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利用者:髙原基広/sandbox

歴史文献資料である「大湯{熱海温泉の歴史}沼津市立図書館所蔵169013798-7」の14ページ8行目にこのような記載があることである。 ” 熱海の守護者が最初に見えたのもこの頃で、紀長谷雄がそれで、温泉をたしかめようとして、熱海の地でその生涯を閉じている。(延喜1年歿、九一二年)、” *但し、大湯の作者は紀の長谷雄の父の歿年(延喜1年歿)と紀の長谷雄の歿年(九一二年)を混同している様である。* いずれにしても国家の守護職[伊豆国守護]が温泉開発で死んでいるのである。

類聚名物考  地理三十五〕 伊豆國賀茂郡熱海温泉記 倩熱海なる出湯の年經りし由來を考へ侍るに、〈◯中略〉抑此里は、名にし負伊豆がねの尾にして、海邊より三丈餘り高き岡に、巖の底より自然鹽湯の涌出て、立登る煙りは富士淺間にもたぐへやは見ん、晝夜六度宛、時に臨みては沸り出る響雷鳴かとあやしむ、溢れ流るヽは大河の如し、かヽる不測の靈湯ありつれど、上代は民屋も乏く、知人なくて徒に幾年月をふりにたり、かくて孝謙天皇の天平勝寶元年己丑睦月ばかり、里の小童に神託て云はく、此高き岡に温泉あり、汲取て浴せよ、病咸愈べしと、頓に小童は醒てかヽりし事をも不レ知、默然として眠る、こヽに村民等恭畏て、神の教のまに〳〵、湯槽を居置桶渡し、浴室を作曳入ゆあみしけるに、衆病愈て妙なる事神の如し、よりて清地を撰み、湯の上なる岩境に神籬を建、湯前神社を齋ひ、少彦名命を安鎭まつり敬ければ、里も榮へて、いや増に効驗なれば、千年の今猶絶ずなん有ける、寛平四年、中納言紀長谷雄卿といひし博士、伊豆國の任なりしにや、來り給ひける時、温泉の源を探見んとて、數多の村民に命て堀穿けるに、滑石及開之シキナミ熱湯沸出る事猶前の如し、かヽりしかば、恐退て止ぬとかや、元來神徳

この頃の伊豆国守護名では紀の長谷雄の名は無い・・・私は長谷雄の子孫であるが、その頃(八七六~九一一年)の記載守護名は高原王と記載されている。 つまり、(八七六~九一一年)の記載守護名は高原王と(延喜1年歿、九一二年)の死んだ中納言紀長谷雄は同一人物であり、年代もぴったりと一致するのである。

※日付=旧暦

高原王(承和7年〈840年〉3月5日 - )→この年号は王位継承に即位した守護職年号で紀の長谷雄の父と思われる。  従五位下 

高原王(仁寿2年〈852年〉11月7日 - )→この年号は王位継承した年号で紀の長谷雄本人と思われる。  この時を数え年1歳とすると、守護職従五位上即位は45才位~47才位の時 歿まで60年

876年(貞観18)春、文章生となる。→25才位~27才位

881年(元慶5)2月15日、文章得業生となり、讃岐権少目に任官。→30才位~32才位

883年(元慶7)掌渤海客使、対策に及第。→32才位~34才位

884年(元慶8)5月26日、讃岐掾に転任。→35才位~37才位

886年(仁和2)1月16日、少外記に遷任。→37才位~39才位

888年(仁和4)11月25日、従五位下に叙位。少外記元の如し。→39才位~41才位

890年(寛平2)1月28日、図書頭に転任。→41才位~43才位

891年(寛平3)3月9日、文章博士に遷任。→42才位~44才位

892年(寛平4)1月26日、尾張介を兼任。  5月23日、讃岐介を兼任。尾張介を去る。→43才位~45才位 寛平四年、中納言紀長谷雄卿といひし博士、伊豆國の任なりしにや、來り給ひける時、つまり尾張を去る事と伊豆國赴任が一致する。

893年(寛平5)2月21日、式部少輔に遷任。文章博士・讃岐介元の如し。→44才位~46才位

894年(寛平6)1月7日、従五位上に昇叙し、式部少輔・文章博士・讃岐介元の如し。  8月16日、右少弁に転任。式部少輔・文章博士・讃岐介元の如し。→45才位~47才位

895年(寛平7)8月13日、正五位下に昇叙し、右少弁・式部少輔・文章博士・讃岐介元の如し。  8月13日、大学頭に遷任。式部少輔・文章博士・讃岐介元の如し(三職兼帯の例)→46才位~48才位

896年(寛平8)12月16日、従四位下に昇叙し、式部少輔・大学頭・文章博士・讃岐介元の如し。→47才位~49才位

897年(寛平9)5月25日、式部大輔に転任。文章博士元の如し。  6月19日、侍従を兼任。→48才位~50才位

899年(昌泰2)2月11日、右大弁に転任。侍従・式部大輔・文章博士元の如し。→50才位~52才位

900年(昌泰3)5月15日、左大弁に遷任。侍従元の如し。→51才位~53才位

901年(延喜1)年 歿は紀の長谷雄の父の死→長谷雄の父約65才以上

902年(延喜2)1月26日、参議に補任。左大弁元の如し。→53才位~55才位

903年(延喜3)1月7日、従四位上に昇叙し、参議・左大弁元の如し。  1月11日、讃岐権守を兼任。→54才位~56才位

907年(延喜7)1月13日、讃岐守を兼任。讃岐権守を去る。→58才位~60才位

908年(延喜8)1月7日、正四位下に昇叙し、参議・左大弁・讃岐守元の如し。→59才位~61才位

910年(延喜10)1月13日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。→61才位~63才位

911年(延喜11)1月13日、中納言に遷任。→62才位~64才位

912年(延喜12)→63才位~65才位 温泉をたしかめようとして、熱海の地でその生涯を閉じている。

これは歴史的再認識が必要なのではなかろうか?私は今も紀の長谷雄の墓を探しているのである。 清和体制の時代戦略で消えてしまった守護職の墓を私は今も探しているのである。