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利用者:Bigbabey/sandbox

旧菊泉本店別邸
分類 伝統的建造物
所在地
JPN
函館市元町14番地5
座標 北緯41度7分6秒 東経140度7分1秒 / 北緯41.11833度 東経140.11694度 / 41.11833; 140.11694座標: 北緯41度7分6秒 東経140度7分1秒 / 北緯41.11833度 東経140.11694度 / 41.11833; 140.11694
面積 177.22㎡
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旧菊泉本店別邸は、函館市末広町に店を構えていた明治15年(1882年)創業の酒問屋の別邸。大正10年(1921年)建築の木造平屋建て住宅。平成2年(1990年)に伝統的建造物に指定されたのを機にリノベーションを行い、現在は茶房として営業している。

概要

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旧菊泉本店別邸の敷地は、函館市の観光エリアの一つである西部地区・元町エリアの中にあり、旧函館区公会堂から八幡坂に向かう散策コースのほぼ真ん中に位置している。テレビアニメのラブライブ!サンシャイン!!の登場人物の実家に設定されてからは、従来からの観光客に加え、アニメファンの見学も増えている。


  • 所在地:函館市元町14-5
  • 外観:和風平屋建の妻入り建物。妻側を正面に見せる建物は大変珍しい。また、旧菊泉本店の立体看板が再現され、玄関上部に設置されている。
  • 敷地面積:177.22㎡
  • 茶房菊泉の営業開始年月:平成11年(1999年)3月

旧菊泉本店の沿革

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創業

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創業者である初代花井弥吾平は、奈良県明日香村の出身。大阪府堺市にある日本酒 銘酒「菊泉」の醸造元「大塚本家」[1]に勤めていたが、販路開拓の夢を持って明治 15年(1882年)11月5日に明日香村岡を出発、酒を売りに北海道を目指す。 函館に着くや否や開業準備を始め函館市大町29番地に菊泉堂の屋号で開店。12月7日から3日間開店式を行った。当時は、職や夢を追い求めて全国から開拓地北海道に向かう時代。初代弥吾平は、商売が軌道に乗り始めると弟の幸吉を函館に呼び寄せた。その幸吉が店を継ぎ二代目弥吾平の頃商売も拡大、明治24年(1891年)の 盛商番付表では酒問屋として唯一前頭で番付入りした。しかし、兄の初代弥吾平の 死を追うように明治26年(1893年)、27歳の若さで逝去。息子信光が幼少5歳の頃のこと。大塚本家は、係る状況を鑑み大塚本家本店員の林豊三郎を後任に選び 訪函を命じた。

繁栄

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林豊三郎は、当店の事業全てを譲り受け明治29年(1896年)、函館市末広町にて菊泉林豊三郎商店(菊泉本店)として経営を始める。この店の特売品は、商号にもなっている菊泉をはじめ、菊正宗や金露のほか日本酒銘酒各種、洋酒、醤油、味噌などの一手販売を開始。特に明治40年(1907年)以降は販路がうなぎ上りに拡大、釧路支店、小樽支店も開業させ北海道は勿論、遠くは樺太にまで輸出を行い函館屈指の 酒問屋として信用を集めた。店主、林豊三郎のすば抜けた経営手腕と誠実を理念 とした商業道徳が繁栄をもたらしたと言えるが、その人望が買われ函館酒問屋組合の創立以来組合長に挙げられた。函館区[2]への納税番付も二十位となり、函館区財政に 貢献した。

合名会社設立

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息子信光は、父である二代目弥吾平を襲名。三代目花井弥吾平として大正7年 (1918年)「林合名会社」を設立、自ら代表社員となり花井家に経営を戻す準備を始めた。林豊三郎46歳、花井弥吾平30歳の時のこと。出資者は弥吾平の他、母の 林栄[3]そして異父兄弟で釧路支店長の林新次郎という顔ぶれで設立された。

廃業

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昭和12年に日中戦争が始まると食糧事情も厳しくなり、酒造原料米も制限され、 生産される酒の量も年々減少。昭和18年には戦争の激化に伴い、酒も配給制として生産から消費まで統制するようになった。菊泉本店の酒の取扱量も激減したことで 営業が成り立たなくなり昭和19年(1944年)廃業した。

復元

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戦後、別邸だけが残り花井家の住居として利用されていたが、平成2年(1990年)に伝統的建造物に指定されたのを機にリノベーションを行った。和風建築の風情を 活かすため和室には囲炉裏を設置、書斎を大正ロマン漂う洋室に改修するなど和洋 両方の風情を同時に楽しめる空間となっている。更には菊泉本店の面影を醸し出す
ために、当時の立体看板を復元し玄関上部に設置するなどの工夫が施されている。

旧菊泉本店別邸

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  • 概要:大正10年(1921年)に建築された建物で、住居としては珍しい「中廊下型」のプランで、表から裏まで通り抜けられるようになっている。元々別邸は、
旧函館区公会堂近くの元町13番地にあったが、大正10年の函館大火により
焼失したため、現在の14番地に新築した経緯がある。
  • 特徴:屋根を切り妻造り、外壁は腰壁部分と妻壁分の下部にささら子下見板張り、
竪繁格子の横長出窓を配し、玄関の袖壁と妻壁は漆喰塗り、側面を南京下見
板張りに仕上げている。また、妻側を正面に見せている和風平屋建ての建物は
この辺りでは数少ない貴重な建物である。

花井家家系

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花井家は、明和元年(1764年)奈良県明日香村岡で生まれた花井弥右エ門を 始祖とする。弥右エ門から数えて四代目の弥吾平が函館に渡り「菊泉堂」を創業した。創業者である初代弥吾平は、俳人としても名を馳せ、俳号は菊仙。商売の
傍らで俳句を嗜んだ。弟の幸吉(後の二代目弥吾平)が急逝した後、妻の[4]は
林豊三郎と再婚。豊三郎との間に生まれた二女千代子は、当時漁網問屋[5]だった 秦家の秦理四郎に嫁ぐ。当時秦家と、明治の文豪島崎藤村を生んだ島崎家とは 縁戚関係にあった[6]。その縁が手伝って、島崎藤村の次男で画家の島崎鶏二と花井家とは、絵画を通じて昭和の頃まで交流があった。

茶房菊泉 

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平成2年(1990年)、函館市から伝統的建造物に指定された。この建物を、 多くの観光客が供覧できるようにするためリノベーションを行った。中廊下
右側の和室は当時の別邸の趣きを残す形。左側は洋室及びカウンターに改装され、大正モダンの風情が楽しめる空間となっている。外観では、菊泉本店当時の立体看板を復元した玄関上部が目を引く。平成11年(1999年)の営業開始当初は、資料館とお休み処を兼ねた施設としてスタートしたが、現在は茶房として豆腐 白玉ぜんざいなどの甘味メニューのほか、北海道の家庭料理のくじら汁その他 軽食など、今やメニューも充実。従来からの国内観光客に加え、特徴的な外観に関心を持って来られる訪日外国人、聖地巡礼の一つとして訪れるアニメファンの方々など、訪問客の層も広がりを見せている。

アクセス 

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  • 函館市電末広町駅下車徒歩5分
  • 函館バス元町下車徒歩5分
  • 函館バスロープウェイ前下車徒歩6分
  • 函館帝産バスホテルWBFグランデ函館前下車宝来町下車15分

脚注

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  1. ^ 明治初年から大正初期まで、大阪府堺市の中で製造業第一位を誇っていた のは酒造業であり、かつて灘地方に次ぎ酒造りが堺でも盛んだった。著名だった堺の銘柄として金露 都菊 沢亀 東洋一 菊泉など。初代花井は菊泉の醸造元の大塚本家に勤め、その菊泉を函館に持ち込んで独占的に販売した。
  2. ^ 現在の函館市。明治12年(1879年)の郡区町村編制法施工により設置。大正11年(1922年)に市制が施行されるまで存在した。
  3. ^ 旧姓花井。二代目花井の妻、三代目花井の母。二代目急逝後林豊三郎と再婚。
  4. ^ 旧姓花井。二代目花井の妻、三代目花井の母。二代目急逝後 林豊三郎と再婚。
  5. ^ 現在の秦商事
  6. ^ 森本貞子著「冬の家-島崎藤村夫人・冬子-」に両家の系図が記載。

参考文献

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  • 富の函館社「富の函館」 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 森本貞子「冬の家-島崎藤村夫人・冬子-」株式会社文芸春秋 1987年。
ISBN 4-16-341720-6
  • 中井正弘『堺意外史』 ホウユウ株式会社 出版部

外部リンク

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