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利用者:高梨佐渡守勝清/sandbox

アクレ攻防戦 [[1]]

しかし十字軍は広い戦場のあちらこちらでムスリム軍を追撃しており、兵は分散してしまっていた。それを見つけたサラディンは敗走している自軍を再び集めてその中の軽装騎兵を、戦闘がひと段落して戦利品と共に野営地に引き上げている十字軍に差し向け、逆に攻めかかった。打ち破ったはずのムスリム軍に背後から攻めかけられた十字軍兵士は混乱してまともな抵抗ができず、ムスリム騎兵は十字軍左翼から新手の部隊が救援に来るまで、逃げ惑う十字軍兵を殺戮し続けた。ギーはこの状況を打破すべく、野営地にてアッコン市に籠るムスリム守備兵の備えとして残されていた部隊を十字軍団の戦列に援軍として加えた。それを市内から見ていたムスリム守備隊は、十字軍の野営地が無防備であることを見抜き、城内から打って出て、十字軍左翼部隊に背後から攻撃を仕掛けた。彼らは十字軍の左翼に陣を構えていたテンプル騎士団らに襲いかかり、多くの損害を十字軍に与えた。テンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォール英語版らは戦死し、コンラートもギーの救援が必要となったほどだった。戦闘の終盤、十字軍はムスリム軍を追い払うことができたが、十字軍側の損害はひどく、4,000・5,000〜10,000人が倒されたとされている[1]。しかしサラディン側としても、この戦闘だけで十字軍を追い出すことはできず、完全な勝利とはいえないものとなった。

二度目の包囲戦[編集]

秋の間にヨーロッパからさらに多くの十字軍団がアッコンに集結したことで、ギーはアッコンを海上からだけではなく、陸上からも包囲することができた。そんな中、ヨーロッパからフリードリヒ1世が来訪し、十字軍団を沸かせた。しかし皇帝の来訪は十字軍の戦意を高めただけではなく、サラディンに危機感を抱かせることにもなった。サラディンは諸国から増援を集め、アッコンを包囲する十字軍とそれの野営地を共に取り囲もうとした。

 10月3日、ムスリムのガレー船50隻がアッコンに進撃し、市を海上から包囲してた十字軍の艦隊を打ち破りアッコンに入城。アッコンを守備するムスリム部隊に対して、10,000人の増援部隊に加えて食糧や武器などを補充した[2]。12月7日、サラディン配下のエジプト艦隊がアッコンに現れ、アッコン市の港と、港につながる街道を抑えた。1190年3月の天気の良い日、コンラートは自身の艦隊を率いてティールに向かい、補給品を携えて時を置かずにアッコンの陣に戻った。この補給品のおかげで、十字軍は沿岸のエジプト艦隊に対して海岸沿いから良く対抗することができた。コンラートの補給品の中には攻城兵器の材料となる木材などがあり、これをもとに攻城兵器を製造した。しかしながら、これらの兵器は5月にアッコン市を攻めた時に破壊された。

 5月20日、前々から自身の兵力を増強し続けてきたサラディンは十字軍の野営地を襲撃した。この攻撃は8日続いたが十字軍に撃退された。6月25日、指揮官の命令に背いた十字軍兵士が、突如サラディン軍の右翼部隊に攻撃を仕掛けた。この無計画な突撃は失敗に終わった。そうこうしているうちに、十字軍に新たな援軍が現れた。アンリ2世ティボー5世エティエンヌ1世英語版ラウール1世英語版ブザンソン大司教英語版ブロワ司教英語版、そしてトゥール司教英語版らが率いるフランク人部隊がまず最初に到着し、また9月の頭には、6月10日にキリキアのサレフ川にて進軍中に溺死したローマ皇帝に変わって、彼が率いていたドイツ人部隊の残存兵を率いてフリードリヒ6世が続いて着陣。その後間をおかずにカンタベリー大主教率いるイングランド人部隊も到着した。そして10月にはバル公が着陣し、十字軍はその地域の大都市であるハイファを奪取した。このおかげで十字軍の野営地に豊富な食糧が供給されるようになった。

 しかし、街・野営地での暮らしは、共にサラディンに徹底的に包囲されていたことからあっという間に悪化した。食糧の供給は滞り始め、水は兵士・動物の死骸で汚染され、衛生環境が悪化したことで伝染病がすぐに蔓延し始めた。そして十字軍を率いていた貴族の1人であるルートヴィヒ3世英語版マラリアに感染し、新たなフランク部隊の到着と入れ替わりで療養のためにフランスに帰国を開始。しかしフランスにフランスにたどり着く前の10月16日、キプロスにて死去した。6月後半から10月のある時点で、ギーの妻でありエルサレム王国女王シビーユが2人の子供を産んですぐに死去。エルサレム王の王位継承権はシビーユにあったためにギーは彼女の死去と共に正統な王位継承権を失い、シビーユの王位は彼女の妹であるイザベルに継がれることになっていた。しかしギーはイザベルにエルサレム王位を引き渡すことを拒んだ。

 


(5段落目、翻訳依頼...)



エルサレムに進軍するリチャード1世 』, ジェームズ・ウィリアム・グラス作 (1850年)


 サラディンの軍勢をこの上ないほどに増えて周辺地域を抑えてしまったことから、ヨーロッパからやってくる十字軍は陸路でアッコンに向かうことができなくなってしまった。また冬が近づいてきていたことから海路での補給物資や援軍の供給ができなくなり始めていた。1190年から1191年の冬にはアッコンに駐在するムスリム守備兵が20,000にまで増加していた[3]。この頃、十字軍の野営地では多くの指揮官が伝染病で命を落とし始めていた。1191年2月20日、ブロワ伯ティボー5世とシュヴァーベン大公ルートヴィヒ6世が野営地で死去し、シャンパーニュ伯アンリ2世は数週間の間闘病生活を送った。地元の司教も病に倒れた。

12月31日、十字軍はアッコンの城壁を攻撃したが失敗し、1月6日、城壁の一部が崩れたことを受けて再び十字軍は街を攻撃しようと試みた。そして2月13日、サラディンは街を包囲する十字軍の戦列の一部を打ち破りアッコンに新手の守備隊を送り込むことに成功した。コンラートは海側からアッコンを攻撃しようと試みたが、向かい風や浅瀬の岩場などにより十分に港に近づけず、思うように損害を与えることは出来なかった。しかしながら、3月、天気の良い日に野営地付近の海辺で十字軍は補給品を荷揚げすることができ、また、ヨーロッパからレオポルト5世がアッコンに着陣したことも受け、十字軍遠征は継続されることとなった。レオポルト5世は今後の十字軍の指揮を取ることになった。またこの頃、サラディンには驚くべき知らせが届いていた。イングランド王リチャード1世フランス王フィリップ2世エルサレム奪還を目指して進軍しており、サラディンはもはや十字軍を完全に殲滅する機会を逃してしまっていた。

アッコンの両王[編集]

十字軍に合流したフィリップ2世を描いたミニアチュール (14世紀中頃の作品)

フィリップ2世は4月20日にアッコンに到着し、リチャード1世は途中キプロス島を東ローマ系貴族から攻め落としたのちの6月8日に同じくアッコンに到着した。リチャード1世はイングランド艦船100隻で8000人の兵士とともに着陣したのに対して、フィリップ2世はジェノバ人の指揮官が率いるジェノバ艦船に便乗してアッコンに向かった。フィリップはリチャードが着陣するまで攻城兵器を作った。彼らが着陣したことでヨーロッパからきた軍勢らは統率力が高まり、それまでは守勢だった十字軍は今やアッコンを包囲するに至った。リチャードはアッコンに到着後、サラディンとの面会を切望しており、ちょうどその頃、十字軍とムスリム軍との間で三日間の休戦協定が結ばれていたことからこの面会は実現可能であった。しかしフィリップとリチャードは揃って体調を崩してしまい、結局両者の面会は開催されなかった。

フィリップ王はアクレ攻城に早く取り掛かりたかったが、リチャード王は病気が完治していない上に彼の軍勢の一部が嵐のためアクレに辿り着いていないこともあって、まだ城攻めの準備ができておらずアクレ攻めは開始されなかった。しかしながらフィリップ王は自身だけでアクレ攻めの準備を進め、6月17日、バリスタなどの攻城兵器を以ってアクレを攻めた。アクレ守備隊はさまざまな方法を用いて音を鳴らしたり煙を焚いたりし、街の外側に陣取っているサラディン軍や他のイスラム軍らに十字軍からの攻撃を知らせた。街の外のイスラム軍はその計画通りにアクレを救援するべく十字軍に攻撃を仕掛けた。

A 19th-century depiction of the Acre's surrender to Philip in 1191

一方十字軍は、攻城兵器を使ってアクレの城壁に穴を開けることに成功した。しかし城に穴が開くたびに、サラディンが十字軍に攻撃を仕掛けたことで、アクレ守備隊は十字軍に侵入されることなく城壁の穴を塞ぎ城を守り抜くことができた。7月1日、フランドル伯ヴェルマンドワ伯を兼任するとともにフィリップ王の側近の中で最も重要な貴族の1人、フィリップ1世が陣中にて亡くなった。この頃、フィリップ王にはまだ後継がおらず、フランス王位の相続に関する問題は火急な事案となっていたため、フィリップ王のフランス王としての権威を高める要素となっていたフランドル伯の死により、フィリップ王のフランス王としての立場が危ういものになった。

脚注[編集]

  1. ^ Christopher Tyerman, God's War A New History of the Crusades, p.416. Belknap Press, 2008.
  2. ^ Pryor 2015, p. 104.
  3. ^ Pryor 2015, p. 108.

出典 [編集]

  • Asbridge, Thomas (2012). The Crusades: The War for the Holy Land. Simon & Schuster. ISBN 978-1-84983-688-3 
  • Hosler, John D. (2018) "The siege of Acre (1189–1191) in the historiographical tradition" History Compass (2018) DOI: 10.1111/hic3.12451
  • Hosler, John (2018). The Siege of Acre, 1189-1191: Saladin, Richard the Lionheart, and the Battle that Decided the Third Crusade. Yale University Press. ISBN 978-0-30021-550-2 
  • Lane-Poole, Stanley. Saladin and the Fall of the Kingdom of Jerusalem Williams & Norgate, London (1903). (Archived here)
  • “A Medieval Siege of Troy: The Fight to the Death at Acre, 1189–1191 or The Tears of Ṣalāḥ al-Dīn”. The Medieval Way of War: Studies in Medieval Military History in Honor of Bernard S. Bachrach. Farnham: Ashgate. (2015). ISBN 9781472419583 
  • Reston, James, Jr. (2001). Warriors of God: Richard the Lionheart and Saladin in the Third Crusade. Random House, ISBN 0-385-49561-7.
  • Tyerman, Christopher (2007). The Crusades. Sterling Publishing Company, Inc.. pp. 111–. ISBN 978-1-4027-6891-0. https://books.google.com/books?id=x5z1MqPHWLgC&pg=PA111 2016年10月4日閲覧。 

Primary sources[編集]

  • Itinerarium Peregrinorum et Gesta Regis Ricardi, ed. William Stubbs, Rolls Series, (London: Longmans, 1864) III, 1, 5, 13, 17–18 (pp. 210–11, 214–17, 224–26, 231–34), translated by James Brundage, The Crusades: A Documentary History, (Milwaukee, WI: Marquette University Press, 1962), 175–81 fordham.edu