利用者:陽寿/琉球史記事3
日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)は、日本人と琉球(沖縄)人は、その起源において民族的には同一であるとする説。
歴史的には16世紀の京都五山の僧侶等によって唱えられた源為朝琉球渡来説に端を発し、それが琉球へ伝わり17世紀に摂政・羽地朝秀が編纂した『中山世鑑』に影響を与え、明治以降は沖縄学の大家・伊波普猷によって詳細に展開されたとされてきた。しかし近年では、各時代における本説の変遷が明らかにされつつあることから、「近代日本国家と沖縄との関係から形成され展開した一つの言説」として位置づけ直されてきている。
概要
[編集]日琉同祖論の起源
[編集]羽地朝秀の日琉同祖論
[編集]江戸時代の日本における日琉同祖論
[編集]伊波普猷の「同祖論」と「日琉同祖論」への位置づけ
[編集]伊波普猷の「同祖論」
[編集]伊波普猷は、1911年に刊行される『古琉球』にも収録された、刊行の直前に執筆した論説である「琉球人の祖先に就いて」や「琉球史の趨勢」[1]、さらには「琉球語の掛結について」「P音考」『琉球の神話」[2]のなかで日本と沖縄の共通性について論じている。
「琉球人の祖先に就いて」は、沖縄人が体質・言語・民俗・神話いずれの点からも「大和民族」との共通性を持っており、紀元後まもなく日本から離れ南に移住したと結論している。 「琉球人の祖先に就いて」の第二論文という位置づけである「琉球史の趨勢」には、「琉球人の祖先に就いて」をうけたうえで、1609年の島津氏の琉球征服やその後の圧政、そのもとで培われた沖縄人の面従腹背姓、そのような中から現れた三大政治家である向象賢、蔡温、宜湾朝保の称揚が書かれている{{refnest|group="注釈"|name="称揚の理由"|この三人が取り上げられている理由は、大正天皇御即位の大典の際に贈位の恩典に預かったためだとされる。[3]。
こうした伊波の「同祖論」を、以上のような文脈の下で後世の研究者たちがいわゆる日本への同化や日本からの異化という二項対立構造により読解し、伊波以前の「日琉同祖論」と関連付けて解釈したのが現在言われる「日琉同祖論」である。
「同祖論」の二類型
[編集]ヒトゲノム研究との関連
[編集]注釈
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脚注
[編集]参考文献
[編集]- 鹿野政直『沖縄の淵』岩波書店、1993年
- 伊波普猷『古琉球』岩波書店、2000年
- 石田正治『愛郷者 伊波普猷 戦略としての日琉同祖論』沖縄タイムス社、2010年
- 崎濱紗奈『伊波普猷の政治と哲学 日琉同祖論再読』法政大学出版会、2022年