利用者:芦原睦/sandbox
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芦原(蘆原)甫 あしはらはじめ
乃木希典大将の副官(陸軍中佐)。日露戦争人管理部長 嘉永3年(1850)~大正7年(1918) 西南の役にて当時軍曹だった芦原甫は負傷した乃木希典少佐を介助したことにより、命の恩人と称される。後に中佐まで昇格。 副官時、乃木に面会に来た静子夫人を返した「乃木大将妻返しの松」が香川県善通寺市 金倉寺にある。 養子芦原信之(医師)の四男がシャンソン評論家の芦原敏信(英了) 五男が建築家の芦原義信、その長男が芦原太郎 長男芦原勝(耳鼻科医)の孫が心療内科医の芦原睦、おいが旅行作家の芦原伸
来歴 嘉永3年1月30日 芦原潤貞(京極藩医)を父に京都府丹後峰山(現京丹後市)に生まれる。 少年期 医師になるのが嫌で、軍人になりたいと権現山の麓、桜尾公園の松の木に登りハンガーストライキを実行。 明治9年 芦原甫(軍曹)生涯にわたり仕えることになる乃木希典(少佐)と出会う。熊本鎮台勤務(辞令が熊本城3階に展示) 明治10年1月20日 西南の役に参加 2月3日 芦原甫軍曹の願書ありと乃木日記にあり 2月22日 賊軍から夜襲され、乃木少佐(第14連隊長)負傷(左足首貫通銃創)、軍旗を奪われる その際、負傷した乃木少佐を芦原軍曹は背負って民家へ連れていく。その後も介護にあたり、生涯の恩人といわれるようになる。 西南の役での同僚が東条英教軍曹(後に中将、東条英機の父) 4月 乃木中佐に昇格 9月24日 西南の役終結 明治12年5月3日 熊本鎮台芦原少尉と岡山つぎ(14歳、1863.11.2生、医師岡山友仙の娘)と結婚 熊本時代懇意となるのが、藤田嗣章一等軍医(画家、藤田嗣治の父親である) 明治15年9月5日 妻つぎの弟、信之を養子にとる。芦原信之は熊本の高等小学校および予備校を経て第五高等学校の医学部(長崎)に入学 明治18年 乃木(37歳)は陸軍少将に昇格。甫に長男芦原勝出生 明治19年9月 乃木、芦原を饗すと乃木日記にある 明治20年1月 乃木ドイツ留学。乃木少将、川上少将とともに ドイツ船「ステーテン」にて横浜を出発。イタリアに上陸。陸路でベルリンへ 森林太郎(鴎外)も留学中で交遊する。 *明治22年 大日本帝国憲法発布 明治25年9月6日 乃木日記によると、乃木少将宅へ芦原甫大尉(42歳) 来訪 10月26日 同日記によると石黒、東条、芦原来訪 この東条は東条英教(東条英機の父である) *明治27年 日清戦争 明治28年4月5日 乃木(47歳)陸軍中将へ昇格 明治29年 10月14日 乃木(48歳)台湾総督 明治31年 乃木善通寺にて第11師団長を務める。その際芦原甫は副官になっていた。乃木が一人で下宿をしていた金倉寺駐在中、乃木の静子夫人が乃木に会いに来る。 芦原副官は「将兵が家族と離れているのに自分だけが、家内とは会えない」と伝え、静子夫人を帰らせる。 金倉寺に「妻返しの松」と石碑がある。 戦前にはいわれの書いた立札があったというが、現在は松と石碑のみである。 明治33年 乃木中将、芦原に送書 明治34年7月 芦原甫少佐、吐血?する。その際に乃木から送られた句がある。 「血と腎に富たる人は勇もあり」 「頭痛もちの疝気も気に掛り」 明治37年 日露戦争 芦原甫人事管理部長に就任 5月26日 乃木長男勝典負傷、翌日死亡 5月29日 乃木日記によると夜半、芦原来訪 5月31日 同日記によると、乃木宅へ、真鍋、藤田、芦原来訪、 黒ビールを飲むと記載あり 6月6日 乃木、大将(56歳)へ昇格 11月30日 乃木次男保典(24歳)203高地にて戦死 明治38年 乃木・ステッセル会談 明治40年 乃木、学習院長に就任 明治45年9月13日 乃木殉死 大正7年9月25日 芦原甫没(享年68歳)光勝院殿金峯翠甫居士
文献
1)乃木希典日記 金園社 1970
2)乃木将軍と芦原副官 洗心 中央乃木会 1982
3)丹後峰山のある田舎士族の話 芦原伸 旅 日本交通公社 1983
4)私の半自叙伝 蘆原英了 新宿書房 1983
5)僕の二人のおじさん 蘆原英了 新宿書房 2007
4)の改題・増補
6)ご祭神の書翰(十八) 高橋正樹 洗心 中央乃木会 2011
7)乃木希典 岡田幹彦 展転社 2001