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上谷ヶ貫村富士浅間講中遭難供養の石地蔵尊
概要
[編集]1707年12月16日の富士山の宝永大噴火が起こった。 この大噴火により噴火口から約12キロメートル東方に位置する須走村も火山弾の直撃を受け、全村壊滅となった。[注釈 1]この須走村は富士須走登山道の起点であり、富士登山者のための御師の宿坊や神官屋敷が立ち並ぶ宿場町であった。本事件は金子郷上谷ヶ貫村[注釈 2]の人達が富士浅間講中この宿場町で大噴火に巻き込まれ、全員が遭難となったものである。 この遭難者を悼んで村では上谷ヶ貫東西の墓地に大(西方墓地)小(東方墓地)2つの石地蔵尊を祀ったものである。
所在地
[編集]埼玉県入間市上谷ヶ貫
遺構・遺物
[編集]宝永大噴火による上谷ヶ貫村富士浅間講代参者遭難の冥福を祈り、上谷ヶ貫東西墓地に石地蔵尊が建立され、現在も残っている。また石地蔵尊の風化損傷を防ぐため堂宇が建設された際、石地蔵尊および堂宇建設の由来書が残っている。
地蔵堂建立の由来
当時 元禄宝永年間上谷ヶ貫村に富士浅間講あり
講中より毎年諸祈願のため代表者数名浅間神宮に代参す
遇々(たまたま)宝永四年富嶽登頂の際 宝永山の噴出あり 多数の犠牲者と武蔵相模駿河各地方に大被害を蒙り
徳川五代将軍綱吉 被害地救済対策のために金四拾九萬両を據出す
当村の代参者数名(人員不詳)も遂に不帰の客となる 如何に天災と雖も代参者各位を失ひ その死は多くの人々を感激せしめ
その精神上に多大の感化を与えたことは大いなる遺徳であり翌宝永年五閏戌子(つちのえね)年八月
上谷ヶ貫惣村(そうそん)中 相謀りて東西両墓地 霊峯富嶽を背景の位置に石地蔵堂を建立し
懇(ねんごろ)に法要を営む 尚貮(二)堂像の創作形態大小異なるものを常とす
爾来貮百七拾有余手間寒来暑往 風雪風雨に堪え衆人の崇敬と香華の絶えることなくして今日に至る
茲(ここ)に有志各位の 温情喜捨 寄進により堂宇の創建成り而も本年 弘法大師入定壱千百五拾年御遠忌に当り 落慶式典亦以て銘すべきであり
巷中檀徒一同 謹而(つつしみて)菩提の冥福を祈念し合掌す
昭和五拾九閏甲子(きのえね)年拾貮月吉日
注釈
[編集]参考資料
[編集]- 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会著 「1707富士山宝永噴火報告書」2006年3月 第2章宝永噴火の推移と噴出物
- 比留間一男著・発行 村誌百三十年「上谷ヶ貫村誌考」 2008年(平成20年)7月1日発行