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利用者:(五)/砂場/横浜市の「発祥」

「横浜市」の 2006年7月9日 (日) 14:40 の版を元にしています。

日本では横浜が発祥とされているもの[編集]

アイスクリームの販売(アイスクリームの項の「日本での普及」も参照)
日本初の氷水屋として馬車道に開業した町田房造の店が1869年(明治2年)に「あいすくりん」を発売。房造が店を開いた地の向かい側にアイスクリーム記念碑「太陽の母子像」が建てられている。〈太陽の母子像〉中区常盤町4-45
テニス
1878年(明治11年)、山手公園の一角に、5面のコートを持つ「レディーズ・ローンテニス・アンド・クロケー・クラブ」が結成された。このクラブは1964年(昭和39年)に「横浜インターナショナル・テニス・クラブ」と名称を改め、その入り口に「日本庭球発祥の地」の記念碑が建てられた。〈日本庭球発祥の地の記念碑〉中区山手町230
日本初の国際親善野球大会
明治29年に横浜公園(明治9年完成)で開催された。〈横浜公園〉中区横浜公園
灯台
1868年(明治元年)に洲干弁天官舎跡へ灯台掛の木工場が建設され、日本初の洋式灯台である観音崎灯台(横須賀市・1869年1月1日点灯)設置の礎となった。翌1869年(明治2年)には「灯台局」と改称、1868年(明治元年)に採用されたイギリスの土木技師リチャード・ヘンリー・ブラントンによって本牧灯船が造られた後、1871年(明治4年)にはさらに「灯台寮」へ改称されつつ、ここを拠点に全国の灯台整備が行なわれた。横浜港運輸総合庁舎第三管区海上保安本部の前庭に「灯台局発祥の地」の木標が建てられている。〈灯台局発祥の地の木標〉中区北仲通6-34
西洋
横浜には外国人たちが多く移住しており、彼らの西洋建築の需要に目をつけたフランス人アルフレッド・ジェラールが元町に製作所を建て、西洋瓦(フランス瓦)やレンガ、タイルの製造を行なった。一方、工場の敷地内から湧き出る清水を横浜港に出入りする船への飲料水として供給していたため、ジェラールの工場は「煉瓦屋敷」とも「水屋敷」とも呼ばれていたというが、関東大震災で倒壊。その跡地には日本初の公認プールである「元町プール」が設置された。なお、元町公園内の山手80番館遺構では、1873年製のジェラール瓦を見ることができる。出土した瓦の破片は、神奈川県立博物館や開港資料館にも展示されている。〈山手80番館跡〉中区元町1-77
日本語の日刊新聞(新聞の項の日本の新聞の「歴史」も参照)
英字の日刊新聞が1861年に長崎市で発刊されたのに続き、1870年(明治3年)12月8日に日本初の日本語の日刊新聞となる「横浜毎日新聞」が創刊された(後の「東京毎日新聞」)。
トラス鉄橋
横浜の外国人居留地(現在の関内一帯)とその外側を隔てる吉田川に架けられた吉田橋ははじめは木製のものだったが、R・H・ブラントンによって耐久性のある鉄の橋に架け替えられた。当時の知事からの経費節減の要望にこたえ、人材や資材をヨーロッパからは求めず、香港から鉄材を取り寄せ、日本人の鍛冶工を用いて、1869年(明治2年)に全長23.6mの鉄の橋を完成させた。
日本の鉄橋としては前年に長崎に架けられた銕橋に次ぐが、トラス構造のものとしては日本初。人々は「かねの橋」と呼び親しんだという。現在の吉田橋は1978年(昭和53年)に「かねの橋」を模して架けられたもので、傍らには「吉田橋関門跡」の碑が建っている。〈吉田橋関門跡の碑〉JR関内駅北口そば
君が代」の旋律(君が代の項の「明治」も参照)
1870年(明治3年)、イギリスの軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが、東京で行われた天覧調練の日に演奏するため、薩摩琵琶歌『蓬莱山』から選ばれた歌詞に、その意味もわからないまま旋律を当てはめて作曲したのが「君が代」の原形とされる。しかし、日本人には馴染みづらい旋律だった為、1880年(明治13年)になって宮内省楽師の奥好義が作曲し直し、海軍軍楽隊雇いのドイツ人エッケルトが洋楽に編曲して、現在の形となった。最初の旋律を作ったイギリス軍楽隊が宿泊していた妙香寺に「国歌君ケ代発祥之地」の碑が建てられている。〈妙香寺〉中区妙香寺台8
西洋野菜の栽培
1863年(文久3年)ごろ、イギリス人カーチスが、山手において自分達の食材用の西洋野菜の栽培を試みた。後に日本人が雇われて試作を手伝い始めたが、貴重品だった野菜の種はトランクに厳重に保管されていたという。
ガス事業ガス灯の項も参照)
1870年(明治3年)に外国人から神奈川県にガス灯建設の申請が出されたのを受け、横浜の実業家高島嘉右衛門らが外国人による利権の独占に対抗するため日本で初めてのガス会社「日本ガス社中」を設立(現在の東京ガスの祖)、ドイツの商社と争った結果ガス灯建設の免許を取得。フランス人の技師ペルグランの指導の元、イギリスのグラスゴーから輸入された柱と日本の職人の手による灯具により石炭ガス灯が完成し、日本初のガス事業を開始した(点灯式は1872年(明治5年)9月29日)。関内ホール前のガス灯は、当時のものを復元したものである。〈関内ホール〉中区住吉町4-42
近代街路樹(異論もあり・街路樹の項を参照)
慶応3(1867)年、居留地の外国人からの要請で造られた馬車専用の道路(現在の馬車道)の両側に、街の景観や緑化を意図して、松や柳が植えられた。このことから、馬車道広場に「近代街路樹発祥之地」の碑が建てられている。
営業用鉄道鉄道の歴史 (日本)も参照)
1872年(明治5年)、イギリス人技師エドモンド・モレルの指揮の下、品川仮駅横浜駅(初代・現在の桜木町駅東側広場附近)間を結ぶ日本初の営業用鉄道が開通。当時の運賃は非常に高く、乗車できるのは一部の人に限られたという。桜木町駅前には、「開業当時の横浜駅長室」と書かれた石版と、当時使われていた双頭レールで作った「鉄道発祥記念碑」がある。モレルは工事半ばの1871年(明治4年)に過労のため倒れ、開通を見ずに外国人墓地に眠ったが、その墓石は鉄道乗車券の形を模している。
ビール醸造所(ビールの項の「日本のビール」も参照)
1869年(明治2年)、サンフランシスコでジャパン・ブルワリーの支配人になる契約を結んだウィーガントが来日し、山手46番に日本で初めての本格的なビール醸造所「横浜ブルワリー」を創設する。翌年、米国人ウィリアム・コープランドが山手の天沼に「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を創設して日本で初めて販売用の本格的ドイツ風ラガービールの醸造を開始、1876年(明治9年)にはウィーガントの醸造所を合併、今日のキリンビールの前身となった。工場跡は現在「キリン園」となり、記念碑が建っているほか、附近に「ビアザケ通り」という通りがある。また、隣接する横浜市立北方小学校の校庭にはビール井戸が2つ残る。〈キリン園〉中区千代崎町1-25 〈北方小学校〉中区諏訪町29
近代水道
地形の関係で埋め立て地が多い横浜では、安全な上水道の整備が急務であった。そこで、中国での水道建設に実績を持つイギリス工兵中佐パーマーの協力を仰ぎ、イギリスから取り寄せた資材を用いて道志川と野毛山貯水池を結ぶ延長約48kmの水道工事を完成させ、1887年(明治20年)10月17日から市内への給水を開始した。これを記念して、野毛山貯水池にパーマーの胸像と「近代水道発祥の地」の碑が建っている。陣ヶ下渓谷の項も参照。〈野毛山貯水地〉西区老松町63-10
近代競馬競馬の歴史 (日本)も参照)

日本では古来より「くらべ馬」と呼ばれる馬による競走が行なわれていたが、日本における近代競馬は1862年文久2年)に現在の外国人居留地裏(現在の関内地区の埋立地)で馬蹄型のコースで外国人により行われたのが最初とされている。その後、1866年(慶応2年)、根岸に幕府の手により競馬場が造成され、根岸競馬場(後に横濱競馬場と改称)が誕生する。