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利用者:Agresti20062000

火除天満宮

鎮座地 京都府京都市下京区寺町通四条下る貞安前之町613番地 主祭神 菅原道眞公

【火除の由来】 明治を目前にした元治元年(1864年)、御所蛤御門前に端を発した長州軍と会津・薩摩等の幕府連合軍との戦闘により京都市中は大火に見舞われた。所謂これが「蛤御門の変」で、罹災の規模は、消失町数811ヶ町、家数27,513戸と記録されている。ところが、不思議なことに当神社の南一町程の寺や民家は類焼を免れたと言い残されており、「火除」の名の所以と思われている。この時、境内地に屹立する大樹「オガタマの木」が水を噴いたという逸話がある。また、明治以降も当神社近辺は両三度に亘り火災に見舞われたが、その都度近隣と共に類焼を免れ今日に至っており、「火除けさん」の名で親しまれている通り、遠隔地からも篤い信仰を集めて止まない。本殿正面の石鳥居には、「天保六年」の銘があり大火を目の当たりにした証人だろうが黙して語らず、真実は過去の暗冥の裡にあると謂えようか。

【歴史】 当神社の歴史は、遠く戦国時代まで遡ることができる。即ち、天正7年(1579年)一人の老神官が九州筑紫国(現福岡県)大宰府から、菅原道眞公の尊像を背負い同地で多発した兵乱を逃れ入洛、初め六條街に鎮座されたことがその始まりとされる。天正の時分は戦国時代真只中で、野心ある大名達がそれぞれの版図を広げんがため攻防に明け暮れており、恐らくは大宰府辺りも動乱が多かったのではないかと推測される。「六條」とは今も残る六条通と思われるがその通りのどの辺りに位置したのか、残念ながら知ることができない。 天正15年(1587年)、正親町天皇の勅命により、当時洛中で学徳兼備の評判高い貞安上人が現在の烏丸御池の西北付近に、本能寺の変で非業の死を遂げた織田信長、信忠親子の菩提を弔うため大雲院を開創、その折如何なる経緯からか鎮守社として鎮座された。 次いで天正18年(1590年)、豊臣秀吉は聚楽第や方廣寺大仏殿等の造営、大規模な御所の修築に続いて「町割り」といわれる街区の再編成を強行した。京都の景観にとっては「平安京」時代以来の大きな変化といわれているが、この時前出の大雲院も寺町四条下るの地に移り、当神社も同時にこの地に遷座、慶長2年(1597年)一社建立成り遷座の御祭儀修行と記録されている。

【御神徳】 菅原道眞公をご祭神とする「天満宮」各社は、学問成就の神様として広く信仰を集めており当神社も同様であるが、その由来の通り「火除、厄除け」の神様としても広く厚い信仰がある。

【年中行事】 歳旦祭 元日 節分祭 2月初旬 梅花祭 2月25日 例 祭 5月25日 大祓式 6月30日(夏越の祓え) 火焚祭 11月25日 大祓式 12月31日(師走の祓え)

月次祭 毎月25日