コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:Brianchaninov/sandbox

聖イグナティ・ブリャンチャニノフ


 1807年2月5日(露暦)、ロシアの貴族ブリャンチャニノフ家の領地・ヴォログダ県グリャゾベツキー郡ポクロフスコエ村にて、同家の長男として生まれた。受洗時の聖名はディミトリイ。

 ブリャンチャニノフ家は、その始祖にあたるミハイル・ブレンコがモスクワ大公の聖ディミトリー・ドンスコイに仕えていた軍人であり、このミハイルはタタールとの会戦の前日に大公の影武者を買って出て、戦場で命を捧げた人である。このように、始祖の代からブリャンチャニノフ家においては、勇気や篤信という品性が受け継がれてきた。

 ディミトリイ(聖イグナティ)の父であったアレクサンドルは、じつに世俗的な人であった。少年のころサンクトペテルブルクの皇帝直下貴族学校に通いながら皇帝パウェルⅠ世の室内侍従として仕えていたが、のちに地元ヴォログダへ帰郷し、皇室で受けた当代一級の文化的教養を伝える領主となる。父から受け継いだ遺産の大部分は借金返済に宛がうことを余儀なくされたが、美しいポクロフスコエ村の風景とその農民400名が財産として残された。さらにヴォログダ県における貴族会長となり、会長を務めるかたわら自領内のポクロフスコエ村に次々と優雅な屋敷や庭園を造り、さらに生神女庇護聖堂も新築した。高い教養を身につけた上級貴族として、当時の「ヴォログダ県で最も尊敬されていた一人であった」と、孫のA.N.クプリヤノワも書き残している。

 ディミトリイの母ソフィアも、同じくブリャンチャニノフ家の血縁者であり、教養のある敬虔な妻として夫に忠実であった。若い夫婦はしばらく子宝に恵まれなかったため、付近の聖地を巡礼して回ることとなる。そのような熱心な祈りが聴き入れられ、ついに長男ディミトリイを授かったのである。のちに「祈りの秀逸なる実践者及び教師」となった聖イグナティである。

 父親はようやく授かった長男ディミトリイを祖先に恥じない立派な軍人に育て上げたいと望んでいた。そのうえ、時代の最先端をいく領主の一人として啓蒙活動を重視していたため、息子たちには熱心に教育を施した(もちろん、これには世俗的成功を収めて国家の重職に就いてほしいという願いもこもっていた)。そのため、ディミトリイは一流の家庭教育を受けることとなる。一般科目に加えて語学も幅広く修め、幼少期からすでにフランス語、ドイツ語、イタリア語だけでなく、古典ギリシア語やラテン語なども習得してゆく。

いっぽうディミトリイとしては、幼少期から福音書を愛読し、聖人伝に親しみ、ひとりきりで神に祈ることを好んでいた。15歳のとき、聖なる静寂の境地を体験したことがきっかけとなり、ひそかに修道士を志望するようになる。この時期については、自伝的随筆「わが哀歌」の中で次のように回想している。「幼年期は苦難に満ちていた。それは神の御旨だったのである。胸の内を打ち明ける相手がいなかったので、神に向かって胸中を吐露するようになり、福音書や聖人伝を読み始めた。福音書はほとんど理解できなかったが、聖大ピーメン、聖大シソイ、聖大マカリイなどの聖人伝を読んで不思議な感銘を受けた。祈りと読書でたびたび神に思いを馳せていると気持ちが安らぎ少しずつ心の平安を得ていった。15歳のとき、心は言い尽くせない静寂に包まれた。しかしそれが何を意味する静寂なのか理解していなかった。ありきたりの心境だと思っていたのだ」と。

そんな心境とは裏腹に、同年(1822年)の夏、長男の出世を夢見る父に連れられて首都サンクトペテルブルクへ上京し、帝国工学院に入学することになった。その道中、シュリッセリブルクの近くで、父から将来の希望勤務先を問われたとき、じつは修道士になりたいと心の内を素直に打ち明けたが聞く耳を持ってもらえなかった。

 この帝国工学院とは軍事工学を専門とする仕官学校で、当時のエリート教育機関である。ディミトリイは、募集定員30名に対し志願者数130名という高い倍率の入試を首席で合格しただけでなく、豊富な知識を評価されて飛び級で第2学年に編入した。この成績優秀かつ容姿端麗であった青年は、のちに皇帝ニコライⅠ世となるニコライ大公からも寵愛を受け、大公夫人の特待生として支援を受けることとなった。

 ディミトリイは士官学校に在籍中、豊かな才能と高潔な人柄により、教師や同級生の間でも人望が厚かった。また、貴族としての人脈のおかげで帝国芸術アカデミー会長オレーニンとも知り合いになり、オレーニン氏の邸内で催された文学の夕べではよく詩の朗読を頼まれたりした。この夕べにおいて、プーシキンやクルィロフをはじめとする当時の文豪とも親交を結び、天賦の文学的才能が一同の注目を集める。このような交流が、将来の聖イグナティの文筆活動に与えた影響は計り知れない。聖イグナティ自身も一生涯、この夕べにおいて文豪たちからいかに良い助言を得られたことか、感謝の念をもって回想していた。

 この時期の心の葛藤は「わが哀歌」の中で次のように描写している。

「志望したわけではないが、士官学校に入ったのもちょうどその頃である。当時、あえて自分から何かを求めるということはなかったし、できなかった。なぜなら、求めるべき真理をはっきりと見つけていなかったからである。だから学問という陥罪した人知の産物に目を奪われ、学問にすっかり打ち込んだ。宗教的感情など抱く暇はなかった。約2年勉学にいそしんでいると、心の中で恐ろしい虚無感が生じ、いつの間にか増大していた。神に飢え渇き、耐え切れないほど神を懐かしんだ。信仰に怠慢だったことで甘美な静寂を失い、代わりに虚無感を手に入れたと思うと涙を流さずにはいられなかった。この虚無感は私を苦しませ、恐れさせ、まるで孤児になったような、命を失ったような感覚を味わわせた。それは真の命である神から離れてしまった魂の苦悩だった。士官学校の学生服でサンクトペテルブルクの街を歩いていて、目から大粒の涙がとめどなく零れ落ちていた自分が思い出される。(中略)成長して理解力が増したころ、宗教に確かなものを求めた。曖昧な宗教的感情では満足できず、確実なもの、明確なもの、『真理』を求めたのである。当時のサンクトペテルブルクではさまざまな宗教的観念が流行し、互いに対立していた。どれも好きではなかった。信用できないものばかりで敬遠していた。思索にふけりながら士官学校の学生服を脱ぎ、仕官制服を着た。学生服は名残惜しかった。学生服ならば聖堂へ行っても、兵隊や平民の群衆に紛れて思う存分祈り、涙を流すことができたからである。青年ながら、楽しみや遊びどころではなかった。俗世間にはまるで魅力を感じなかった。世の中に誘惑が存在しないと思えるほど、俗世間に無関心だったのだ。実際、私にとって誘惑は存在しなかった。むしろ学問にすっかり没頭していた。と同時に、真の信仰がどこにあるかとても知りたかった。教義的にも道徳的にも誤りのない、真実の教えはどこか。それを知りたくて仕方がなかったのである」と。

 そこで真の信仰を求めて正教会の聖師父を熱心に研究し、「心の祈り」も実践し始めた。晩年、弟子に向かってこう回想していたという。「夜には寝床に横になり、少し頭を枕からもたげて祈り出し、その恰好のまま祈りつづけて朝になり、教室に出向いて授業を受けたこともある」と。また、このころ足しげくアレクサンドル・ネフスキー大修道院へ通うようになった。ある日、長老レオニド師(後に列聖されたオプチナ修道院の克肖者レオ)と出会って強い感銘を受け、かならず世を捨てて修道士になろうという決意が固まる。

 1826年(19歳)、帝国工学院を首席で卒業し、陸軍少尉に任命された。卒業直後、修道院に入ろうとして退官届を提出するが、皇帝ニコライⅠ世に引き止められ、ロシア帝国北西部の要塞へ赴任する。しかし赴任先で重病に罹ったため、ようやく退官を認められた。ただし両親に一切相談せず退官したため、とうぜん両親の怒りを買うこととなる。退官した身の上に対する資金援助はおろか、手紙のやり取りすら断絶してしまった。こうしてディミトリイは着の身着のまま修道院に入ることとなる。使徒が「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(マタイ19:27)といったのと同じ身分になったのである。

 翌27年、修道見習いとして聖アレクサンドル・スヴィルスキー修道院に入り、恩師であったレオニド長老のもとで研鑽を積み始めるのだが、一年もしないうちに移住を余儀なくされる。当時、同修道院は満員だったため、レオニド長老が弟子を引き連れて他の場所へ移るしかなかったからである。一同はオリョール主教教区のプロシャンスカヤ修道院へ移住した(この修道院で聖イグナティは名作「冬の果樹園」を書いた)。しかし、このプロシャンスカヤ修道院での恵まれた生活も長くは続かなかった。同修道院の院長とレオニド長老の間で意見の食い違いが生じたため、レオニド長老はそこを立ち去ってオプチナ修道院へ移住することとなったのである。いっぽう見習いの身分であったブリャンチャニノフとその親友チハチョフも「すぐにここを出て好きなところへ行きなさい」と命じられた。こうして二人の若者は、無一文のまま見ず知らずの土地で路頭に迷うことになる。とにかく最寄りの修道院へと思い、同じオリョール県内にあるベロベレジュスカヤ修道院を目指した(その道中、スヴェンスキー修道院にも立ち寄った。当時、パイシイ・ヴェリチコフスキー長老の弟子であったアファナシイ隠遁僧がいた修道院である)。しかし、このベロベレジュスカヤ修道院では受け入れてもらえなかったため、やむなく放浪の旅を続け、レオニド長老一同がいるオプチナ修道院まで足を延ばした。ところが同修道院長のモイセイ典院にも受け入れを拒否される。あまりにも哀れな姿の二人を見た修道士たちの懇願によって1829年5月、ついにオプチナ修道院で生活することを許可された。

 しかしながらオプチナ修道院では、かつてプロシャンスカヤ修道院で得られたような平穏な日々はなかった。修道院長もよく思ってくれず、修道士からも怪訝に思われたので、ひっそりと二人で暮らすようになった。質の悪い植物油で調理された修道院の食事も、ディミトリイの脆弱な体には応えたので、自分たちで煮炊きすることにした。苦労して穀物や芋を手に入れて、僧房内で不味いスープをこしらえたのである。調理は主にチハチョフが担当したが、食材は包丁が無かったので斧で切り刻んだ。もちろんこのような劣悪な環境下で長らく生活できるわけがない。まずディミトリイが両足で立てないほど衰弱し、より体力のあったチハチョフもほどなくして熱病に伏した。お互いに看病し合った甲斐もなく、とうとう二人とも疲労困憊の極みに達してしまう。 ちょうどその頃、ポクロフスコエ村にいたディミトリイの母も病床に伏した。父から「お前の母が病床に伏して命が危ない。進路の邪魔はしないから帰ってこい」という手紙と移動用の幌馬車が送られてきたので、(父の好意に甘えて親友とともに)実家に帰ったのだが、到着時にはすでに母の病も回復し、父からも母からも期待していたほどの歓待は受けられなかった。

 かくしてこの二人は、方々の修道院をさまよい、さまよった末に病床に伏し、挙句の果てに親の移り気にも見舞われ、とうとう「いっそ修道院なんか諦めて俗世に戻ろうか」という過酷な試練にぶち当たることとなる。というのは、ひと冬だけ暫定的に自領内の離れで各々生活しようとしていたのだが、その間にディミトリイの父が何としてでも長男を国家公務員にしようと必死になったからである。母までも息子の高尚な教えに耳を傾けつつも、やはり父の見解の方を支持し、親戚もそれに加わった。そのような誘惑の渦中にあって息苦しくなり、二人は一刻もはやくどこかの修道院に移住しなければと思うようになる。

 こうして1830年2月、二人はキリル・ノヴォエゼルスキー修道院に向けて旅立った。この修道院には、有名な修行者フェオファン掌院が隠居しており、当時はその愛弟子であったアルカディイ典院が修道院長を務めていた。温和な性格で、救いを求めて駆けつけてきた若者二人に真の修道精神があるのを見出し、温かく迎え入れてくれた。しかしこの喜びも長くは続かなかった。あいにく同修道院が広い湖に浮かんだ島の上にあったため、湿気の多い気候が災いしたのである。じきにディミトリイはこの慣れない環境下にあって倒れ、3か月間も医療援助のない環境下で熱病に苦しみ、とうとう足が膨れ上がって病床から起き上がれなくなった。当地にて熱病がはやる6月、ついに両親が幌馬車を送ってよこし、地元ヴォログダへ帰ることとなる。世捨て人にとってこれほど屈辱的なことはなかった。たしかに実家では治療を受けることができたが、重度の熱病による後遺症は一生消えなかった。いっぽう親友チハチョフも、同年8月にプスコフ県の実家に帰った。こうして二人は、それぞれの場所で、世の誘惑と闘うことになったのである。

 そしてついにディミトリイは、それまで放浪の身を見えない手で守ってくれていた神の摂理により、ヴォログダの主教ステファンから深い理解と共感を得るに至る。時は1831年6月(24歳)、このステファン主教から剪髪式を受けて修道士となり、その名をイグナティと改めた。その翌月には修道司祭に叙聖され、ヴォログダ県内にあるロポトフ修道院の建設監督者(事実上の修道院長)となる。

 人里離れた場所での隠修生活を切望していたのだが、1833年の暮れにはサンクトペテルブルク近郊の聖セルギイ修道院を管理するよう皇帝に命じられ、それと同時に昇叙されて掌院となる。衰退していた同修道院を物質面でも精神面でも復興させ、そこで約24年にわたって修道院長を務めた。この院長であった任期中に、境内には立派な新聖堂を3堂も建立するなど修道院の繫栄に貢献しただけでなく、修道院内で生活する兄弟たちの長老(精神的な指導者)としても活躍し、多くの弟子を育てることにも成功した。後年ロシア各地で修道院を司ることになった逸材を16名も輩出したのである。

 さらに、サンクトペテルブルク主教教区の所管内にある全修道院の管区長に任命され、ワラアム修道院はじめ計8箇所の修道院を巡回指導した。

 1857年10月(50歳)、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂で叙聖されて主教となる。そして翌年1月には「カフカス及び黒海の主教」としてスタブロポリ市に赴任した。ここでは新設されて間もない同主教教区の運営に当たり、振興に大きく貢献した。

 もとより病弱な体質で生涯病に苦しみ続けたイグナティ師は、1861年にはとうとう病気のために引退し、ボルガ川沿岸のババエフスキー聖ニコライ修道院に隠居することとなる。悔改と祈りに専念した遁世生活を送りつつ、これまでに書いてきた作品をまとめて出版用に編集するなど文筆活動にも従事し、1865年から1867年にかけて全4巻の著作集(『苦行的経験』全2巻、『苦行的説教』、『現代修道への献げもの』)を上梓した。その後もやはり筆をおかず、永眠直前に書き上げた「神の裁定」が辞世の大作となった。

 1867年4月16日、復活祭にて最後の聖体礼儀を執り行った後、僧房まで運んでもらわなければならないほど衰弱しきっていた。30分ほど休んでからでないと、昼食も摂れないほどであった。この日、周囲の人たちに「いよいよ死ぬ準備をしなければならないので、もうだれとも会うことはできない。どうか晩祷の後は一人にしてほしい」と公言する。

 人生最期の日々は、どの人のこともかわいそうと思っているかのように、いっそう憐れみ深くなった。病身であるのに、その顔はこの世ならぬ喜びに満ちていて穏やかだった。ある日、世話役の見習い僧が帰る際、伏拝して「どうか、わたしをお赦しください」と言った。そのあまりにも美しくへりくだった姿に、言われた方は心を打たれて涙したという。「どうも地上の事柄に思いを向けにくくなってきた」とこぼし、人々との交流を避けて天に思いを馳せ、すでにこの世に生きていないようであった。同月30日(露暦)に永眠。その顔はこの世ならぬ喜びに輝いていた。60歳だった。埋葬式に参列した人々は、悲しい儀式というよりは教会の祭日に参加したような気分だった。弟子たちも、イグナティ師が生前に語っていた次の言葉を思い出していた。「もし埋葬式に出たときに、悲しいのになぜか嬉しい気持ちにもなったら、その故人が神の憐れみを受けていた証拠だ」と。

 時は巡って1988年、ロシア正教会により成聖者として列聖された。聖イグナティは「敬神家、多数の書を著した作家、高徳の修道士、信仰生活の教師」と評価され、さらに、その著作は「聖師父の教えの本質を深く掘り下げ、聖師父の精神を受け継いでおり、現代の信徒にも読みやすくわかりやすいもの」と高く評価されている(「列聖に関するロシア正教会全国公会決議文」より)。記憶日は5月13日(新暦)。

 不朽体はヤロスラブリ市のトルガ女子修道院に安置されている。