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利用者:陽寿/琉球における藩

琉球における「藩」

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1872年からの琉球藩とは異なる。

1609年の薩摩の侵攻以前から、中国と国家間関係があった琉球国は、稀ではあるが中国王朝に対しみずからを「藩」と称し朝貢をしていた(中国における「藩」については中国の藩参照)。1609年以降においても、侵攻以前と同様に中国王朝(主に清朝)に対し「藩」を自称しつつ朝貢を行うことがあった[1]

1845年以降に西洋船の来航が頻発するようになると、西洋船に対しみずからを「中国の屏藩」と称し、中国王朝との関係性をアピールすることで西洋側からの要求を一時回避するという外交手段に出る[2]。一方で、江戸幕府は琉球国を「薩摩の附庸」(薩摩による琉球侵攻を参照)と見なしていたが、18世紀以降になると、琉球国を「藩国」と見なすようになる[3]。その後19世紀に入ると、日本は琉球国のことを「皇国の藩屏」と認識するようになる。これは、19世紀以降、各藩に認識されるようになった「藩屏」意識[4]と、同時期に間に広まった琉球に関する読み物(琉球物[5])の影響によるものと考えられる。琉球国自身は、周辺諸国に「藩屏」と称することはなかったが、1872年の琉球藩設置の際に明治天皇の勅詔中の「其レ藩屏ノ任ヲ重シ」という文言を受け入れることにより、琉球国は日本の「藩屏」に編入されたことになる[6]

  1. ^ 伊藤陽寿 (2018). “中華の「屏藩」、皇国の「藩屏」-琉球国の「藩」自称ー”. 至誠館大学研究紀要 第5巻: 92ページ. http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/fb/metadata/283. 
  2. ^ 伊藤陽寿 (2018). “中華の「屏藩」、皇国の「藩屏」-琉球国の「藩」自称ー”. 至誠館大学紀要 第5巻: 92-93. http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/fb/metadata/283. 
  3. ^ 紙屋敦之 (1997). “大君外交と日本国王”. 大君外交と東アジア (吉川弘文館). 
  4. ^ 吉村雅美 (2012). 近世日本の対外関係と地域意識 (清文堂). 
  5. ^ 横山學 (1981). “琉球物と琉使来聘”. 江戸期琉球物資料集覧 (本邦書籍) 第4巻. 
  6. ^ 伊藤陽寿 (2018). “中華の「屏藩」、皇国の「藩屏」-琉球国の「藩」自称ー”. 至誠館大学紀要 第5巻: 95ページ. http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/fb/metadata/283.