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経歴[編集]

(略)

医師の道へ[編集]

(略)

ドイツ留学[編集]

唯は実地研究として、東京市内や地方の病院で医局員として勤めたが、自身が専攻を望む眼科学の研修場所は、当時としては医学の本場であるドイツが唯一であった。ドイツは唯が開業前に、伝染病研究所にいた頃よりの夢であったが、娘にそばにいてほしいと母に乞われ、すぐ実行に移すことができなかったとの経緯があった。1902年(明治35年)に上京して、ドイツ留学を目指し、ドイツ語を学んだ。猛勉強が叶って、1902年(明治35年)には帝国獨逸学会(帝国ドイツ学会)の会員となった。

麹町での送別会。前列の左から3人目が唯、その右は吉岡彌生。
麹町での送別会。前列の左から3人目が唯、その右は吉岡彌生。
ドイツ留学時代。左端が唯。
ドイツ留学時代。左端が唯。
ドイツ留学時代。後列右が唯。
ドイツ留学時代。後列右が唯。

1903年(明治36年)、唯はドイツへ渡った。巡査の初任基本給・月俸が12円、銀行の大卒初任給が35円の時代にあって、渡航費には7000円もの莫大な費用を要したが、父と兄の援助があり、豪商であった実家の財力があればこそであった。出発前には、東京府麹町で、日本女医会の新年会を兼ねた送別会が開催され、唯の済生学舎での学友にして、同会の会長である吉岡彌生が幹事の1人を務めた。

当初はベルリン大学を望んでいたが、目標は医学士号取得であり、同大学でそれが不可能と知り、フィリップ大学マールブルクに留学した。マールブルク大は当時、公式にはまだ女子の入学を許可していなかったが、国外の正規の医学課程修了者に限定して受け入れを始めていた。唯は、北里柴三郎からの紹介状に加えて、すでに医師免許を持っていたことが功を奏して、同1903年春にマールブルクの聴講生の資格を得た。

唯の専門は眼科であったが、「せっかく来たのだから全教科を」と勧められ、マールブルク大で眼科と衛生学研究所に所属し、病理学生理学産婦人科学内科学外科学と、医学部のあらゆる授業を受けた。朝7時から午後の14時まで複数の授業を受け、その後もラボで実験に明け暮れる過酷な日々で、ドイツ滞在中はほとんど下宿と大学の往復だけの日々を送り、ドイツ人との交流の機会もなかった。眼科の研究のみを目的としていた唯にとっては、眼科以外を学ぶことは不満であったが、ここで全教科を学んだことが、後の医療活動に生きる結果となった。

同1903年、良き理解者だった父が死去した。唯は深く悲嘆したが、当時は空路がなく帰国が容易でなかったこともあり、涙を堪えて、留学期間を1年短縮して勉学に励んだ。兄も責任をもって、学費の送金を続けた。日露戦争の開戦後は、小国である日本の者として小馬鹿にされることもあったが、戦争で日本が勝利すると、周囲の目も変わり始めた。

1905年(明治38年)2月上旬、唯は新生児淋菌性結膜炎の予防法に関する学位論文「Experimentelle Untersuchungen über den Wert des so genannten Credéschen Tropfens(所謂クレーデ点眼液の効果に関する実験的研究)」をドイツ語で書き上げ、同1905年の眼科学専門雑誌『Zeítschrift für Aúgenheilkunde』に掲載された。この論文に続き、同1905年2月から口頭試問を受けた末、唯は念願の医学士号「ドクトル・メディツィーネ」を得た。マールブルク大創設以来、女性初の医学士号取得者であり、日本人女性としても初めてのことであった。マールブルク大の附属文書館に保管されているドクトル・メディツィーネ受験者たちの書類によれば、男性受験生たちは慣例に基づき、専門領域の受験料として350マルクを支払ったが、唯は専攻する眼科以外にも全教科の口頭試験を受け、通常より多い525マルクの受験料を費やしており、加えて2週間もの口頭試験に耐え抜いての快挙であった。

帰国[編集]

(略)

中国での開業[編集]

同仁病院前での記念写真。左から3番目が唯、4番目が夫の常三郎。
同仁病院前での記念写真。左から3番目が唯、4番目が夫の常三郎。
同仁病院での唯、夫の常三郎、看護婦たち。
同仁病院での唯、夫の常三郎、看護婦たち。

その後も唯は、病気に苦しむ人々を、より多く救うことを望み、その道を求めて北里柴三郎の元を訪れた。北里は唯に、満州の目に余る医療事情を教えて、「ドクトルの称号を得た君は、この日本に留まらず、本当に君を必要としている地で力を振るうべき」と強く説いた。同1907年、唯は新天地を中国に求めて、夫と中国大陸に渡り、天津租界(外国人居留地)に総合病院「同仁病院」を開業した。「同仁」は「広く平等に愛する」の意味での命名である。

同仁病院は、当時としては珍しい鉄筋コンクリートの3階建てで、入院部屋は15室あった。唯はこの病院の院長として、同郷の看護婦たち、数人の代診や助産婦たちとと共に診察にあたっており、加えて中国人の給仕たちや車夫も雇う大所帯であった。夫の常三郎は1階で、薬局と印刷所を経営する、多角経営の病院であった。唯はドイツのマールブルク大で医学部のあらゆる授業を受けたことが功を奏して、専門である眼科のみならず、産婦人科内科小児科の診療も請け負った。汽車に乗って、1日がかりで往診する日もあった。

当時の天津は、中国やヨーロッパなど、各国から訪れているものが多く、病院の患者も様々であった。診療では、通訳を雇わず、かつて学んだ英語とドイツ語、そして新たに習得した中国語を駆使していた。通訳を経ずに直接話すことで、唯は患者と心を通い合わせることができた。あるときには、相手がハンカチで口を塞いでうつむいているので、事情を尋ねると「ニンニクを食べたのでにおいがする」と言うので、唯は「私は中国人と仲良くするためにここに来ました。中国流を学ぶために、私もニンニクを食べなければなりません」と笑顔で返した。

同仁病院は約30年にわたって順調であったが、1930年代には満州事変第一次上海事変と、相次ぐ日中の衝突の勃発に伴って、日本人である唯の立場は次第に悪化した。同仁病院も一部が、天津に駐留していた日本軍に接収された。唯はそれでも夜間の往診で、中国人の車夫に人力車を引かせて、平気で外出していた。中国の兵士に取り囲まれて、銃を突きつけられることもあったが、同行の看護婦が言葉を失う中、唯は怯まずに中国語で「誰誰の往診へ行くところです」と即答して切り抜けた。

満州事変勃発の翌年の1932年(昭和7年)、糖尿病を患っていた夫の中村常三郎が急逝した。唯は、医師として多忙のために満足に夫を看護できず、体調の急変にも気付けなかったことを深く後悔した。苦しむ患者を救うことを己の使命としていた医師としての生涯で唯一、このときだけは、医師となったことを後悔した。友人に「辞めようかと思った」とも話したものの、自らの使命を医師と信じ、その道を貫き通して、満州事変が激しさを増すまで、天津で医師として働き続けた。しかし日中関係の悪化に拍車がかかったことで、同仁病院は閉鎖を強いられた。

帰国 - 晩年[編集]

池上洗足町の中村眼科医院。右端が唯。中央は中国時代から唯のもとに務めていた看護婦。熊本開発研究センターによる雑誌『熊本開発』での1993年の唯の特集時、唯のもとにいた唯一の存命人物として、貴重な証言を語った。左端は中国留学生。
池上洗足町の中村眼科医院。右端が唯。中央は中国時代から唯のもとに務めていた看護婦。熊本開発研究センターによる雑誌『熊本開発』での1993年の唯の特集時、唯のもとにいた唯一の存命人物として、貴重な証言を語った。左端は中国留学生。
唯の死亡広告。友人総代として志賀潔と漆山又四郎の名がある。
唯の死亡広告。友人総代として志賀潔と漆山又四郎の名がある。

同1933年に、唯は同仁病院の閉鎖により、中国に見切りをつけて、静養も兼ねて日本へ帰国し、郷里の牛深で開業した。この牛深での診療科は眼科と産婦人科であり、産婦人科は眼科に加えて、当時の天草で特に必要とされていた医学であった。唯はここでも中国と同様、貧しい者には無償で接した。この牛深での開業時は、女医の珍しさと名声により、島の内外から患者が押し寄せたとの説と、逆に「初老の女医」との評判が良くなかったため、患者は滅多に来なかったとする説がある。豪商であった生家も、唯の誕生時には徐々に陰りが差し始めており、この当時にはすでに往時の賑わいはなかった。

翌1934年(昭和9年)に上京して、池上洗足町(後の東京都大田区南千束)に「中村眼科医院」を開業した。この医院は唯自身が「隠居仕事」とも呼ぶほど小規模のもので、1日の患者の人数はせいぜい1桁であった。カルテの枚数も9枚止まりのため、唯は怪談の皿屋敷を真似て、10枚に満たないカルテを「1枚、2枚……」と数え、「番町皿屋敷病院と改名しようかしら」と、冗談を飛ばして笑っていた。しかし医院の借家代50円に対して、天津の同仁病院の貸し賃として200円の収入があったため、生活に不自由することはなかった。北里柴三郎門下で赤痢菌発見で知られる志賀潔、癌研究所の稲田龍吉や、近隣の中国人留学生たちとの交友もあった。

還暦を迎えた後、長年にわたって医療活動にその身を費やしたことで体を病み、入院加療の身となった。東京での開業の翌々年、1936年(昭和11年)6月18日に池上洗足町の自宅で、稲田龍吉に看取られつつ、肝癌により63歳で死去した。東京で行われた葬儀には、吉岡彌生を始め、当代一流の医学者たちが参列し、志賀潔と漢学者の漆山又四郎が友人総代を務めた。遺骨は長崎県島原町で夫の常三郎と共に葬られた後、分骨が牛深小学校の近隣の山頂に、父と共に葬られた。

中国と深く関りをもった唯は、「日本と支那(中国)が戦争にならなければいいのに」と、日中の関係を最期まで憂いていたが、その願いも叶わずに日中戦争が開戦したのは、奇しくも死去の翌年のことであった。

年譜[編集]

(以下すべて略)