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利用者:聖平太郎/sandbox

歴史

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ヒクソス以前

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歴史記録から確認できる範囲では、セム系民族とエジプト人の接触は初期王朝時代まで遡る事ができる。紀元前3000年頃に製作されたマグレガーの粘土板には、「東方を攻撃した最初の機会」が記録されており、第一王朝のファラオ、デンが西アジアの敵を打つ絵が描かれている。

紀元前1890年頃のセンウセレト2世の治世中、第12王朝の高官クヌムホテプ2世の墓の壁画に、贈り物を持ってファラオを訪れた西アジア出身の外国人の一行が記録されている。おそらくカナン人か遊牧民と思われるこれらの外国人は、アム(ꜥꜣmw)と称されており、ヌビアのアイベックスを連れた先頭の人物はヒクソスのアビシャと称されており、これが「ヒクソス」という名称が用いられた最古の記録である[1][2][3][4]

その後、センウセレト3世(在位:紀元前1878-1839年)の治世にさかのぼるセベク・クの石碑には、レバント地方におけるエジプト軍の最古の軍事作戦が記録されている。碑文には「王はアジア人を打倒するために北進された。陛下はセクメムという名の土地に到着した(中略)そしてセクメムは、哀れなレテヌとともに陥落した」とある。ここでのセクメム(skmm)はパレスティナのシェケムであると考えられ、「レテヌ」または「レチェヌ」は古代シリアと関連している[5][6]

エジプト到来

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ヒクソス時代に関する唯一の古代の記録は、ヘレニズム時代エジプトの歴史家マネトによるものであるが、彼の記録は他者による引用としてのみ存在する。[61]ヨセフスの記録によると、マネトはヒクソス統治の始まりを次のように記述している。

東から来た卑しい民族は、その到来を予期していなかったが、大胆にもこの国に侵入し、困難も戦闘もなく、主力部隊でこの国を制圧した。首長たちを制圧した後、彼らは都市を野蛮に焼き払い、神々の神殿を破壊し、原住民全員を極めて残酷に扱い、一部を虐殺し、妻子を奴隷として連れ去った(『アピオン論』第1章75-77節)。[62]

マネトーの記述はより後の時代に起こったアッシリアやペルシアなどの侵略の影響を反映した可能性が高く今日では殆どの学者に否定されている[7][8]。 ヒクソスの支配の確立は主に平和的であり、侵略的な行為を伴わなかったと見られている[9]。 考古学調査では、ヒクソスの支配が始まるより前の150年以上にわたってアヴァリスにアジア人が継続的に存在していたことを示しており、彼らの定住は第12王朝の紀元前1800 年頃には始まっていた事が判明している。

ビータクは、ヒクソスの「先史時代の頃から、エジプトという土地(特にデルタ地域)が西アジアの人々にとって移住先として常に魅力的な地域であり続けた事を念頭に置くべきである」と指摘している。またエジプト側も造船や航海技術の他、兵士や奴隷など技術および労働力の供給源としてレヴァント地域とその住民に長く依存しており、そうした背景の中でアヴァリスを中心とするデルタの東部地域が貿易の玄関口として人々を惹きつけるようになっていったと考えられる[10]。 [70]

第13王朝の最後の強力なファラオだったセベクホテプ4世の没後(紀元前1725年頃)、エジプトは多数の小王国が形成され、その中には第14王朝が統治したアヴァリスを拠点とする王国も含まれていた。判明している王の名称から判断すると、この王朝は既に西アジア起源の人々で構成さていた。[11]宮殿が焼失した事件の後、第14王朝はヒクソス第15王朝に取って代わられ、ヒクソスは「脅迫や武力による北エジプトへの緩やかな支配」を確立し、[12]アヴァリスの支配地域を大幅に拡大した。[13]

ライホルトは第15王朝が第14王朝を侵略し、滅ぼしたと主張しているが、トミッチはこれは「十分に立証されていない」と主張している。[14]ビータクは、ネフェルホテプ3世の石碑を、ヒクソスが権力を握った頃にエジプトが放浪傭兵に制圧されたことを示していると解釈している。[15]

王国形成

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ヒクソスの政権が統治した期間ははっきりとは分かっていない。断片的なトリノ王名表には、合計108年間統治した6人のヒクソス王がいたと記されているが[75]、ライホルトは149年という新たな解釈を提案し、シュナイダーは160年から180年の間という期間を提案した。[76]ヒクソスの統治した時代は第2中間期として知られ、土着のエジプト人による第16王朝第17王朝の統治と重なっている。

ヒクソスの直接支配下にあった地域は、おそらくナイル川東デルタに限られていた。[15]彼らの首都は、現在は干上がったナイル川のペルシアック支流の分岐点にあるアヴァリスであった。メンフィスも重要な行政の中心地であった可能性があるが、[77]ヒクソスがそこに存在していたかどうかは不明である。[15]

ムラドによると、デルタ地帯におけるレヴァント人の居住地ないしはレヴァントとの繋がりが強い他の遺跡としては、テル・バスタとアヴァリスの間に位置するテル・ファラシャとテル・エル・マグド、[78]アヴァリス南西のエル・カタナ、インシャスなどがある。[79]アヴァリスの繁栄が増したことにより、より多くのレヴァント人がデルタ東部に定住するようになった可能性がある。[66]デルタ西部の端にあるコム・エル・ヒスンでは近東の品々が出土しているが、個人はほとんどがエジプト風に埋葬されており、ムラドは、彼らはおそらくレヴァントの伝統に強く影響を受けたエジプト人、あるいはエジプト化したレヴァント人であったとみている。[80]ナイル川のペルシア支流とタニティック支流の合流点にあるテル・バスタ(ブバスティス)の遺跡には、ヒクソス王キアンとアペピの記念碑があるが、レヴァント人の居住を示す他の証拠はほとんどない。 [81]シナイ近くのナイル川の支流にあるテル・エル・ハブワ(チャル)にも、エジプト人以外の存在の証拠が見られるが、住民の大部分はエジプト人かエジプト化したレヴァント人だったと思われる。[82]テル・エル・ハブワはアヴァリスに穀物や交易品を供給していたと思われる。[83]

ワディ・トゥミラトでは、テル・エル・マスクータから大量のレヴァント陶器と第15王朝と密接な関連のある居住歴が見つかっており、[87]近くのテル・エル・ラタバとテル・エル・サハバではヒクソス風の埋葬と居住の痕跡が見つかっている。[88]メンフィスとワディ・トゥミラトの間に位置するテル・エル・ヤフディヤには、ヒクソスによって築かれたと思われる大規模な土塁と、第13王朝初期のレヴァント埋葬の証拠がある。[89]ワディ・トゥミラトのヒクソス居住地は、シナイ半島、南レヴァント、そしておそらく紅海へのアクセス手段であったと考えられる。[66]

テル・エル・カビール、テル・イェフド、テル・ファウズィヤ、テル・ゲジレット・エル・ファラスの各遺跡は、ムラド以外の学者によって「ヒクソス文化の要素」を含むと指摘されているが、それらに関する考古学的資料は出版されていない。[90]

ヒクソスは下エジプトと上エジプトの両方の支配者であると主張したが、彼らの南の国境はヘルモポリスとクサイで区切られていた。[13]いくつかの物品は上エジプトにヒクソスが存在していたことを示唆しているかもしれないが、それらはテーベの戦利品であったか、単に短期間の襲撃、貿易、外交的接触を証明しているだけかもしれない。[91]テーベ地域に対するヒクソスの支配の性質は不明である。[15]おそらくヒクソスの支配は中エジプトから南パレスチナまでの地域に及んだ。[92]昔の学者は、バグダッドやクノッソスなどの場所でヒクソスの支配者の名前がついたヒクソスの品々が流通していたことから、ヒクソスは広大な帝国を支配していたと信じていたが、外交上の贈り物の交換と広範囲に及ぶ貿易ネットワークの結果であった可能性が高いようだ。[93] [15]

歴代王

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ヒクソスがエジプトを統治した期間は不明である。断片的なトリノ王名表には、合計108年間統治した6人のヒクソス王がいたと記されているが[ 75 ]、2018年にライホルトは149年という新たな説を提案し、シュナイダーは160年から180年の間という期間を提案した[ 76 ] 。ヒクソスの統治は、第2中間期として知られる。 ヒクソスの直接支配下にあった地域は、おそらくナイル川東デルタに限られていた。[ 15 ]彼らの首都は、現在は干上がったナイル川のペルシアック支流の分岐点にあるアヴァリスであった。メンフィスも重要な行政の中心地であった可能性があるが、[ 77 ]実効支配が及んでいたかは判然としない。[ 15 ]

アンナ・ラティファ・ムラドによると、デルタ地帯でレヴァントとのつながりが見られる他の遺跡としては、テル・バスタとアヴァリスの間に位置するテル・ファラシャとテル・エル・マグド、[ 78 ]アヴァリス南西のエル・カタナ、インシャスなどがある。[ 79 ]アヴァリスの発展により、より多くのレヴァント人がデルタ東部に定住するようになった可能性がある。[ 66 ]デルタ西部の端にあるコム・エル・ヒスンからは近東の品々が出土しているが、殆どの住民がエジプト様式で埋葬されており、ムラドは、彼らはおそらくレヴァントの伝統に強く影響を受けたエジプト人、あるいはエジプト化したレヴァント人であったとみている。[ 80 ]ブバスティスの遺跡には、ヒクソス王カヤンとアペピの記念碑があるが、レヴァント人の居住を示す他の証拠はほとんどない。 [ 81 ]シナイ近くのナイル川の支流にあるテル・エル・ハブワ(チャル)にも、エジプト人以外の存在の証拠が見られる。しかし、住民のほとんどはエジプト人かエジプト化したレヴァント人だったと思われる。[ 82 ]テル・エル・ハブワは、アヴァリスに穀物や交易品を供給していたと思われる。[ 83 ]

ワディ・トゥミラトでは、テル・エル・マスクータから第15王朝と密接な関連のあるレヴァント陶器や居住歴が大量に発見されている。 [ 87 ]近くのテル・エル・ラタバとテル・エル・サハバではヒクソス様式の埋葬や居住の痕跡が見られる。[ 88 ]メンフィスとワディ・トゥミラトの間に位置するテル・エル・ヤフディヤには、ヒクソスが築いたと思われる大規模な土塁や、第13王朝初期からのレヴァント埋葬の証拠、[ 89 ]テル・エル・ヤフディヤウェアとして知られる特徴的なヒクソス時代陶器がある。ワディ・トゥミラトのヒクソスの居住地は、シナイ半島、南レヴァント、そしておそらく紅海へのアクセス手段であったと考えられる。[ 66 ]

テル・エル・カビール、テル・イェフド、テル・ファウズィヤ、テル・ゲジレット・エル・ファラスの各遺跡は、ムラド以外の学者によって「ヒクソス文化の要素」を含むと指摘されているが、それらに関する考古学的資料は出版されていない。[ 90 ]

ヒクソスは自らを下エジプトと上エジプトの両方の支配者であると見なしたが、彼らの南の国境はヘルモポリスとクサイで区切られていた。[ 13 ]いくつかの出土史料はヒクソスの支配が上エジプトに及んでいた事を示唆している可能性もあるが、テーベ勢力の戦利品あるいは短期間の襲撃、貿易、外交的接触を証明しているだけかもしれない。[ 91 ]テーベ地域に対するヒクソスの支配の性質は不明である。[ 15 ]ヒクソスの支配は中エジプトから南パレスチナまでの地域に及んだ可能性が高い。[ 92 ]かつての研究者は、バグダッドやクノッソスなどの遠く離れた地域でヒクソスの支配者の名前がついた品々が流通していたことから、ヒクソスは広大な帝国を支配していたと信じていたが、これらはむしろ外交上や貿易によりもたらされた者であった可能性が高い。[ 93 ] [ 15 ]

歴代殷王

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年代 colspan="4"!名
殷前期 大乙
大丁
卜丙?
大甲
大庚
小甲?
大戊
中丁
祖乙
殷中期 (内乙) 祖辛 陽甲
南庚 沃甲 祖丁 盤甲
父丁・父戊 小乙 小辛
殷後期 武丁
祖己
祖庚
祖甲
庚丁
武乙
太丁
帝辛

ヒッタイト歴代王

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古王国

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年代(Kuhrt, Bryce説) 年代(Freu説) 備考
ラバルナ1世 前1680年頃 - 前1650年頃 前1650年頃 - 前1625年頃
ハットゥシリ1世 前1650年頃 - 前1620年頃 前1625年頃 - 前1600年頃
ムルシリ1世 前1620年頃 – 前1590年頃 前1600年頃 – 前1585年頃
ハンティリ1世 前1590年頃 – 前1560年頃 前1585年頃 – 前1570年頃
ツィダンタ1世 前1560年頃 - 前1550年頃 前1560年頃 - 前1550年頃
アンムナ 前1550年頃 - 前1530年頃 前1550年頃 - 前1530年頃
フッツィヤ1世 前1530年頃 - 前1525年頃 前1530年頃 - 前1525年頃
テリピヌ 前1560年頃 - 前1500年頃 前1550年頃 - 前1530年頃

中王国

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年代(Kuhrt, Bryce説) 年代(Freu説) 備考
アルワムナ 前1500年頃 - ? 前1530年頃 - 前1515年頃
ハンティリ2世 前1515年頃 - 前1505年頃
タフルワイリ 前1505年頃 - 前1500年頃
ツィダンタ2世 前1500年頃 - 前1485年頃
フッツィヤ2世 前1485年頃 - 前1470年頃
ムワタリ1世 前1430年頃
前1400年頃
前1470年頃 - 前1465年頃

新王国

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中位年代(Kuhrt説) 低位年代(Bryce説) 高位年代(Freu説) 備考
トゥドハリヤ1世 前1430年頃‐前1410年頃
前1420年頃 - 前1400年頃
前1400年頃 - ? 前1465年頃 - 前1440年頃
ハットゥシリ2世 前1410年頃‐前1400年頃
前1400年頃 - 前1390年頃
前1440年頃 - 前1425年頃
トゥドハリヤ2世 前1400年頃‐前1390年頃
前1390年頃 - 前1370年頃
前1425年頃 - 前1390年頃
アルヌワンダ1世 前1390年頃‐前1380年頃
前1370年頃 - 前1355年頃
前1390年頃 - 前1370年頃
トゥドハリヤ3世 前1380年頃‐前1370年頃
前1355年頃 - 前1344年頃
前1370年頃 - 前1350年頃
シュッピルリウマ1世 前1370年頃‐前1330年頃
前1344年頃 - 前1322年頃
前1350年頃 - 前1322年頃 前1350年頃 - 前1319年頃
アルヌワンダ2世 前1330年頃‐前1330年頃
前1322年頃 - 前1321年頃
前1322年頃 - 前1321年頃 前1319年頃 - 前1318年頃 シュッピルリウマ1世の息子
ムルシリ2世 前1330年頃‐前1295年頃
前1321年頃 - 前1295年頃
前1321年頃 - 前1295年頃 前1318年頃 - 前1295年頃 シュッピルリウマ1世の息子
ムワタリ2世 前1295年頃‐前1272年頃
前1295年頃 - 前1282年頃
前1295年頃 - 前1272年頃 前1295年頃 - 前1272年頃 ムルシリ2世の息子
ムルシリ3世 前1272年頃‐前1264年頃
前1282年頃 - 前1275年頃
前1272年頃 - 前1267年頃 前1272年頃 - 前1265年頃 ムワタリ2世の息子
ハットゥシリ3世 前1264年頃‐前1239年頃
前1275年頃 - 前1245年頃
前1267年頃 - 前1237年頃 前1265年頃 - 前1240年頃 ムルシリ2世の息子
トゥドハリヤ4世 前1239年頃‐前1209年頃
前1245年頃 - 前1215年頃
前1237年頃 - 前1209年頃 前1240年頃 - 前1215年頃 ハットゥシリ3世の息子
クルンタ
アルヌワンダ3世 前1209年頃‐前1205年頃
前1215年頃 - 前1210年頃
前1209年頃 - 前1207年頃 前1215年頃 - 前1210年頃 トゥドハリヤ4世の息子
シュッピルリウマ2世 前1205年頃‐前年頃
前1210年頃 - 前年頃
前1207年頃 - 前年頃 前1210年頃 - 前1185年頃 トゥドハリヤ4世の息子
  1. ^ Van de Mieroop 2011, p. 131.
  2. ^ Bard 2015, p. 188.
  3. ^ Kamrin 2009, p. 25.
  4. ^ Curry 2018.
  5. ^ Pritchard 2016, p. 230.
  6. ^ Steiner & Killebrew 2014, p. 73.
  7. ^ Ilin-Tomich 2016, p. 5.
  8. ^ Bietak 2012, p. 1.
  9. ^ Mourad 2015, p. 130.
  10. ^ Bietak 2012, p. 4.
  11. ^ Bietak 2019, p. 47.
  12. ^ Bietak 1999, p. 377.
  13. ^ Bourriau 2000, p. 180.
  14. ^ Ilin-Tomich 2016, p. 6.
  15. ^ Bietak 2012, p. 5.