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天照大御神


神格の形成

信仰[編集]

古代[編集]

古代において天照大神は、『古語拾遺』に「天照大神、惟祖惟宗、尊無二、自余諸神、乃子、乃臣」とあり、『日本紀私記』に「今天照大神者、諸神之最貴也」とあるように、諸氏の氏神に超越する最高神として朝廷社会の中で信仰されていたことがわかる[1]。一方で、天照大神を祀る伊勢神宮は「私幣禁断」とされ、天皇の祖神や国家全体の鎮守神として、天皇の勅使以外の一般人が個人的に参拝することは固く禁じられており[2]、伊勢神宮を勧請して天照大神を自宅などで祀る行為も厳しく罰せられていた[3]ため、古代においては天照大神が国民各戸の信仰対象になることはなく、平安時代の『更級日記』にも、著者の菅原孝標女が、同僚から天照大神について話された際、それがどこに祀られる神で、どういう神なのかを正確に認識していなかったという記述があり、貴族女性という知識階級であっても、天照大神の存在は浸透していなかった[4]

中世[編集]

しかし、中世に入ると律令制度の弛緩に伴い、神郡など古代において伊勢神宮を支えた国家的経済基盤が動揺しはじめたことから、伊勢神宮の御師による布教活動が行われ、天照大御神の存在が広い階層の人々に知られるようになった[5]。その結果、中世期の起請文には「日本国主天照大神」という表現が多く見られるようになる[5]。記紀神話における天照大神はあくまで高天原の主神であり、「日本」という国土を具体的に知行する神ではなかったが、中世における信仰では、国土の最高神として具体的に日本を知行し、人々の願いを聞き入れたり、人々に賞罰を下す存在として信仰され、国民各層に開かれた信仰対象となった[5]。中世期には伊勢神宮に寄進され神領地となった場所に天照大御神を祀る神明神社が成立したり、中世後期には伊勢の神霊が各地に飛来するという「飛神明」という考えが広がり、各地に天照大神を祀る神社が成立した[6]

ただし、「日本国主」である天照大神であっても、それは六道など仏教的宇宙観の一角としての下界である「日本」という領域に限定される最高神であって、仏教的宇宙観全体の支配者である梵天などの仏よりは下位として見なされる場合があり、起請文にも仏の名前を上段に列記し、下段に天照大御神をはじめとする神々の名が列記される例が見られる[5]

また、中世期には天照大神は大日如来の垂迹として信仰され、仏教信仰と結びつけられた。さらに、各神社が自社の祭神を天照大神に結びつけることも見られるようになり、大神神社では祭神が天照大神と同体とされ[7]春日大社では第四殿に祀られる「比売神」が天照大神のこととされ[8]熊野権現では熊野社の祭神が伊勢の天照大神と同体であると主張され[9](『長寛勘文』)、日吉大社で展開した山王神道でも日吉大社と天照大神が結びつけられる[10]など、中世の混乱期にあって、各神社の信仰を天照大神への信仰に帰一することを求める思潮が形成された[11]

近世[編集]

江戸時代に入ると、伊勢神宮の御師の活動がさらに活発化した[12]ことや、近世期に全国の神社を管轄した吉田家が天照大神・八幡神春日神の三柱の神徳を讃える三社託宣を庶民に拡散させていった[13]ことなどから、天照大神への信仰がさらに庶民階層に広がり、伊勢神宮の神徳を讃える風流踊りである「伊勢踊り」が流行し[14]、田植え唄などにも天照大神が唄われるようになった[15]。また、自宅の神棚に天照大御神の神体として御祓を祭ることが盛んになり、江戸時代にはその頒布率は全戸数の9割を占めるまでに至った[16]

近世期には、天照大神に対する国家鎮守神観や国民総氏神観がさらに強く人口に膾炙し[17]、下人や丁稚、奉公人など被支配階級の伊勢参宮に対する寛容性や参宮の国民的義務観が生じて、お蔭参りをはじめとする庶民の伊勢神宮への参宮が盛行した[18]。また、近世期においては天照大神は農業神としての信仰も受けるようになり、近世に盛んになる新田開発など、農村の開拓に当たっては天照大御神が村に勧請される例が関東などに多く見受けられ[19]、天照大神の神体として鍬を祀る「御鍬祭」が全国各地の農村で行われた[20]。これには、伊勢の御師が檀家を回る際に、神宮大麻のほか農業暦である伊勢暦も渡し歩いたことが影響していると考えられる[20]。この他、天照大神は病気平癒など様々な現世利益をもたらす神、全般的な福をもたらす神として広く庶民に信仰された[21]

各神道流派における教学[編集]

伊勢神道
伊勢神道における天照大神は、外宮祭神の豊受大神と同格とされ、天照大神と豊受大神の二神が二宮一光として双座し、日月として遍く国土を照らすものと解釈された[22]。二神が同格とされたのは、外宮祭神である豊受大神を天御中主神国常立尊に同一視する立場によるものである。また、姿形のない虚である根源神として国常立尊が据えられ、国常立尊の神力によって成り立つ現世の様々なものの形として現れているものが天照大神とされ、天照大神が根源神の方便的な現象として捉えられた[23]

吉田神道
吉田神道でも、天照大神が重視された。吉田兼倶は、吉田神社の斎場所大元宮を日本の根本宮とするために伊勢両宮の宗教的権威を我が手中に収めようとし、伊勢神宮の神体が吉田神社に飛び移ったという密奏(延徳密奏事件)を行った[24]。吉田神道では、天地万物に神が内在するという神観念が説かれたが、その万霊の本源の神として国常立尊を重視するとともに、国主としての天照大神も、これに並んで重視した[24]。吉田神道の教説書『唯一神道名法要集』では「国者、是神国也、道者、是神道也、国主者、是神皇也、太祖者、是天照太神也」とあり、本源の一神としての国常立尊と、国主であり天皇の太祖たる天照大御神を並べて重視している[24]

三輪神道
大神神社周辺で形成された両部神道の一派である三輪神道では、大日如来を本地とし、その垂迹を天照大神とする両部神道思想を継ぎ、大日如来が、天上では天照大神、伊勢では皇太神、三輪では三輪大明神として現じ、この三神が三身一体であるとした[25]。そして、天照大神と比肩する三輪大明神こそが、諸社諸神の中でもっとも優れた神であると主張した[26]

垂加神道
山崎闇斎が創始した垂加神道においては、神道は「日神(天照大神)之道」とされ、天照大神が重視された[27]。垂加神道では、儒教における聖人に到達する過程である「生知安行」「学知利行」「困知勉行」の三つの過程が『日本書紀』神代巻の神々の働きに求められ、「生知安行」の聖人が天照大神、「学知利行」の聖人がサルタヒコ、「困知勉行」の聖人が大国主神及び素戔嗚尊であり、いずれの神も天照大神の徳義と一体となった神であるとされた[27]。そして、一心不乱の祈祷と心身の清浄の実現により、人が天照大御神の徳義と一体化し、「天人唯一」に到達することができるとし、天照大神が日神であり同時に皇祖神でもあることが、天人唯一の具現化であるとした[27]

復古神道
国学者本居宣長は、天照大神は天皇の祖神であるとともに、今現在も現実にこの世界を照らしている太陽そのものであるとして、天照大神を上代に日本を治めた存在の比喩であるとしたり、実際の太陽ではなく、その神徳を太陽に例えているものだとする見解を「漢意」として退けた[28]平田篤胤復古神道においては、宇宙の主宰神として天御中主神が挙げられ、その下で天皇が統治する顕界と、大国主神が統治する幽冥界(死後の世界)が相対するとされ、特に大国主神の幽冥界が重視されたことで、中心的神格としての天照大神は後退したが[29]、死後の安心を得るための顕界での生き方として、天照大神や天皇への忠誠が説かれ、魂や死後の世界と関係して天照大神が捉えられた[30]

黒住教
教派神道の一つで、黒住宗忠により創始された黒住教の教学では、身分に関係なく、全ての人間は天照大神の御霊をいただいて生まれてきた天照大神の子であるとする教義が説かれ、日の出を拝むことで天照大神に感謝を捧げる「日拝」という行事が最も重要視されている[31]

  1. ^ 宮地直一「大神宮信仰の通俗化」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)5頁
  2. ^ 宮地直一「大神宮信仰の通俗化」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)4頁
  3. ^ 神社本庁監修『神社のいろは用語集 祭祀編』扶桑社(2015)141頁
  4. ^ 宮地直一「大神宮信仰の通俗化」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)16-17頁
  5. ^ a b c d 佐藤弘夫「日本国主天照大御神観の形成」『鎌倉仏教の様相』吉川弘文館(1999)115-146頁
  6. ^ 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)127-129頁
  7. ^ 小笠原春夫. “三輪神道とは - コトバンク”. コトバンク. 2022年8月10日閲覧。
  8. ^ 落合偉洲. “春日信仰とは - コトバンク”. コトバンク. 2022年8月10日閲覧。
  9. ^ 瀧浪貞子. “長寛勘文とは - コトバンク”. コトバンク. 2022年8月10日閲覧。
  10. ^ 末木文美士『中世の神と仏』山川出版社(2003)45頁
  11. ^ 上田勝彦. “近世初期における神宮復興の運動”. 2022年8月10日閲覧。
  12. ^ 伊勢神宮の歴史・文化”. 伊勢神宮. 2021年5月6日閲覧。
  13. ^ 國學院大學日本文化研究所編「三社託宣」『神道事典』弘文堂(1999)399頁
  14. ^ 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)136-140頁
  15. ^ 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)187-189頁
  16. ^ 神宮大麻”. 滋賀県神社庁. 2021年5月6日閲覧。
  17. ^ 新城常三「近世の伊勢参宮」『伊勢信仰Ⅰ』雄山閣(1979)39頁
  18. ^ 新城常三『社寺と交通』至文堂(1960)153頁
  19. ^ 西海賢二「伊勢信仰と街道ー古橋家文書からみるー」地域政策ジャーナル(2017)13頁
  20. ^ a b 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)144-148頁
  21. ^ 西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書(1983)190頁
  22. ^ 國學院大學日本文化研究所編「伊勢神道」『神道事典』弘文堂(1999)429頁
  23. ^ 末木文美子『中世の神と仏』山川出版社(2003)72頁
  24. ^ a b c 高橋美由紀『伊勢神道の成立と展開』ぺりかん社(2010)326-332頁
  25. ^ 小笠原春夫. “三輪神道とは - コトバンク”. コトバンク. 2022年8月10日閲覧。
  26. ^ 小笠原春夫. “三輪神道とは - コトバンク”. コトバンク. 2022年8月10日閲覧。
  27. ^ a b c 國學院大學日本文化研究所編「垂加神道」『神道事典』弘文堂(1999)437-439頁
  28. ^ 神宮司庁編『度会神道大成 後編』吉川弘文館(2008)28頁
  29. ^ 田原嗣郎「『霊の真柱』以後における平田篤胤の思想について」岩波書店(1973)565-594頁
  30. ^ 桂島宣弘「復古神道と民衆宗教」。 
  31. ^ 黒住教の教義”. 黒住教. 2022年8月10日閲覧。