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椎名秀胤

 椎名秀胤(しいな ひでたね、1851年10月13日 - 1937年4月4日)は、日本の 文筆家・漢文学者・実業家。本名は「椎名秀胤」、筆名・雅号は南浦。海運業などで活躍した明治実業家の一人。  嘉永4年(1851年)10月13日、讃岐高松(現在の香川県高松市)にある石清水八幡宮の宮司・岡田秀高の次男として生まれる。通称を安次郎、始め松浦、のちに筆名・雅号で南浦と称した。『南浦遺集』という書名はこの雅号に由来する[1]

椎名秀胤 (筆名「南浦」)
椎名秀胤 (筆名「南浦」)

 子孫には、実業家で元・日本鉱業株式会社の役員・椎名芳胤、音楽家・文筆家の菊村紀彦らがいる。日本鉱業は新日鉱ホールディングスへと受け継がれ、日立製作所日産自動車を生んだ第二次世界大戦前の新興財閥、日産コンツェルンの源流となった企業の一つであった[2]

経歴

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1851年(江戸時代、嘉永4年)10月13日、讃岐高松(現在の香川県高松市)にある石清水八幡宮の宮司・岡田秀高の次男として生まれる。 通称(幼名)を安次郎、始め松浦、のちに筆名・雅号で南浦と称した。 明治3年8月、高松士藩・椎名家の跡継ぎとなる。 明治中期、境合資会社を設立。実業家として活躍した。 若い時には文芸をたしなんだが、壮年時代以降は実業界に身を投じ、塩業開発や海運業を営み、実業家としても成功し、水産漁業の振興を図った。 1912年(明治45年)4月4日、病没。享年62歳。 1937年(昭和12年)3月10日、椎名芳胤、椎名秀胤(南浦)遺稿集『南浦遺集』を出版[3]

椎名秀胤君之墓

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 1912年(明治45年)、秀胤が病没したあと、生前、秀胤が私財を投じて瀬居島(現在の香川県坂出市瀬居町)竹浦港を築港してくれた恩義に報いるため、秀胤の墓を瀬居に建立することを申し出た。椎名家はこれを快く承諾し、当時としては立派な石墓兼顕彰碑を建立し、椎名家の子孫たちが建立式典に参加した。その中には、当時まだ幼かった椎名重胤 (のちの菊村紀彦)もいた。菊村紀彦は、作家・作曲家であるが、浄土真宗僧侶でもあり、平成時代に居住地の千葉県からこの瀬居町へ訪れ、祖先・椎名秀胤君之墓の墓前で追善供養し、先祖・秀胤の墓と50年ぶりの再会を果たした。これには、地元の大勢の住民たちと、元・坂出市会議員、坂出市議会議長の大前実氏夫妻も立ち会った。地元(瀬居町竹浦集落)では有名な出来事であり、元坂出市議会議長の大前実氏や大勢の住民たちが目撃証人となっている。

椎名秀胤君之墓
椎名秀胤君之墓

 写真は、21世紀現在、実在する椎名秀胤君之墓(しいなひでたねぎみのはか)。この墓の所在地は、〒762-0067 香川県坂出市瀬居町竹浦集落。経緯度=およそ34.357539, 133.854928。


漁業、海運、築港事業

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 秀胤は、たとえば塩飽本島(現在の香川県丸亀市本島町)や瀬居島(現在の香川県坂出市瀬居町)など明治時代の瀬戸内海の島々の水産漁業振興に貢献した。それを裏付ける物的証拠(エビデンス)の一つが、前述の「椎名秀胤君之墓(しいなひでたねぎみのはか)である。これは、同地区に現存する石墓兼石碑であり、この石碑に秀胤の業績が刻み込まれている。以下、その一部を引用する。

「君の姓名は椎名秀胤と言い、南浦と名乗り、高松藩に仕え、王政維新の後、公務を奉じて後、合資会社に入り、業務の中心として本島の漁業に尽力した。理を論じ、損失を見定め、しょっちゅう上京し、陳情した結果、誠意ある真心が本省に伝わった。島人はその努力に深く感謝し、喜んだ。明治四十五年たまたま、病気となり、四月四日遂に亡くなった。享年六十二歳、自らつけた諱は秀徳院釈覚然南浦居士である」[4][5]

外部リンク

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  1. ^ 『南浦遺集』
  2. ^ 渋沢社史データベース https://shashi.shibusawa.or.jp/details_basic.php?sid=190
  3. ^ 『南浦遺集』昭和12年3月10日発行、発行者=椎名秀胤、印刷所=日本印刷所
  4. ^ 『南浦遺集』序文第1ページ~第2ページ。
  5. ^ 『志の道 瀬居』(坂出市立清中学校50周年記念誌)第172ページ~第173ページ。坂出市立瀬居中学校編、2004年、美巧社刊