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ドメニコ・マリア・ノヴァーラ (Domenico Maria Novara、1454年 - 1504年)はイタリアの天文学者。また――当時としては有り触れたことなのだが[1]――おそらく経済的な理由からなのであろうが、占星術師でもあったらしい[2]。1454年、イタリア北部のフェラーラ[3]出身。そのため、フルネームをドメニコ・マリア・ノヴァーラ・ダ・フェラーラ (Domenico Maria Novara da Ferrara)ともいう。また、ドメニコ・マリア・ディ・ノヴァラ[4] (Domenico Maria di Novara)ということもある[5]。1504年、ボローニャ[6]にて没。

ノヴァーラは、死後になってから、コペルニクスに天文学を教えたことから有名になった。彼はボローニャ大学で21年間にわたって天文学教授を務めた。そこに若きコペルニクスが入学してきたのである。コペルニクスは当初、ノヴァーラの元で教えを乞う学生だったが、後に研究仲間として助手を勤めるようになった。ノヴァーラは、かつてゲオルグ・プールバッハに師事していたことがあったため、自らの教師を当時著名な天文学者だったレギオモンタヌスと公言してはばからなかった[7]

ノヴァーラの著書は、大学に寄稿した天文暦[8]を除いて、その多くが散逸してしまった。それでも、ノヴァーラの死後だいぶ経ってから[9]出版されたコペルニクスの 『天球の回転について』De revolutionibus orbium coelestium において、1497年3月9日にコペルニクスが行った最初の天体観測[10]の証人としてその名が記録されている。

ノヴァーラとコペルニクスは両人とも 「心と魂の開放」 を表明しており、ノヴァーラはプトレマイオスの 「揺るぎ無い確固たる」 地球中心説の揺らぎを見つけたと信じていた[11]


[訳注]
  1. ^ この挿入句は英語版の翻訳原文のものであり、事実である。類例として、ガリレオケプラーを挙げることができる。
  2. ^ この 「おそらく……らしい」 というのも、翻訳原文の執筆者の見解である。だが、訳者としてはこの見解には同意しかねる。
  3. ^ イタリアのコムーネの一つ。エミリア=ロマーニャ州フェラーラ県県都
  4. ^ イタリアのコムーネの一つ。ピエモンテ州ノヴァーラ県の県都。
  5. ^ 『コペルニクス・天球回転論』(164、177頁)ここでは訳者の高橋憲一氏に従って 「ノヴァーラ」 ではなく 「ノヴァラ」 とした(本来であれば、表記の統一が望ましい)。
  6. ^ イタリアのコムーネの一つ。エミリア・ロマーニャ州州都ボローニャ自治県県庁所在地
  7. ^ レギオモンタヌスはプールバッハの弟子としてよく知られている。
  8. ^ Ykosub氏は 「占星術の年表」 と訳しておられる(翻訳原文では“astrological almanacs”)が 「天文暦」 で十分である。主目的が星占にあったのであるから。なお 「天文暦」 は、ノストラダムスが作製していたことでも知られている。
  9. ^ ノヴァーラ没のほぼ40年後になる。
  10. ^ 『コペルニクス・天球回転論』 によれば、「アルデバラン」 だったらしい(164頁)。
  11. ^ 英語版では、この記述に対して出典明示の要請がなされているが、『コペルニクス・天球回転論』 にも同様の記述が見られる(ibid.:「〔ノヴァーラ〕はプトレマイオスの権威を疑問視していたようである」)。Ykosub氏は、その理由として 「黄道傾斜の観測」 と説明しているが、英語版には見られない。Ykosub氏はまた、「コペルニクスの思想に影響を与えた」 とも説明している。これもしばしば言われることだが、『コペルニクス・天球回転論』 では否定されている(177頁:「ドメニコ・マリア・ディ・ノヴァラを新プラトン主義者としたり,イタリア留学中のコペルニクスへの影響を示すこともできない」)。


[参考文献]
  • 高橋憲一 訳・解説 『コペルニクス・天球回転論』 みすず書房、1993年。


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