コンテンツにスキップ

利用者:1a4s5wS4DF3/sandbox

菊池弘泰[編集]

菊池 弘泰(きくち こうたい、明治39年(1906年)2月25日‐昭和51年(1976年)10月16日)は、昭和期のボクシング功労者。本名は菊池 弘城。財団法人日本ボクシングコミッション(JBC)初代事務局長。世界ボクシング協会(WBA)および世界ボクシング評議会(WBC)の実行委員を務めた。明治大学理事。

経歴[編集]

明治39(1906)年 大分県に生まれる。

昭和 6(1931)年 明治大学商学部卒。明大在学中、国士末永節に師事。

昭和10(1935)年 田辺宗英創刊の報国新報編集長。

昭和16(1941)年 大政翼賛会に入り、団体局地方部副部長で敗戦。戦後後楽園スタヂアム嘱託となった。

昭和27(1952)年 田辺が日本ボクシング・コミッション初代コミッショナーになると同時に事務局長に就任。同年5月白井義男が日本初の世界チャンピオンになった舞台裏工作に力を尽くす。

昭和49年(1974年)明治大学理事。

人物[編集]

学生時代、明治大学柔道部で活躍。この時、末永節の紹介で早稲田大学柔道部の田邊宗英と知り合う。田邊が社主を務める新橋の国報新聞社では編集局長を務めた。田邊は菊池の明晰な頭脳と度胸を買い、自らが初代コミッショナーに就任する際、同時に菊池を事務局長に迎え、東京港区芝田村町にコミッショナー事務局を置いた[1]。菊池は強靭な精神力を持ち、契約、健康管理の書類を完備するなど事務能力に長けており[2]、契約書をファイリングし、選手の戦績表や健康カードをナンバー制にして後のデジタルデータ化の礎石を築いた[3]。「公報」に具体的な試合経過などを盛り込み[2]、カラー写真を掲載するなどして充実させ、業界関係者やマスメディアにも販売した。また、調停が得意で、利害の対立から関係業者の攻撃を受けても決して相手を憎まず、一度友好関係を結んだ相手を裏切ることは絶対にしなかった[3]

  1. ^ 『ボクシング100年』 2001, 138–139頁.
  2. ^ a b 『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年』 2002, 286–287頁.
  3. ^ a b 『ボクシング100年』 2001, 145頁.