利用者:社会科学研究所/sandbox
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小松輝久(こまつてるひさ)は北白川宮能久親王の第4王子。北白川宮輝久王。明治21年生れ。 爵位は侯爵、位階は正三位、勲位は勲一等侯爵、貴族院議員。 海軍兵学校に進み21歳で海軍少尉候補生の時に臣籍降下し小松侯爵家を創設する。 参謀や教官職が長く、軽巡洋艦木曾艦長、重巡洋艦那智艦長等を経て、第6艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官、海軍兵学校校長を歴任、最終階級は海軍中将。 昭和23年B級戦犯として実刑の判決を受け巣鴨拘置所に収監され服役した。 出所後は平安神宮宮司を務める。昭和45年死去、82歳没。 彰仁親王は生前から、依仁親王ではなく北白川宮輝久王を継嗣にと希望していたとされる。 しかし依仁親王との関係で調整がつかず、輝久王は小松侯爵家を創設して臣籍降下し、小松宮家の資産・祭祀を継承した。 これによって明治36年に小松宮彰仁親王が薨じて断絶していた小松宮家の祭祀を承継する。
また、輝久侯爵には彰久、豊久、豪久、舒子の四子をもうけ、外家に旧島津家に婿となった豪久氏をおくことから、五子一族が世伝となっている。 長男彰久氏の子女は男子2人(現当主、揮世久氏)とドイツに留学。医師となった豪久氏の長子篤久氏の子女計4人。平成22年、小松宮家祭祀再興を唱えつづける篤久は、其の紛糾と現神社界の矛盾から、自ら家督を放棄。篤平と改名して旧公爵家を離脱し新戸籍を編成する。昭和2年より記載された輝久王継嗣の祭祀資料の全ては篤平氏に所有され、小松宮家祭祀に伝わる式板(北斗七星を中心に描かれ国威を占う)や諸刃の宝剣も同氏が保有している。