積善事件にて収監

破綻の原因[編集]

当行は、大相場師として有名であった高倉藤平の養子であり、藤平の跡を継いで堂島米穀取引所理事長でもあった常務の高倉為三が実質的に所有、支配していた。高倉為三は、経営困難に陥っていた自己の経営する関係会社に投融資を実施し、その結果として、破綻に陥った。


第百十三国立銀行[編集]

第百十三国立銀行(だいひゃくじゅうさんこくりつぎんこう)は、明治期に函館で設立され、北海道に本店を置いた初めての銀行

1878年(明治11年)に、北海道函館の商人である村田駒吉、杉浦嘉七、田中正右衛門らによって設立。翌1879年(明治12年)1月開業。資本金は15万円。その後、国立銀行営業満期前特別処分法に基づき私立銀行百十三銀行に改称。金融恐慌を受け、1928年(昭和3年)に北海道銀行(後の北海道拓殖銀行)に合併された。

沿革[編集]

  • 1878年(明治11年)11月13日:北海道函館で設立
  • 1879年(明治12年)1月6日:開業
  • 1897年(明治30年)7月1日:百十三銀行に改称
  • 1922年(大正11年)4月2日:函館銀行を合併
  • 1928年(昭和3年)3月31日:北海道銀行(後の北海道拓殖銀行)に合併される

関連項目[編集]

Category:かつて存在した日本の銀行|たいにしゆうさんこくりつ

知多銀行(ちたぎんこう)は、明治期から昭和期の愛知県にあった私立銀行

1907年(明治40年)に、尾州廻船である内海船船主の内田家が愛知県名古屋市の堀川銀行を買収し、内海町に移転させ内海銀行(うつみぎんこう)と改称。当時堀川銀行は、名古屋銀行に営業譲渡した後であり、営業実態はなかった。買収当時の資本金は10万円(全額払込済)。頭取は内田七郎兵衛。翌1908年(明治41年)に内海貯蓄銀行知多貯蓄銀行と2行で買収し、野間町(現美浜町)に移転。1939年(昭和14年)に伊藤銀行東海銀行の前身の一つ)に営業譲渡し歴史の幕を閉じた。


営業譲渡時の支店等[編集]

  • 支店(6支店)
野間、豊浜、河和、武豊、岡田、常滑
  • 出張所(11箇所)

沿革[編集]

  • 1907年(明治40年)1月18日:堀川銀行を買収し内海銀行に改称(『銀行総覧』では2月19日改称)
  • 1908年(明治41年)7月1日:内海貯蓄銀行の営業を知多貯蓄銀行と2行で買収し知多銀行に改称し野間町に移転
  • 1918年(大正7年)7月:内海町に再移転
  • 1922年(大正11年)10月15日:知多貯蓄銀行と合併し、新知多銀行を新立
  • 1939年(昭和14年)11月20日:'伊藤銀行東海銀行の前身の一つ)に営業譲渡

参考文献[編集]

Category:かつて存在した日本の銀行|ちた