利用者:石巻敎祖/sandbox
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千葉県作成所[編集]
岩井袋 | |
---|---|
大字 | |
令和5年5月14日撮影の岩井袋隧道。 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 千葉県 |
市町村 | 安房郡鋸南町 |
人口情報(2023年(令和5年)[1]) | |
人口 | 145 人 |
世帯数 | 87 世帯 |
面積 | |
0.355779891 km² | |
人口密度 | 407.56 人/km² |
設置日 | 1889年(明治22年) |
郵便番号 | 299-2116[2] |
市外局番 | 0470[3] |
ナンバープレート | 袖ケ浦 |
運輸局住所コード | 要追記[4] |
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岩井袋(いわいふくろ[5]、いわいぶくろ[6])は、千葉県安房郡鋸南町の大字であり、旧安房郡勝山町岩井袋および、1889年(明治22年)以前の平郡[注 1]岩井袋村と同一の区域である。2023年現在の人口は145人で、世帯数は87世帯。郵便番号は272-0826[2]。
歴史[編集]
沿革[編集]
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により加知山村、下佐久間村、岩井袋村、竜島村が合併し、勝山村が成立。これに伴い、岩井袋は勝山村の大字になる。
- 1896年(明治29年)1月20日 - 勝山村が町制を施行し勝山町(初代)となる。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 平郡が安房郡に編入。
- 1955年(昭和30年)3月10日 - 佐久間村と勝山町が合併し、改めて勝山町(2代目)が新設。
- 1959年(昭和34年)3月30日 - 保田町と勝山町が合併し鋸南町が成立。これに伴い、岩井袋は鋸南町の大字になる。
- 2019年 - 令和元年房総半島台風(ファクサイ)が来襲。当地に被害をもたらす(後述)。
地理[編集]
北は下佐久間や竜島、南東は南房総市久枝と接し、西部は東京湾に面する。
小字[編集]
施設[編集]
- 岩井袋野球場
- 岩井袋コミュニティセンター
交通[編集]
隧道[編集]
- 岩井袋隧道
鉄道[編集]
域内に鉄道は走っていない。最寄駅はJR内房線の安房勝山駅や岩井駅が挙げられる。
バス[編集]
寺社仏閣[編集]
- 豊龍神社:宮宿の市街地北西の丘の上に所在し、豊玉姫大神を祭神とする[8]。明和年間に出羽松山藩医の羽柴玄倫の著した宗古録によれば、844年(承和11年)に延暦寺の僧である安慧が出羽国を巡り歩き、この地に講場を開いた際に、龍の神霊を鎮め祀って、この地の鎮守とし、別当宝筺山東守寺を建立したとされる[8]。なお、豊龍神社付近では、経筒を納める容器として用いられたと推測される12世紀末の珠洲系陶器が出土した[8]。境内には、幹囲約9メートル、樹高約40メートルの大杉があり、山形県の天然記念物に指定されている[8]。
- 熊野山福昌寺:曹洞宗の寺院で本尊は釈迦如来である[9]。当初は、鳥屋ヶ森館主岸美作守義満が巣林寺(現在の尾花沢市に所在)七世第鷹俊最を招き、永禄元年頃に根古屋に寺を建立し、山号を三宝山と称したとされる[9]。しかし、最上義光が鳥屋ヶ森館を攻略したとき、寺は兵火にかかったため、三本木に移転し、山号を三本山と改めた[8]。その後、1589年(天正17年)に宮宿付近の開拓の進展に伴い、熊野権現社地へと移り、山号を現在の熊野山に改めた。
祭り[編集]
- 朝日町ワイン祭り:エコミュージアムコアセンター創遊館にて毎年9月頃開催される[10]。入場券は完全前売制で、朝日町ワインのほか、バーベキューやぶどう踏み競争、抽選会を楽しめる引用エラー:
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人物[編集]
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 6 山形県』角川書店〈2版〉、1992年6月30日。ISBN 4040010604。
- 吉田東伍『『大日本地名辞書』第七巻奥羽』(9版)冨山房、1990年3月20日。ISBN 4-572-00033-6。
- 長井政太郎『『日本歴史地名大系』第六巻山形県の地名』平凡社、1990年2月26日。ISBN 4-582-49006-9。
外部リンク[編集]
- 千葉県鋸南町岩井袋 (124630140) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット - Geoshapeリポジトリ
仙北作成所[編集]
志津川 (南三陸町)[編集]
志津川 | |
---|---|
大字 | |
北緯38度40分49.616秒 東経141度27分44.996秒 / 北緯38.68044889度 東経141.46249889度座標: 北緯38度40分49.616秒 東経141度27分44.996秒 / 北緯38.68044889度 東経141.46249889度 | |
座標位置:南三陸町役場 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 宮城県 |
市町村 | 本吉郡南三陸町 |
地域 | 志津川地域 |
設置日 | 1889年(明治22年)4月1日 |
郵便番号 | 986-0700[2] |
市外局番 | 0225[11] |
ナンバープレート | 宮城 |
運輸局住所コード | 04815-0066[12] |
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志津川(しづがわ、英語: Shizugawa)は、宮城県本吉郡南三陸町の大字であり、旧本吉郡志津川町志津川地区[注 2]に相当する[13]。郵便番号は986-0700[2]。大崎市ホームページによると2022年(令和4年)4月1日時点での域内の人口は194人であり、世帯数は○○人である。
地理[編集]
南三陸町にある4つの大字の一つであり、入谷、戸倉、歌津とともに南三陸町を構成する[13]。
河川[編集]
小字[編集]
志津川の擁する小字は以下の通りである[12]。
- 黒崎
- 内山
- 林
- 大久保
- 上保呂毛
- 下保呂毛
- 田尻畑
- 竹川原
- 中瀬町
- 廻館
- 秋目川
- 熊田
- 小森
- 御前下
- 廻館前
- 塩入
- 汐見町
- 助作
- 城場
- 上の山
- 五日町
- 十日町
- 南町
- 本浜町
- 大沢
- 磯の沢
- 平井田
- 新井田
- 天王山
- 天王前
- 大森
- 大森町
- 袖浜
- 沼田
- 平磯
- 深田
- 蒲の沢
- 平貝
- 北の又
- 権現
- 立沢
- 米広
- 大上坊
- 大畑
- 松井田
- 内井田
- 志津川町
- 植松
- 小田
- 荒坂
- 清水浜
- 阿曽
- 森山
- 細浦
- 蛇王
- 西田
- 旭ヶ浦
歴史[編集]
沿革[編集]
- 2005年(平成17年)10月1日 - 本吉郡志津川町が同郡歌津町と合併し、同郡南三陸町を設置するに伴い、大字志津川が成立[13]。
- 2011年(平成23年)3月11日 - 東北地方太平洋沖地震発生。
交通[編集]
鉄道[編集]
東北地方太平洋沖地震による被害を受けるまでは、JR気仙沼線志津川駅が鉄道駅として設置されていたが、現在は廃止されている。最寄駅は気仙沼駅や柳津駅が挙げられる。
バス[編集]
道路[編集]
学区[編集]
域内の児童は大崎市立岩出山小学校・大崎市立岩出山中学校に進学する[14]。
災害[編集]
参考文献[編集]
石巻町丁作成[編集]
穀町 (石巻市)[編集]
穀町 | |
---|---|
町丁 | |
石巻市役所 | |
北緯38度26分3.3秒 東経141度18分9.79秒 / 北緯38.434250度 東経141.3027194度座標: 北緯38度26分3.3秒 東経141度18分9.79秒 / 北緯38.434250度 東経141.3027194度{{#coordinates:}}: 各ページで primary のタグは複数指定できません | |
座標位置:石巻市役所 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 宮城県 |
市町村 | 石巻市 |
人口情報(2024年3月末[1]) | |
人口 | 396 人 |
世帯数 | 235 世帯 |
面積 | |
0.125342245 km² | |
人口密度 | 3159.35 人/km² |
設置日 | 1966年5月1日 |
郵便番号 |
986-0825[2] 986-8501(石巻市役所)[15] |
市外局番 | 0225[16] |
ナンバープレート | 宮城 |
運輸局住所コード | 04501-0129[17] |
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穀町(こくちょう)は、宮城県石巻市の町丁あり、旧牡鹿郡石巻町のち石巻市の石巻字赤土山下、石巻字立町、石巻字北鰐山、石巻字鋳銭場、石巻字明神山の各一部に相当する[18][19]。郵便番号は986-0825(石巻市役所を除く)[2]。石巻市の住民基本台帳によると、2024年(令和6年)3月末現在における域内の人口は235人、世帯数は396世帯である[1]。丁目を持たない単独町名であり、全域で住居表示が実施されている[20]。商業地としての一面をもつほか、2010年(平成22年)に石巻市役所が日和が丘から移転したことから市政の中心地としての機能を担っている[21]。
地理[編集]
石巻市の西南部、本庁地域の中央部に位置し、東部で立町・鋳銭場と、西部で山下町と、北西部で清水町と、北部で駅前北通りと、南部で羽黒町と接する[19]。
沿革[編集]
- 1966年5月1日 - 石巻字赤土山下、石巻字立町、石巻字北鰐山、石巻字鋳銭場、石巻字明神山の各一部をもって、穀町が成立[19]。
- 2008年4月27日 - さくら野石巻店が閉店[22]。
- 2010年(平成22年)
- 2020年4月23日 - イオン石巻駅前店が市役所一階にソフトオープン[23]。
施設[編集]
- 太陽生命保険石巻支社(穀町3番15号)[24]
- ファミリーマート石巻市役所前店(穀町6番17号)[25]
- 穀町会館(穀町10番6号)[26]
- 復興庁宮城復興局(穀町12番24号)[27]
- 石巻警察署石巻駅前交番(穀町13番8号)[28]
- 石巻市役所(穀町14番1号)[21]
- 石巻市立病院(穀町15番1号)[32]
- 石巻市ささえあいセンターほっとぉ〜る(穀町15番2号)[33]
- 日本政策金融公庫石巻支店(穀町16番1号)[34]
- 東北労働金庫石巻支店(穀町16番6号)[35]
- セブンイレブン石巻駅南店(穀町16番15号)[36]
交通[編集]
鉄道[編集]
域内に鉄道駅は所在しないが、北域に東日本旅客鉄道仙石線・仙石東北ラインが通過しているおり、隣接する鋳銭場に所在するJR石巻駅が最寄駅として挙げられる[37]。
道路[編集]
一般国道[編集]
石巻広域都市計画道路[編集]
- 山下内海橋線[38]
外部リンク[編集]
- Geoshapeリポジトリ - 宮城県石巻市穀町 (042020100) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット
石巻大字作成[編集]
荻浜[編集]
荻浜 | |
---|---|
荻浜(2008年撮影) | |
北緯38度22分55.847秒 東経141度26分53.908秒 / 北緯38.38217972度 東経141.44830778度座標: 北緯38度22分55.847秒 東経141度26分53.908秒 / 北緯38.38217972度 東経141.44830778度{{#coordinates:}}: 各ページで primary のタグは複数指定できません | |
国 | 日本 |
都道府県 | 宮城県 |
市町村 | 石巻市 |
地域 | 本庁地域 |
地区 | 荻浜地区 |
設置 | 1889年(明治22年) |
面積 | |
• 合計 | 3.631343525 km2 |
人口 | |
• 合計 | 38人 |
• 密度 | 10人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
986-2341[2] |
市外局番 | 0225[39] |
ナンバープレート | 宮城 |
運輸局住所コード | 04501-0485[40] |
なお、数値は一部四捨五入した。 |
荻浜(おぎのはま)は、宮城県石巻市にある大字であり、旧牡鹿郡荻浜、旧牡鹿郡荻浜村荻浜に相当する。郵便番号は986-2341[2]。2024年(令和6年)2月時点では住居表示未実施[41]。石巻市の住民基本台帳によると、2023年(令和5年)7月時点での人口は38人、世帯数は16世帯である[1]。また、ここでは、荻浜を擁する地区である荻浜地区(おぎのはまちく)についても、解説する。
地理[編集]
牡鹿半島中部西岸に位置し、北西で侍浜と、東で小積浜と、山を挟んで北東で牡鹿郡女川町野々浜および同町大石原浜と接し、南で石巻湾(荻浜湾)に面する。
域内の一部が土石流危険渓流(土石流危険区域)および急傾斜地崩壊危険個所に指定されている[42]。
主に中生代ジュラ紀の約1.5億年前の地層が北北東 - 南南西の軸をもった摺曲及び断層を繰返し、全体として北部に古い地層が、南部に新しい地層が分布している[43]。
山々[編集]
河川[編集]
- 桂川
方孔石[編集]
荻浜および桃浦、女川の海岸でのみとれる人口的に穴が開けられたような石を方孔石(ほうこうせき)という。1901年に初めて発見されたが、なぜ穴が開いているのかは未だ解明されていない。震災以後、岸壁整理・防波堤が建設されたため、現在、方孔石をとることは難しくなっている[45]。
小字[編集]
2024年2月現在における域内の小字は以下の通りである[46]。
- 有田浜
- 有田浜山
- 家ノ入
- 家前
- 石峠
- 荻浜
- 小浜山
- 近藤
- 崎山
- 白浜
- 白浜山
- 田浜
- 田ノ浜山
- 葉山
- 稗山
- 横浜山
- 穴ノ入
- 石峠山
歴史[編集]
字有田浜の丘陵斜面に石槍を出土する縄文時代の荻浜遺跡が存在する[44]。
史料上の地名の初出は正保年間の成立郷帳であるとされる[47]。それには、
遠嶋之内荻之浜
と記されている[47]。
江戸時代には狐崎組大肝煎扱いの小さな漁村であったとされ、元禄年間では、村高約20石[注 3]の蔵入地で人口117人、10世帯、封内風土記によると明和年間の家数は26軒、天保郷帳によると天保年間の村高は24石余であったとされる[48][44]。村落の規模は1698年(元禄11年)の牡鹿郡万御改書上によると東西二十九丁四十間[注 4]南北十七丁二十間[注 5] ほどであったとされる[47]。
江戸期には、荻浜・小積浜(小炭浜)の両村民が度々係争を起こしていたことが文書から判明している。1646年(正保3年)の小炭浜茶売の訴状には、
過ぎる三月三つらめの汐引に、小炭浜の男おんなごを相出し、おいらが、いわし引場をこしらい置候処へ、荻浜のやつべらどもが来て網引申候、ないな引くなちや引くなちやと申候へば、おいらも引かなければならないちやと申して網引申候、昔より、てんでの浜に御座候処、うぬらが浜をばこしらいないで、おいらが浜で網引申候、此処を御代官衆へいつて御吟味被成下度候
とあり、網場を巡って係争があったとされる[49]。これに対し、遠島大肝入阿立与三郎はこれ以降荻浜の者が小積浜(小炭浜)で網引することを禁止する裁定を下したとされる[49]。この一件以降も1718年(享保3年)の小積浜・荻浜村境出入御尋返答書、1737年(元文二年)の小積浜・荻浜村境ニ付荻浜御百姓御尋返答書、1746年(延享3年)の遠島小積浜・荻浜村境見通之古塚堀崩一件、同年の牡鹿郡荻浜領分いるか漁越境御尋ニ付口上書などの係争文章に徴すれば、両村民の対立が続いていたことがわかる[49]。
明治元年になっても江戸時代の頃と同様に一面荻の生い茂るわずか十八戸の寒村であった[47][44]。しかし、野蒜築港の第一期工事の完成に伴い、1881年(明治14年)に三菱財閥三菱汽船が新しく横浜 - 函館間の定期航路を開通するにあたって、淡路丸や九州丸といった船による精密な調査の末、三面山に囲まれ風波を直接受けることのない平穏な港であり、1万トン以上の大型船が容易に入港できる深水港湾であるという点から、荻浜港が中継地に選ばれた[注 6][50][51]。汽船は荻浜港に寄港し荷客の積み卸しを開始すると同時に石巻町本町と荻浜村の両方に営業事務所を設置した[50]。そして、三菱財閥に対抗するために、1882年(明治15年)に共同運輸会社が設立され、さらに1883年(明治16年)には宮城県令松平正直は東北独自の汽船会社の重要性を訴えて、東北各県からの株式募集により、資本金10万円の「奥羽水陸運輸会社」を仙台の大町に本社を設立、石巻を含む県内10ヶ所に支店をおいた[50]。このため荻浜港は盛況を極めたが、激しい競争のすえ、奥羽水陸運輸会社は経営難で解体した[50]。なお、三菱と共同運輸両汽船会社は農商務省西郷従道の斡旋により合併し、1885年9月に日本郵船が設立され、横浜 - 荻浜 - 函館間、1週2回の航路が設定された[50]。1883年には合計118隻の蒸汽船が出入りし、1884年には合計286隻(合計375,265トン)の蒸汽船、合計42隻(合計9,749トン)の西洋型風帆船、合計18隻(合計10,676トン)の日本型五十石以上船が出入りした[52]。当時の日本地図に宮城県唯一の要港として登載され、軍港候補として取り上げられるという噂されたこともあったが、1935年に戦艦陸奥が寄港しただけで、陸路交通が不便であるうえに、船舶の大型化が進み荻浜港では停泊するに狭すぎたため、実現はしなかった[51]。
明治22年、23年頃には、荻浜の戸数が170戸から180戸となり、鍵屋、大森、角屋、伏見などの10軒の旅館が並んだ[53]。
1884年の秋に来襲した台風により、野蒜港内湾東側突堤および西側突堤が破壊され、沈床の流出、積石の散乱などにより、野蒜港が潰滅したことや、1887年に上野 - 仙台 - 塩竈間の日本鉄道東北線の開通により、石巻港および荻浜港の荷客取扱量が減少し、郵船経営にも波及した[54][48]。港内の出先機関は引き上げ、東京から移り住んだ旅館は青森などへと去った[55]。そして、1917年(大正6年)5月15日をもって、荻浜港への寄港が廃止され、客船の寄港地としての歴史に幕を下ろした[51]。
荻浜の由来[編集]
オギの生い茂っていた浜であったため、荻浜と名付けられたとされる[47][48]。
沿革[編集]
- 明治元年 - 高崎藩取締地となる[48]。
- 明治5年 - 宮城県に所属[48]。
- 1881年(明治14年)
- 1882年(明治15年) - 共同運輸会社の定期船の寄港地となる[48]。
- 1884年(明治17年)3月1日 - 荻ノ浜郵便局が開局。
- 1889年(明治22年)
- 1917年(大正6年)5月15日 - 荻浜港への定期船の寄港が廃止[48][51]。
- 1908年(明治41年) - 石川啄木が釧路から横浜に行く道中で荻浜に5時間滞在し、歌を詠む[49]。
- 1925年(大正14年) - 当時の荻浜村長と荻浜漁業協同組合が宮城新昌に牡蠣養殖指導を懇請[57]。
- 1933年(昭和8年)3月3日 - 昭和三陸地震発生し、被災[58]。
- 1935年(昭和10年) - 大日本帝国海軍戦艦陸奥を旗船とする連合艦隊が当地に寄港[51]。
- 1948年(昭和23年)10月1日 - 荻ノ浜郵便局が荻浜郵便局に改名。
- 1954年(昭和29年)5月21日 - 荻浜港港湾区域告示[59]。
- 1955年(昭和30年)
- 1951年(昭和26年) - 大火が発生し、ほとんどの家を焼き尽くす[51]。
- 1960年(昭和35年)5月24日 - チリ地震による津波が来襲し、被災[58]。
- 1982年(昭和57年)
- 2011年(平成23年)
- 3月11日 - 東日本大震災にて被災。
- 2013年(平成25年)10月13日 - 地元有志により、宮城新昌の顕彰碑再建[57]。
- 2014年(平成26年) - 石巻市立荻浜小学校が休校となる[62]。
- 2016年(平成28年) - 防災集団移転促進事業の一環で、荻浜字石峠と荻浜字荻浜の各一部をもって、荻浜字横浜山が設置[63]
- 2018年(平成30年)
- 2021年(令和3年) - 荻浜港における災害復旧工事が完了[59]。
- 2022年(令和4年)11月7日 - 閉鎖中の荻浜郵便局の集配業務を廃止。業務は大原浜郵便局が継承。
- 2023年(令和5年)3月 - 石巻市立荻浜中学校廃校[61]。
施設[編集]
- 荻浜支所・荻浜公民館(荻浜字白浜山7番地2) - 2018年10月29日に新施設が設置[65]。鉄筋コンクリート一部鉄骨平屋で、盛り土した海抜13メートルの高台に建設[64]。延べ床面積859m2。公民館部分にはホール、会議室、和室、調理実習室、図書コーナーなどがある[64]。防災拠点として太陽光発電、蓄電池設備も設置[64]。
- 大震嘯記念碑(荻浜字家前17) - 北上町十三浜や雄勝町名振、鮎川浜といった牡鹿半島の諸集落に同様のものが設置されている[66]。
- 荻浜復興住宅(荻浜字横浜山1番地10・11) - 災害公営住宅で木造平屋[67]。
東日本大震災[編集]
被害[編集]
荻浜では、3度にわたり津波が来襲したが、最も大きい波だったのは第3波であったとされる。第3波が襲ってくる前には、海底が見えるほど海水が引き、その後、大きな黒い津波が襲い、石巻市立荻浜中学校や荻浜支所は浸水し[68]、そのほか荻浜郵便局や宮城新昌顕彰碑なども破壊された。
震災時にあった家屋55戸のうち53戸が破壊され、家屋の被害率は96.5%にのぼり、牡鹿半島の集落別でみると大谷川浜・鮫浦・祝浜・鹿立屋敷(100%)、谷川浜(98%)、桃浦(96.8%)についで多かった[69]。
電気・水道が使用できなかったが、プロパンガス使用地域の為、ガスは使用可能であった。電気・水道の復旧には数ヶ月かかった。
家を失い避難していた人が仮設住宅へと転居することで人口流出が発生した[70]。仮設住宅は荻浜地区だけでなく、石巻市全体にあり、荻浜から離れる家族が多くなった[70]。特に、若い家族が市街地近くの仮設住宅に入ったというケースが多かったとされる[70]。仮設住宅には、冷蔵庫、レンジ、電気釜、テレビ、電気ポット、クーラー等が設置されていた[70]。仮設住宅で生活することで光熱費・食費・生活費などを自分で負担する必要があった[70]。
以下は2012年12月時点での域内の人的被害の統計である[71]。
世代と性別 | 犠牲者 | 死亡率 | 当時の人口 |
---|---|---|---|
男性 | 1人 | 0.62% | 80人 |
女性 | 0人 | 0.00% | 81人 |
15歳未満 | 0人 | 0.00% | 16人 |
15 - 64歳 | 0人 | 0.00% | 86人 |
65歳以上 | 1人 | 1.69% | 59人 |
合計 | 1人 | 1.23% | 161人 |
避難[編集]
- 石巻市立荻浜中学校
荻浜中学校は、2校舎と体育館からできてお り、授業に必要な教室を残し、他は避難所の居 室・調理室・対策本部として使用された[72]。最初は200人が避難をしていたが、仮設住宅への移転に伴い、徐々に人数が減っていき、2011年7月9日時点では約70人が荻浜中学校で避難をしていたとされる[72]。避難所は年齢や性別、家族などを考慮しで使用されており、高齢者は1階図書室を、若い年代の人々は2階教室を居室とした[72]。なお、震災発生当日は雪が降っており、寒かったため避難者らは教室にかかっていた暗幕を数人で巻いて寒さをしのいだ[73]。当初、荻浜中学校に避難者がいないと思われていたためか、被害が発生してから自衛隊が到着するのに約1週間、救援物資が届くのに約2週間を要した[73]。病人が出たため、グランドに卒業式用の紅白の幕で×印を作り、衣類を棒に巻き付けた旗をグランドに出て振り、助けを求めた[73]。食事について、3月11日の夜は煎餅数枚を子供に分けただけで、大人は食べるものがなかった[73]。翌朝、中学校にあった白米を鍋で炊き、小さなおにぎりにしたものと薄めたインスタント味噌汁を少量ずつ分けて食べた。味噌汁は塩蔵わかめを水洗いし、塩抜きせずに入れ、味を調えたものである[73]。2日間おにぎりで過ごした後、民家に残って被害に遭わなかった米と商店に残っていたカレールーやシーチキン、ソーセージ、缶詰などを持ち寄って食事を作っていた。救援物資がくるまでの約2週間は、3食ほとんどがおにぎりで白米がなくなると玄米を食べたとされる[73]。救援物資が届くようになるとそれを使って朝昼夜食の準備をした[73]。停電のため、日が落ちる前(午後3時から4時)に夜食を済ませる必要があったことから、夜になって空腹になり、カップラーメンを食べる人もいた[74]。救援物資として届く食品類は、カップラーメン、缶詰、レトルト食品などが多く、野菜・肉などは、入るときはまとめて届くが、定期的に入ることはなく、多くは避難している人の親戚などによって届けられた[74]。6月頃から、夕食としてのお弁当が届くようになり、避難者らは朝食以外は調理する必要がなくなった。夕食は基本的に4種類の弁当の繰り返しであった[74]。なお、トイレ・調理室において水道が使用できたが、2011年7月時点では、食事準備をしていた家庭科室の水道は使用できなかったため、調理にはミネラルウォーター、野菜・食器の洗浄は沢水を用いており、一回の食事準備で数回沢水をタンクに汲みに行っていた[75]。衛生について、地震発生から2週間は入浴できず、避難している人で小屋を建て、その中に沸かした湯を入れたタライを置き、体を洗った[75]。その後、ボランティアより入浴施設が贈られ、安定した入浴環境が整った[75]。なお、湯は中学校裏に出ていた沢水をろ過し、避難所で出たゴミや廃材を利用してボイラーで温めたものを使用していた[75]。
- 石巻市役所荻浜支所
高台に位置していたため、避難所に指定されていたが、津波の第3波の来襲により、一階天井まで浸水し、避難所としての機能は果たせなかった[72]。荻浜支所に一時的に避難していた荻浜保育所の児童および保育士らは1.3km離れた荻浜中学校へと避難した[72]
地震発生からの経過[編集]
- 2011年(平成24年)
- 3月11日 - 東北地方太平洋沖地震が発生[71]。
- 3月12日 - 荻浜郵便局が業務休止。
- 2017年10月28日 - 津波の教え石が荻浜中学校に設置[76]。
東日本大震災以前の災害[編集]
- 昭和三陸地震
1933年3月13日の河北新報によると
とあり、当地は雪が積もり、物資が不足していたことがうかがえる[77]。
- チリ地震
域内では最大3.9mの津波が来襲し、堤防の破壊された口に向かって家屋や石、木材が殺到した[78]
現在[編集]
荻浜家前21に存在していた荻浜郵便局は、現在は窓口業務およびATM業務を停止している[79]。
福島第一原子力発電所事故をうけて、女川原子力発電所における原子力事故を想定した防災対応マニュアルが作成された[80]。なお、荻浜は女川原子力発電所のPAZ(予防的防護措置を準備する区域)に含まれており、事故発生時には、住民は大崎市立鳴子小学校へと避難することが定められている[80]。
教育[編集]
域内には、小学校および中学校ともに存在していたが、過疎化および少子化により、生徒数が減少し、どちらも平成期に廃校となっている。小学校は、石巻市立荻浜小学校が存在していたが、2014年に休校、2018年に廃校となった[62]。休校前の生徒数は2名であった[62]。中学校の方は石巻市立荻浜中学校が存在していたが、2023年(令和5年)に廃校となり、41年の歴史に幕を閉じた[61]。閉校時の生徒数は3年生2名、2年生1名の計3名であった[61]。
統計[編集]
人口[編集]
交通[編集]
道路[編集]
一般国道[編集]
地区内に一般国道は通っていない。
一般県道[編集]
- 宮城県道2号石巻鮎川線
- 宮城県道220号牡鹿半島公園線(牡鹿コバルトライン)
鉄道[編集]
域内に鉄道駅は存在しない。最寄駅は東日本旅客鉄道渡波駅が挙げられる。
バス[編集]
- 荻浜地区住民バス[81]
文化[編集]
- 獅子風流(ししふり)
人物[編集]
- 宮城新昌 - 沖縄県国頭郡大宜味村生まれ[57]。渡波の阿部善治らとともに牡蠣の垂下養殖法および種苗の抑制技術を開発した人物である[57]。1925年(大正14年)に荻浜村長と荻浜漁業協同組合が宮城新昌に養殖指導を懇請し、渡波漁業協同組合の協力によって万石浦に試験筏が設置され、1927年(昭和2年)には大規模養殖が開始された[57]。その後、「国際養蛎株式会社」を創立し、荻浜でもカキ養殖と種ガキ採苗を行ったとされる[57]。荻浜では宮城新昌の功績をたたえ、顕彰碑を設置している[注 8][57]。
荻浜地区[編集]
荻浜地区(おぎのはまちく)もしくは荻浜地域(おぎのはまちいき)は石巻市荻浜支所の管区内にある地区の名称であり、旧牡鹿郡荻浜村全域に相当する。稲井地区、蛇田地区、渡波支所とともに石巻市本庁地区(旧石巻市域)に属する。漁業が中心産業の地区である[82]。全域で住居表示未実施[41]。
震災前はおよそ1,000人が暮らしていた[82]。
荻浜、折浜、狐崎浜、小積浜、侍浜、竹浜、月浦、福貴浦、牧浜、桃浦の計七浜二浦が荻浜地区に属し、石巻市荻浜支所の管轄である。
参考文献[編集]
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 4 宮城県、角川書店、1979年12月1日。ISBN 4040010302。
- 牡鹿町誌編纂委員会 編『牡鹿町誌』 上巻、安住重彦、1988年11月20日。
- 永野為紀「港湾形成の立地条件の変化 : 仙台湾岸における港湾建設の歴史的変遷を例として」『仙台大学紀要』第1号、仙台大学、1969年2月1日、126-137頁、ISSN 03893073。
- 佐藤 布武、貝島 桃代、橋本 剛「港湾形成の立地条件の変化 : 仙台湾岸における港湾建設の歴史的変遷を例として」『日本建築学会研究系論文集』第79巻第699号、日本建築学会、2014年5月、1119-1127頁。
- 日暮 陽子、山本 理茉、澤野 早紀子、加藤 瑞基、田村 明「東日本大震災被災地(石巻市荻浜地区避難所)を訪問して」『名古屋学芸大学健康・栄養研究所年報』第5号、名古屋学芸大学、2012年9月。
- 佐藤露江、太斎惇 編『石巻市史』 5巻、第一法規出版、1963年3月25日。
- 石巻市史編さん委員会 編『石巻市の歴史』 3巻、凸版印刷、1988年3月31日。
- 石巻市史編さん委員会 編『石巻の歴史通史編』 2巻、凸版印刷、1998年3月31日。
- 菊地勝之助 編『宮城県地名考』宝文堂出版販売、1972年6月15日。
- 谷謙二「小地域別にみた東日本大震災被災地における死亡者および死亡率の分布」『埼玉大学教育学部地理学研究報告』第32号、埼玉大学教育学部地理学研究室、2012年、1-26頁、doi:10.24561/00016186、ISSN 0913-2724、NAID 120006388016。
- 平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系第4巻 宮城県の地名』平凡社、1998年7月10日。ISBN 4582490042。
外部リンク[編集]
- 宮城県石巻市荻浜 (042020920) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット - Geoshapeリポジトリ
- 宮城県牡鹿郡荻浜村 (04B0040005) | 歴史的行政区域データセットβ版 - Geoshapeリポジトリ
生出[編集]
坪沼[編集]
坪沼 | |
---|---|
大字 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 宮城県 |
市町村 | 仙台市 |
行政区 | 太白区 |
地域 | 生出地域 |
郵便番号 | 982-0231[2] |
市外局番 | 022[83] |
ナンバープレート | 仙台 |
運輸局住所コード | ○○○○[12] |
面積は有効数字5桁で記載している。 | |
ウィキポータル 日本の町・字 ウィキポータル 宮城県 ウィキプロジェクト 日本の町・字 |
坪沼(つぼぬま)は、宮城県仙台市太白区に所在する町名であり、旧名取郡生出村坪沼、旧名取郡坪沼村に概ね相当する。郵便番号は982-0231[2]。仙台市の住民基本台帳によると、2024年4月1日時点の人口は×人、世帯数は×世帯である[1]。江戸時代に存在した旧赤石宿の名残から、当地を南赤石と呼称することもある。
地理[編集]
仙台市の中央部、仙台市太白区の東部、生出地域の南部に位置し、北部で茂庭と、東部で名取市高舘熊野堂と、南部で柴田郡村田町菅生と、西部で柴田郡川崎町支倉と接する。
河川[編集]
歴史[編集]
現在も昔ながらの景観と古くからの年中行事や里山文化が残っているため、仙台の小遠野と呼ばれる。
沿岸[編集]
名称の由来[編集]
丘陵に囲まれた庭状の盆地で沼の残るところであったため、坪沼と名付けられたとされる[84]。
交通[編集]
鉄道[編集]
東日本大震災[編集]
2012年11月30日時点の世代・男女別の犠牲者・死亡率は以下の通りである[85]。
世代と性別 | 死者 | 死亡率 | 当時の人口 |
---|---|---|---|
男性 | 8 | 0.10% | 8,173 |
女性 | 0 | 0.00% | 8,433 |
15歳未満 | 0 | 0.00% | 2,718 |
15 - 64歳 | 5 | 0.05% | 10,870 |
65歳以上 | 3 | 0.10% | 2,963 |
合計 | 8 | 0.5% | 16,606 |
学区[編集]
川内山屋敷に在住する学生は公立小中学校の場合、仙台市立立町小学校および仙台市立第二中学校へと進学する[86]。
寺社仏閣[編集]
文化財・遺跡[編集]
参考文献[編集]
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 4 宮城県、角川書店、1979年12月1日。ISBN 4040010302。
外部リンク[編集]
- 宮城県仙台市青葉区川内山屋敷 (041011070) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット - Geoshapeリポジトリ
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ もしくは平群郡とも。
- ^ 旧本吉郡志津川町のうち、入谷地区(旧本吉郡入谷村)と戸倉地区(同郡戸倉村)を除いた地域。
- ^ 資料により値が異なる。牡鹿郡万御改書上によると23石余、元禄郷帳によると18石余となっている。
- ^ およそ3,236m。
- ^ およそ1,890m。
- ^ 当初は臨時寄港地の予定であったが貨客の増加により、定期船の寄港地になった。
- ^ 1884年からは桃浦外十一カ浜連合戸長役場。
- ^ なお、初代のものは2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震によって破壊されたため、地元有志が再建委員会を立ち上げ、宮城新昌の出身地である大宜味村の関係者の協力をえて、2013年(平成25年)10月13日に再建された。
出典[編集]
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