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「日本の歴史と比について」

                       3年1組1番 相澤 晃 

Ⅰ はじめに                                      1.この論文の目的  いったいいつ頃から比を重視して物を作り始めたのかをあきらかにするということである。歴史について書かれた本は何冊も何冊もありるが、その歴史のなかで実際に比を調べてそれを詳しく紹介しているものは僕は見たことがない。今回調べることはいつから比を使ってくるようになるのか、そしてどんな比を使うようになったのか、またそこから歴史のどんな背景が見えてくるかということを目的とする。 2.仮説  日本には今、調べてみると様々な物にいろんな比が使われている。僕は黄金比と大和比が有名だということしか知らないので、黄金比は西洋からやってきて、大和比は日本人が江戸時代あたりに考え出したものだと考えた。 3.あらすじ  本やネットを使って時代ごとに建物や物の比を調べてその背景をかんがえていく。また下の表と比が同じかどうかを調べるために次のようなやり方にした。まず調べたい比の小さい方を大きいほうで割る。その値を下の表の同じようにしてに計算したものと比べて判断する。また誤差のレベルを次のように定義する。誤差が①0.01以下②0.05以下③0.1以下 なお、今回考える元の比は次のものとする。 比率名 別名 比率 およその比率 判断材料 黄金比 第1貴金属比 1:1.618 約5:8 約0.625 白銀比1 大和比 1:1.414 = 1:√2 約5:7 約0.714 白銀比2 第2貴金属比 1:2.414 = 1:1+√2 約5:12 約0.416 青銅比 第3貴金属比 1:3.303 約3:9 約0.333 白金比

1:1.732 = 1:√3 約4:7 約0.571 その他・・・約1:1       Ⅱ 本論 1.各時代ごとの調べた結果とその考察 1).旧石器時代・縄文時代  日本列島にも旧石器文化が存在したことは、岩宿遺跡(群馬県)を初め、各地での発掘調査の結果から明らかとなっているが、日本の旧石器文化の遺物には造形芸術と呼ぶべきものはほとんど存在しない。現代人の考える「美術」に該当する遺物が出現するのは新石器文化に相当する縄文時代からである。縄文時代は日本列島の美術が外部からの影響や情報にさらされず、独自の発展をとげた唯一の時代である。これらの時代に出てきた物は主に石器、土器、土偶、アクセサリー、竪穴住居などである。三内丸山遺跡(青森県)などの発掘調査結果によると、この時代既に栽培農耕が行われ、人々は豊かな食生活をしていたことが明らかになり、時代観も変わりつつある。縄文時代は出土する土器の様式編年から草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分されている。草創期の土器は、放射線炭素による年代測定で今から約16,500年前(暦年較正年代法による。従来の放射性炭素測定年代では約13,000年前から。)にさかのぼるとされている。その年代については議論が存在するが、現在のところ、これは世界規模で見ても最古の土器ということになる。木製品や繊維製品などの有機遺物は土中で遺存しにくいため、この時代の出土遺物は土器・土偶を初めとする土製品、石器などの石製品、骨角製品が中心となる。この内、造形表現が豊かで時代の変遷を最もよく示す遺物が土器である。土器は時代や地域によって様式にかなりの相違があり、多くの形式に区分されているが、全般的な特色として言えることは、いわゆる縄文(縄紋とも書く)を初めとした各種文様で器面を加飾し、祭祀用途の強い器種は容器としての機能性に因われない華美な装飾が施される。石器の斧、ナイフ、矢じりなどや土器はそれぞれ、形は似ていますが、すべて比を重視したようにはとても見えなく、使えるものをつくったという雰囲気であった。また、土偶は似ているものもあるが、種類の違うものはまったくデザインが違う。アクセサリーは勾玉の形はほとんど似ていたが曲がっているものは縦と横の比が違うものが多かった。しかし、唯一この時代、1:1の比率である円形のアクセサリーがあった。家も様々な形が有り一定の形というのは彼らの中ではあまり決まってなかったようだ。  この時代の日本人はまだ文化はあまりないので土偶などは人の形にするのが精一杯に感じられ、比率なども気にすることがなかったようである。また家も同様であった。しかしアクセサリーは飾りなので美しい形になっていた。円形のものは比較的作ることが簡単で綺麗なので作ったものと僕は考えた。この1:1という比はこれからも日本人に深く関わっていくのですが起源はこの縄文時代のアクセサリーだと僕は考えている。    石器(例)        土器(例)      アクセサリー 2) .弥生時代  初期農耕文化の時代であり、おおよそ紀元前3世紀から紀元後3世紀頃までの期間を指す[7]。前代との大きな相違は、日本列島の文化が外来の文化や技術の影響を受けるようになったことであり、稲作農耕と金属器が中国大陸からもたらされ、文化は新たな時代に入った。文明の進化に伴い、支配者と被支配者が分化したのもこの時期である。日本列島は未だ先史時代であり、この時代の歴史は同時代の中国の史書によって間接的に知る他ない。この時代の土器は、前時代のものに比して器形も洗練され、装飾も控えめな弥生式土器となる。1万年以上続いた縄文時代に比して、弥生時代は期間的には数百年に過ぎないが、出土品の形式編年から前期・中期・後期に分けられている。この時代の土器は1874年(明治17年)に帝国大学(現・東京大学)の隣地の向ヶ岡弥生町(現・東京都文京区弥生)から出土した壷形土器が学史的には最初の出土例とされている。出土地名をとって「弥生式土器」の名称が定着し、それが時代名ともなった。弥生式土器は地理的に中国大陸や朝鮮半島に近い北部九州で最初に出現したもので、他の地方でも縄文式土器に代わって製作されるようになり、北海道を除く日本全国に分布している。縄文式土器に見られた過剰な装飾は影を潜め、弥生式土器は器形、文様ともに温和で洗練されたものが多く見られるようになった。土器の中には口縁部に人面を表したものもあるが、一般にこの時代には具象的な人物表現は稀で、前代に盛んに作られた土偶もこの時代にはほとんど姿を消している前の時代とこの時代が変わったところとしては弥生土器、鉄の武器、祭器である。鉄の武器は石器の素材を鉄に変えただけのようであった。弥生土器は形は模様がほとんどなくなったが、一定の形は調べてみたところなかった。しかし祭器では銅鐸や鏡が比をつかっている。銅鐸は誤差のレベルは②~③と大きめではあるが縦と横の比は白金比に似ていた。また、鏡は円形になっていた。    この時代で出てきた白金比はまだ技術がともなわっていなかったもしくは銅鐸の比から始めに日本で使われた比となる。この銅鐸の元は朝鮮半島や中国の小銅鐸からとなっている。(ネットと「銅鐸日本文化」より)やはり小銅鐸も調べたところ白金比と似た比となっていた。これより白金比は朝鮮半島から銅鐸を通してやってきたと僕は考えた。  小銅鐸(例)    銅鐸(例)     銅鏡(例) 3).古墳時代  この時代は主に古墳である。古墳は円形、正方形、前方後円形の3つが主な形になっている。その中の円形、正方形はもちろん縦横の比は1:1となっていた。そして前方後円形の一番長い部分の縦と横の比は僕が調べたところ2つのタイプに分かれていて1つは約5:8の黄金比に近いもので、2つ目が約5:7の白銀比1に近いものであった。  おおよそ3世紀後半から6世紀半ば頃までの期間を指す。多数の小国家に分かれていた日本には、この頃から強大な権力をもった王権が成立する。この時代を代表する遺物は、時代の名称にもなっている古墳、その中でも前方後円墳である。既に弥生時代から西日本を中心に墳丘墓が営まれていたが、3世紀後半頃から大和盆地を中心に前方後円墳と称される日本独特の形式の大規模な墳墓が営まれるようになった。奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳は最初期の古墳と言われている。こうした大規模な土木工事が可能になったということは、技術の発達と共に、多くの労働力を使えるだけの権力をもち、広範囲に支配を広げた王権の成立を意味する。5世紀には大阪平野を中心にさらに大規模な前方後円墳が営まれた。大阪府堺市の大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)はその典型的な例である。古墳は7世紀に入っても築造され、地方によっては8世紀まで造られているが、仏教公伝の年とされる538年頃を境に、それ以後を飛鳥時代、以前を古墳時代と呼んでいる。この前方後円墳の2つのタイプ分けは僕が勝手に黄金比や白銀比1に比が似ていると思い、決めたものだ。この時代の歴史からみてみると、美しい比が新しく外国から来たとは考えにくい。よって古墳を作る際の技術士が最も美しい形を求めているうちにこの2つの比率の古墳ができたのだろうと僕は考える。   古墳(例)                          3)飛鳥・奈良・平安時代  この時代は仏像と寺や神社について調べた。まず仏像はあぐらで座っている物ほとんど調べてみると縦横の比が1:1となっていた。そして、片足を組んで座っている仏像の座高と座っているものの高さを比として比べてみたところ、ぴったり白銀比1と同じものと白金比と同じものの二種類があった。そのうえ、立っている仏像の高さと台座の横の長さの比は青銅比とぴったり同じとなっていた。そして寺や神社については、まず最初に目に入る門についてを調べてみると、正面からの縦と横の比は白銀比2とほぼ同じになっていた。また飛鳥時代で有名な5重の党も縦と横の比を調べてみると白銀比1とほぼ同じになっていた。また美術史上の区分では、法隆寺が焼亡した670年、ないし天武天皇即位の年である673年から、794年の平安遷都までを奈良時代とすることが多い。この場合、平城遷都の710年を境として、それ以前を奈良時代前期(または白鳳時代)、以後を奈良時代後期(または天平時代)と称する。時代の終期については、長岡遷都の年である784年とする見方もある。710年の平城遷都に際し、当時飛鳥にあった法興寺(元興寺)、大官大寺(大安寺)、薬師寺、厩坂寺(興福寺)などの寺院はこぞって新京へ移転した。また、新京には東大寺、西大寺、唐招提寺などが新たに建立された。時の政権は仏教を厚く保護し、寺院の造営、仏像の造立、経典の書写などは国家の事業として実施された。中でも聖武天皇は仏教に深く帰依し、東大寺に大仏を造立し、また各国に国分寺・国分尼寺を建立することを命じた。平城京に都があった時代の文化は、年号から「天平文化」と呼ばれ、国際色豊かな仏教文化が栄えた。東大寺の倉庫であった正倉院の宝物は聖武天皇の遺愛品を中心とする8世紀美術の宝庫で、日本製品とともに唐からの舶載品を数多く所蔵する。天平時代は華やかな時代というイメージがあるが、一方で天災、凶作、権力者同士の抗争などが相次ぐ不安定な時代でもあった。  このあたりの時代では百済の滅亡などによって、大陸からの仏教の教義の流入も相変わらず多く、前時代に比べると仏像の種類が若干増加してくる。仏像ももとは人体である以上、仏像も人間の持つ正しいプロポーションにだんだんと近づいてくるようになった。初唐文化の影響を受けてインドや南アジアの文化の影響が見られる仏像も存在する。仏像や建物に同じ比がよく現れてくるようになってきていた。そして天平時代に仏像彫刻は一つのピークを迎える。雑部密教などの流入により、仏像の種類が増えたことや、従来の木造、金銅造に加え、石造、乾漆造(脱活乾漆・木心乾漆)、塑造などの多様な技法によって多くの仏像が作られるようになった。これは国家権力をバックにした仏教そのものの進展によるところが大きい。造寺、造仏が国家的事業として営まれていたためで、この時代から仏教、仏像の地方波及も始まった。また、平安時代では桓武天皇による平安遷都により、前時代までの「国家仏教」という考え方が見直され、国家と仏教の切り離しが進み、造仏活動に国家の庇護が得られなくなった。そのため、高価な乾漆像や保存に問題のあった塑像が作られなくなり、木彫仏が徐々に増加してくる。一方、平安時代の初め、最澄と空海が唐から密教を持ち帰ったことにより、仏教そのものの持つ世界観が大きく転換した。この時代の仏像はこの密教の経典に基づいて造られた「密教派」、また、この時代に唐突に出現した「革新派」、そして前時代からの系統を受け継いでいた「保守派」の三派に分類される。その後、この三派は三つの系統それぞれの特徴を併せ持つ「中道派」に一本化され、和様彫刻の原型となる。つまりこのあたりの時代から仏像や建物を設計することに関しての文化がしっかりしてきたということだと僕は解釈した。今までに出てきた比は、1:1、白銀比1と2と3、そして青銅比が出てきているが、まだ黄金比は出てきていない。このことから、昔の日本人は白銀比が一番美しいと考えていたようだ。 仏像(例) 薬師寺東塔 3)鎌倉・室町時代                                                                       どちらの時代も前の時代とあまり変わらず、座っている仏像の縦と横の比は白銀比1や1:1が多くなっていた。また立っている仏像は青銅比や白銀比2となっていました。建物も白銀比や白金比が多く作られていた。

鎌倉時代になり、国家権力が貴族から武士に移行すると、仏像の発注先は院・貴族から武士階級に移っていった。仏像の様式も武士の気風に合わせたような荒々しいもの、力強いものが好まれ、慶派を中心とする仏所(工房)によって、次々と造られていった。その血管一本まで忠実に再現しようとした鎌倉新写実は単に仏像としてではなく、人間の像としても完璧な造形を誇っており、より庶民的なものになった鎌倉時代の新しい仏教の信仰と結びついて、武士階級だけでなく庶民層にも親しまれるような像が増えていった。また、中期以降、鎌倉を中心に「宋朝様」という中国伝来の様式を持つ仏像も作られている。そして平安時代の定朝に端を発し、鎌倉時代の運慶・快慶をもって、リアリズム的な仏像彫刻技術は最高潮に達した。これ以上進歩の仕様がないところまで発達してしまった以上、この室町以降の仏像彫刻は前時代以前の仏像様式の踏襲にすぎず、見るべき仏像は少なかった。また、仏教に対する考え方が「仏像を拝み、経典を読む」というようなものから、「名号(『南無阿弥陀仏』というようなもの)を唱えるだけでよい」という考え方に移っていったこともあり、仏像が以前ほど大量に必要にならなくなった、ということも考えられる。とはいえ、現存している仏像彫刻の数としては室町・江戸期のものがはるかに多く、運慶の後裔を自称する仏師たちが各地の寺院の仏像を造立、あるいは大寺院の仏像の修理などを行っている。

 また、平氏滅亡の年であり、源頼朝によって全国に守護地頭が設置された1185年を鎌倉時代の始期とすることが多い。1180年には平重衡による南都焼き討ちで奈良(南都)の2大仏教勢力であった東大寺と興福寺が炎上したが、このことは美術史上、象徴的な事件であった。焼失した東大寺の大仏と大仏殿、興福寺の堂宇や仏像は直ちに再建計画が進められたが、大仏と大仏殿の再建担当者に任じられたのは渡宋経験のある俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)であり、彼によって宋から伝来の新建築様式の大仏様が導入された。また、東大寺や興福寺の仏像再興には、康慶、運慶、快慶ら慶派を中心とする仏師が登用された。この時代の前期には引き続き院政が行われていたものの、政治・文化の中心は次第に鎌倉へ移っていった。平氏は華麗な「平家納経」を残したことでも分かるように、一面で貴族文化に憧れをもっていたが、代わって政権をとった源氏は純然たる武家であり、美術の主要な享受者も前時代の貴族から武士へと移っていった。この時代には栄西、道元らの入宋僧によって日本にも本格的な禅宗が伝わり、比叡山などの旧仏教の圧迫を受けつつも、徐々に勢力を伸ばしていった。13世紀に京都の建仁寺建立を皮切りに、鎌倉にも建長寺、円覚寺などの本格的な禅寺が建立された。 禅宗様(功山寺仏殿) 4)江戸時代

徳川家康が征夷大将軍に任ぜられたのは1603年だが、美術史上の区分では、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川幕府の支配体制が確立した1615年を桃山時代と江戸時代の区切りとすることが多い。この時代の美術は多様化し、その性格を一言で言い表すことは困難であるが、古代・中世の美術が宗教(仏教)中心であったのに比べ、著しく世俗化の傾向が強まった。この時代は世情が一応安定し、2世紀以上にわたって大きな戦乱も無く、庶民の生活レベルも、それ以前の時代に比較すれば向上していた。そのため、美術の享受者層も増大し、寺社、公家、武家などに加え、裕福な町人層が有力なパトロンとなった。さらには、同じ作品を複数生産できる版画という方式の流布により、浮世絵のような町人の手に届く芸術が生まれた。文化の中心は上方(京都・大阪)と江戸に二分される。幕府開設当初、江戸の地はひなびた場所であり、上方が文化の先進地域であったが、やがて諸国の人材が集まる江戸に美術の担い手が集まるようになった。各地方においても陶磁、漆工芸など独自の工芸品が生産されるようになった。


江戸時代中期には円空・木食という行者系の僧侶によって特殊な仏像が全国に残されている。円空・木食の仏像は特殊なため当てはまる比がなかった。

円空・木食の作品

Ⅲ結論  今回僕は日本の歴史と比の関係を調べていった。旧石器時代から調べていったところ、縄文時代にはアクセサリーとして1:1、つまり円形のものを作っていたことが最初に見つけた比となりました。縄文時代の頃から1:1(円)は美しいとされてきた証拠となります。その後この1:1という比はどの時代の座っている仏像にも使われいた。そして1:1以外の比が現れ始めたのが弥生時代で祭器に現れてきていた。つまり銅鏡や銅鐸のことである。銅鏡は円形で銅鐸は白金比となっていた。ということは今、日本人に慕われている白銀比(大和比)よりも先に白金比が先に現れたということになる。しかし銅鐸は朝鮮にもあり、海を渡ってきた比であると考えられる。仏教の時代になっていくと仏像や神社などに白銀比や青銅比、白金比がとてもよく使われている。しかし黄金比だけは出てこなかった。  室町時代あたりになってくるとヨーロッパなどから芸術品などが来たためか、黄金比の日本美術品が現れ始めた。そして戦国・江戸時代ときて黄金比が良く見られてきた。  またほかの国についても調べて今回の結果と合わせてみたいと思った。 参考文献

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