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利用者:Awakko/作業場1

作業場[編集]

ケンブリッジ・ファイブまたはケンブリッジ5人組( - 5にんぐみ、英語: Cambridge Five)とは、第二次世界大戦中から 冷戦時代にかけてイギリスで活動したとされるキム・フィルビードナルド・マクリーンガイ・バージェスアンソニー・ブラントジョン・ケアンクロスの5名のソヴィエト連邦(ソ連)の職業的諜報員(スパイ)のことを指す通称。

この5名がいずれもケンブリッジ大学出身者であることから、この通称が付けられた。ただし、5人組のうちフィルビー、マクリーン、バージェスおよびブラントの4名についてはソ連のスパイであったことが完全に特定されているものの[1]、ケアンクロスについては有力視こそされているが、未だ完全には特定されていない。この残る1名については、ケアンクロス以外にも亡命した元KGBの諜報員の証言などから複数の人物が浮上しており、この残る1名は「5人目の男」(“fifth man”)と称される(詳細は後述)。

フィルビーら完全に特定されている4名、またケアンクロスら「5人目の男」として疑われている人物の多くは、イギリス情報局秘密情報部(通称:MI6)、あるいはイギリス情報局保安部(通称:MI5)のエージェントとして活動したり、外交官として勤務した経歴を持つ人物であり、いわゆるイギリスとソ連の2重スパイ(ダブル・エージェント)であった。彼らは第二次世界大戦中からスパイ活動を開始し、少なくとも1950年代初めまでの期間、イギリス政府などの内部情報をソ連に流す任務に携わっていたとされる。また、彼らは第二次世界大戦中には、ソヴィエトの偽情報ナチス・ドイツに流す任務にもあたっていたと考えられている。

なお、この記事ではより日本語的な表現である「~人組」の表現を用いることとする。

ケンブリッジ5人組のメンバー[編集]

完全に特定されている4人(いわゆる「ケンブリッジ4人組」)[編集]

正式な名前(フルネーム)は、ハロルド・エイドリアン・ラッセル・フィルビー(Harold Adrian Russell Philby)[2]。5人組の中心的メンバーであり、コードネーム(暗号名)は「スタンリーStanley)」。父は外交官などとして活躍し、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード初代サウジアラビア国王とも親しい関係にあった著名なアラビスト(アラブ関係の専門家)のセント・ジョン・フィルビー。ケンブリッジ大ではトリニティ・カレッジで学んだ。MI6に加入後は、第9課(対共産主義・対ソ連関連の任務を担当)課長や在トルコ・イギリス大使館の1等書記官(実際の任務はMI6トルコ支局の支局長)、在アメリカMI6代表などを歴任。
フルネームは、ドナルド・ドゥアート・マクリーン(Donald Duart Maclean)。コードネームは「ホーマーHomer)」。スコットランド系の名家の出身で、父は自由党党首代行や教育大臣を務めた政治家サー・ドナルド・マクリーン。ケンブリッジ大ではトリニティ・ホールで学んだ[4]
フルネームは、ガイ・フランシス・デ・モンシー・バージェス(Guy Francis De Moncy Burgess)。コードネームは「ヒックスHicks)」。父はイギリス海軍中佐であり、バージェスも一時期海軍軍人を志し、2年間にわたって海軍兵学校に在籍していたが視力の悪さのために断念。その後ケンブリッジ大に入学し、フィルビーと同じトリニティ・カレッジで学んだ。また、ケンブリッジ在学中の1932年にはケンブリッジ使徒会へ入会[5]、ここでアンソニー・ブラントと出会う。卒業後はタイムズ紙やBBCで記者として働いたり、MI5で戦争用プロパガンダ制作に関わったのち、1944年外務省入り。外務省では当初報道部に入り、その後クレメント・アトリー内閣において外務担当閣外大臣[6]を務めていたヘクター・マクニール庶民院(下院)議員の秘書となる。また、1947年には在米イギリス大使館の二等書記官としてワシントンD.C.に派遣され、この時はフィルビーの家に居候していた。
フルネームは、アンソニー・フレデリック・ブラント(Anthony Frederick Blunt)。コードネームは「ジョンソンJohnson)」。父はイングランド国教会牧師。また、母方の家系を通じて王族とも遠縁関係にあった[7]。ケンブリッジ大では、フィルビーやバージェスと同じトリニティ・カレッジで学び、また1927年には後にバージェスも加入することになるケンブリッジ使徒会へ入会している。ケンブリッジ大では当初数学を専攻し、学位も得ていたが、のちに現代語学に専攻を変更、1930年第1級優等学位を得て卒業し[8]フランス語教師となる。その後1932年にケンブリッジ大へフェローとして戻り、今度は美術史に関する研究を行う。

脚注[編集]

  1. ^ この4名は特に“ケンブリッジ・フォー”または“ケンブリッジ4人組”(Cambridge Four)と称されることもある。
  2. ^ 通常用いられる「キム」(Kim)というのはニックネームで、ラドヤード・キップリングの小説『キム』(邦訳本では『少年キム』)の主人公であるアイルランド人の少年キムにちなんだものである。
  3. ^ 「マクリーン」と読まれることも多い名字の“Maclean”の部分の発音記号は(/məˈkleɪn/;)となっており、すなわち「マクリーン」よりも「マクレイン」もしくは「マクレーン」と読む方がより原音に近い。
  4. ^ フィルビーが学んだトリニティ・カレッジとは名称は似ているが、全く別のカレッジである。
  5. ^ 1820年に、後にイングランド国教会においてジブラルタル大主教を務めたジョージ・トムリンソンによって結成された秘密結社。毎週1回、土曜日の午後に集会が開かれ、集会では、1人のメンバーがあるトピックについて基調となる講義を行った後、そのトピックについて軽食(トーストサーディン)をとりながら自由に議論するというのが慣例的なスタイルとされている。詩人のアルフレッド・テニスンや経済学者のジョン・メイナード・ケインズもこの会のメンバーであった。
  6. ^ 閣外大臣は、中央省庁の長として内閣を構成し、閣議に出席する通常の大臣(上級大臣と呼ばれることもある)とは異なり、閣議には出席しない。閣議に出席しない無任所大臣や日本で言うところの副大臣に相当する役職が、この閣外大臣に分類される。外務担当閣外大臣は、外務大臣(当時,現在は外務省と英連邦省の統合に伴って、外務および英連邦大臣に呼称変更されている)の下位にあたる役職で、日本で言うところの外務副大臣に相当する。
  7. ^ ブラントの母、ヒルダ・ヴァイオレット(旧姓はマスター,Hilda V. Master)はインドマドラスへ文官として赴任していた経歴を持つジョン・ヘンリー・マスター(John Henry Master)の娘である。さらに血筋をたどると、ジョン・ヘンリーの母であるフランシス・メアリー・スミス(Frances Mary Smith)は、庶民院議員も務めたジョージ・スミスの長女であり、ジョージの長男で、フランシス・メアリーのにあたるオズワルド・スミスは、クロード・バウエス=ライオン (第14代ストラスモア伯爵)の母であるフランシス・ドラ・スミス(Frances Dora Smith)の父である。第14代ストラスモア伯は、ジョージ6世国王の王妃で、エリザベス2世女王の母后であるエリザベス・バウエス=ライオンの父であるので、すなわちブラントはエリザベス王妃とは8親等の親族、みいとこの関係にあたることになる。
  8. ^ イギリス(イングランド)の学位制度では、学士号について優等学位(honours degree)と普通学位(ordinary degree)の2種類の学位があり、前者は成績優秀者に与えられる。さらに、優等学位には成績によってより詳細な区分がなされており、第1等優等学位(First-Class Honours)、第2等上級優等学位(Second-class Honours, Upper Division)、第2等下級優等学位(Second-class Honours, Lower Division)、第3等優等学位(Third-Class Honours)に分けられる(いずれも定訳はなし)。詳細は日本語版の学位、および英語版のイギリスの大学における学位の等級区分の各記事の当該箇所を参照されたい。