利用者:芦屋太郎/sandbox
長谷 基弘 はせ もとひろ | |
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サムネイル | |
生年月日 | 1958年6月22日(66歳) |
出生地 | 日本 兵庫県芦屋市 |
出身校 |
大阪産業大学工学部卒業 |
前職 | ㈱エレクターマンソン |
所属政党 | 無所属 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 | 2011年4月 - 現職 |
長谷 基弘(はせ もとひろ、1958年〈昭和33年〉6月22日 - )は、日本の政治家。無所属の芦屋市議会議員。
大学卒業後、㈱エレクターマンソン社員を経て兵庫県芦屋市議会議員となる。市議会副議長、議会運営委員会委員長、建設公営企業常任委員長、都市計画審議会委員)などを歴任。2003年(平成15年)に難病「突発性骨頭壊死」発病。両下肢の関節が破壊され歩行困難となり、以後、車いすの生活となる。同年7月に1回目の手術。現在まで12回の手術を行う。この年の第15回(2003年)統一地方選挙で落選するものの、16回(平成2007年)統一地方選挙で再選。この時より車いす目線という状況で見える新たな視点から、福祉や文化政策を中心に、市議会議員の職務を遂行。
来歴
[編集]出自
[編集]生まれ育ち
[編集]1958年(昭和33年)6月22日、代々芦屋浜で漁業を営む家計に生まれる。曾祖父と祖父は芦屋漁業協同組合長。父親は元芦屋市消防署長。 芦屋で生まれ、芦屋で育ち、芦屋の市議会議員になった芦屋市民。
学生時代~会社員時代
[編集]芦屋市立宮川小学校、芦屋市立精道中学校、報徳学園高等学校を経て、大阪学院大学経済学部卒業を卒業。 1981年に[[株式会社]大塚商会に入社。1982年に社会人枠で大阪産業大学工学部へ学士入学。3年後の1985年3月 同大学卒業。 その後、㈱都市計画研究所勤務を初め企画関係企業でビジネスを学び、1988年6月(株)エレクターマンソン(スウェーデン企業)に就職。翌年プロダクトコーディネーター就任。
発病による闘病経験と車いす生活になった原因
[編集]1976年5月(昭和51年) 高校3年の5月に突然ネフローゼ症候群の腎臓病を発病、生死をさまよった後、8ヶ月の入院生活を市立芦屋病院で送る。入院中9月から1日1時間だけの授業を受け、出席日数をクリアし病院では治療と厳しい時代を過ごした。この時、大量のステロイドホルモン剤の投与治療を受けることとなり、その25年後の2003年(平成15年)1月に歩行困難の症状が発症。同年5月に難病指定の「特発性大腿骨頭壊死症」と診断される。この病気は、大腿骨頭が阻血性壊死に陥って破壊され、股関節機能が失われる難治性疾患である。(両下肢の関節が破壊される難病) 同年7月に第1回目の手術の後、現在まで12回の手術を受けたことで、なんとか数歩は歩けるまでにはなったが、車いす生活となる。
芦屋市会議員に
[編集]1991年(平成3年)に芦屋市議会議員に初当選。以後連続3期当選。1996年(平成8年)に芦屋市議会副議長。 2003年(平成15年)の第15回統一地方選挙で落選。難病治療に専念。2007年(平成19年)第16回統一地方選挙で芦屋市議会議員に再選され 以後、連続2期当選。現在に至る。
市議会議員になったきっかけ
[編集](株)エレクターマンソン(スウェーデン企業)プロダクトコーディネーターとして日本に先進国の福祉機器やノウハウを提供した職務経験から、日本の福祉の遅れを企業人として目のあたりにしたために、福祉先進国での障碍者の考えである「助けが要る時は助けてください。それ以外の助けは不要です」という考え方の真の意味を日本に広めたかったため。
政治信念・モットー
[編集]いつも市民の傍にいる。どんな相談でも気軽に話ができるそんな議員であり続けたい。 「ブレない!曲げない!初心を忘れずに!」
これまでの主な役職
[編集]市議会副議長
監査委員
議会運営委員会委員長
建設公営企業常任委員長
都市計画審議会委員
環境審議会委員
市営住宅入居者選考委員
(社団法人芦屋青年会議所 第26代理事長)
市議会議員としての主な実績
[編集]芦屋市高校学区を神戸第一学区に編入し、高校選択の道の拡大
福祉関連の制度変更とバリアフリーとユニバーサルデザインを実現
南芦屋浜の街づくりの提案
学校教育の施設整備と制度設計の変更
防災安全のための取り組み
病院経営の合理化とその制度変更