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利用者:Doraemonplus/カテゴリに関する私論

カタロガーの矜持

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岩淵 (1972)目録に関する考察は、カード目録時代の図書館目録に関するものであるが、文中の

  • 「カタロガー」を「カテゴリ編集者」に
  • 「記入」を「項目」に
  • 「資料」を「記事」に
  • 「図書館」を「ウィキペディア」に
  • 「図書館員」を「ウィキペディアン」に
  • 「目録」を「カテゴリ」に
  • 「レファレンス」を「調べもの案内」に
  • 「レファレンサー」を「調べもの案内人」に

それぞれ読み替えて精読すると、さながら現在のカテゴリ系ウィキペディアンを諭している文章のように見えてくるのが興味深い。カテゴリ系編集者にとっては必読の書である。以下、一部を抜粋し、本稿の文脈に合わせ、読み替えて引用する。

自分たちが何のためにカテゴリを作っているのかを考えようともしないカテゴリ編集者や、カテゴリ業務を単なる事務的な仕事としか感じないカテゴリ編集者が多い。このような人たちによって作られるカテゴリが、その機能を効果的に発揮することは難しい。カテゴリ編集者は、カテゴリを作ることによって、自分たちも直接利用者に奉仕しているという自覚と信念とを持たなければならない。カテゴリ編集者が自分の仕事に対してこのような自覚と信念とを持つことができれば、そのカテゴリ編集者はカテゴリ業務についての理念を持つことになる。カテゴリ業務はかなり技術的要素の強いもので、良いカテゴリはこの技術を無視しては作れないが、カテゴリは技術だけではなく、技術の前に philosophy が必要であり、そのためには、カテゴリ編集者が単に技術だけを学ぶのではなく、理念を持たなければならない。

H. D. MacPherson『目録作成の philosophy に関する若干の考察』より[1](一部語句を読み替え)

2000年代に比べれば、ウィキペディアに受入れられる記事の量も比較にならないほど増加し、質も多様化してきている。また同時に、利用者自体も変化してきているといえよう。このようなカテゴリをとりまく社会状況の変化を、十分に認識してカテゴリを考える必要があろう。カテゴリは社会の変化に対応して変化すべきもの、とするMacPhersonの見解は正しいと思う。

岩淵 (1972)より(一部語句を読み替え)

カテゴリは規則を機械的に適用し事務的に作れるものでウィキペディア業務のなかでも重要度が薄れ、誰れでもできる、といった考え方が他の部門からの批判として出されているが、このような無責任な考え方もカテゴリ編集者をますます無気力にし、カテゴリ編集者自身もカテゴリ業務を、単調で終りのない作業のくり返しに過ぎないと考える現象を生じている。かつてカテゴリ編集者は、利用者に、完全なカテゴリを提供するために情熱に燃えてカテゴリ業務に携わってきたが、この情熱と意欲はなぜ現代という社会のなかで消滅して了ったのであろうか。それは、カテゴリ編集者がカテゴリをとりまく社会状況の変化を十分に把握し、これに対応できるような考え方の切かえができなかったことに原因があるように思える。カテゴリ編集者は、カテゴリの運用面から完全に手をひき、自分たちは作る側の立場に立てこもるという道を選んだ。その結果、カテゴリ編集者と調べもの案内人とは、協力よりもむしろ対立的な状況を生ずる傾向が一般的となったようである。

岩淵 (1972)より(一部語句を読み替え)

MacPhersonは、前述の論文及び同年に発表した分類業務の phiIosophy に関する論文のなかで、カテゴリ編集者と調べもの案内人との密接な協力の必要性を説くとともに、カテゴリや分類については、実際にその業務を担当したカテゴリ編集者等の担当者が、項目がどのように作られ排列されているか、分類記号はどのように与えられているか、をもっともよく識っているのであるから、カテゴリ検索の利用者に助言する最適任者は、カテゴリ編集者である。このため、常時(交代ででも)カテゴリ編集者を1人カテゴリ室に配置することが望ましい、と述べている。

岩淵 (1972)より(一部語句を読み替え)

カテゴリ編集者は皆、カタロガー(目録者)としての矜持を持って事に当たるべきであろうと思う。

カテゴリはウィキペディアの「今」を映す鏡

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カテゴリは時間の経過とともに含まれる項目がガラリと入れ替わることがある。筆者の調べによると、ウィキペディア日本語版に現存する最古のカテゴリページはCategory:学校で、2004年6月25日に作成されたと記録にある。この間、学校カテゴリは、多種多様な学校記事および関連記事を受け入れ、そして見送ってきた。残念ながら、その歴史的変遷を完全な形で遡及的に追跡することは技術的制約があって困難なのだが、その時々のウィキペディア日本語版の学校記事の「今」を映し出してきたことは間違いない。カテゴリは記事の所蔵状況を映す鏡といえる。

逆にいえば、カテゴリは時々の「今」を映すことしかできない。カテゴリの過去の内容・状態を見られる手段は用意されていないし、将来あるべき状態を「今」案じても仕方がない。無論、将来性のない過剰なカテゴリの作成は控えるべきだし、カテゴリの定義文や所属した親カテゴリの変遷を記録したページ履歴は場合によっては保全されるべきだが、肝心の実質的な内容に関して、カテゴリの本質は常に「現在」の姿にある。「今」に集中することだ。

クワイ=ガン: Don't center on your anxieties, Obi-Wan. Keep your concentration here and now, where it belongs.
不安から目をそらすのだ、オビ=ワン。我々がいる今ここに、意識を集中させろ。
     オビ=ワン: But Master Yoda said I should be mindful of the future.
しかし、マスター・ヨーダは未来に心を留めるべきだと言っていました。
クワイ=ガン: But not at the expense of the moment. Be mindful of the living Force, young Padawan.
だが、この瞬間をおろそかにしてはならん。リビング・フォースに集中するのだ、若きパダワンよ。

英語版ウィキペディアでは、使われていないカテゴリ(空のカテゴリ)は基本的に無用のものとして即時削除の対象となる。中身が空でも、再使用の時期が何時になるか未定でも、その不確定性を認識していても、とりあえず判断を先送りして、未使用のカテゴリとして取っておこうとする、日本語版のような非合理的なカテゴリ管理法はとっていない[注釈 1]

OPACを主とする現代の図書目録がそうであるように、ウィキペディアの記事目録(カテゴリ)も閲覧者の実用に資するものでなければ意味がない。

以上の理由から、カテゴリは「現在」の姿を常に最善の状態に保つことが永続的な発展に重要であるといえ、記事同様、継続的な手入れが欠かせない。これを促進するために2023年の夏に設置されたのが、プロジェクト:カテゴリ関連/議論である。

件名検索の本領発揮

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Wikipedia:カテゴリの方針初版以来、「カテゴリは第一義として、「分類」を示すものである。」と規定されてきたせいもあって、「テーマ」を指向しているカテゴリ(旧「キーワード」を指向しているカテゴリ)は、分類体系を乱すものとして、さぞ肩身の狭い思いをしてきたことだろう。かくいう私はかつて、分類原理主義者だった。過去の事例を挙げれば、Category:山には山記事のみが含まれているべきであると主張して、同カテゴリから山記事以外の関連記事を強引に排除しようとしたこともあった(議事録: プロジェクト‐ノート:山#「Category:山」系統の再編提案)。

当時、私は柒月例祭氏がどこかで述べた「タグ的な用法も是認する」との意見を、受け入れることはおろか、理解することさえできなかった。高尾山箱根山をはじめとする山記事を収めるCategory:山高山植物山火事が混じっているなど言語道断だと。だが、カテゴリの在り方を研究する中で、図書館情報学の件名目録法を知り、実際に件名検索[2]を利用する機会に巡り合えたことで、それは愚かな考えにすぎなかったことを知ることとなる。

契機となったのは、ノート:ヤギ投げ#改名提案だった。無出典の記事名「ヤギ投げ」に関する典拠調査のため、地元の県立図書館OPACで件名検索を初めて利用したところ、求めているテーマにぴったり一致する資料を、いとも簡単に見つけることができたのである。

具体的には、まずヤギ投げと同類の別の奇祭に関する本の書誌情報から件名標目「風俗・習慣」を得た後、これと同じ件名(テーマ)の本を、キーワード検索を併用して絞り込んでいく、という検索手順だった。この調べ方のノウハウは小林 (2022)に教わったものである。

実は、これと同じような調べ方は、ウィキペディアでも可能だったりする(ただし、カテゴリによる記事目録が適切に運用されている限り)。

たとえば、ゴルフと関係のある和菓子があったはずだけれども名前を思い出せないとき、通常のキーワード検索では調べにくい。試しに「ゴルフ 和菓子」で検索してみても、それらしい菓子の記事はヒットしない。そこで、「insource:ゴルフ incategory:和菓子」と検索してみると、発売当初は「ゴルフ最中」という名称だった、ホールインワン (菓子)という和菓子の記事を見つけることができた。

他の事例では、たとえば、「deepcat:江戸文化 deepcat:東京都の祭り」と検索すれば、江戸文化や東京の祭りについて明るくない人でも、該当する祭りの記事と出合うことだってできてしまう。

筆者は、分類・件名目録やカテゴリの効能は過小評価されている[注釈 2]と感じており、もっとカテゴリに関する理解を深めて、これを使い倒してほしいと思っている。カテゴリを積極的に利用する人が増えれば、その分だけ多くの人の手によって手入れが行き届き、カテゴリの品質は今よりもずっと洗練されたものになるだろうと期待しているためである。

多言語連携論

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カテゴリの多言語連携、すなわち自言語版と他言語版とのカテゴリの対応関係に関しては、原則として、多言語連携を考慮する以前に、まずは自言語の統制語彙をきちんと秩序立てて構築するべきである。なぜなら、ウィキペディアのカテゴリ名は言葉(語句)によって定義され、言葉の意味(語義)の幅は各言語・文化に依存しているからである。近代言語学の父、フェルディナン・ド・ソシュールは次のように指摘している(山口 2018より引用)。

フランス語の『羊』(mouton)は英語の『羊』(sheep)と語義はだいたい同じである。しかしこの語の持っている意味の幅は違う。理由の一つは、調理して食卓に供された羊肉のことを英語では『羊肉』(mutton)と言ってsheepとは言わないからである。sheepとmoutonは意味の幅が違う。(略)もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。しかし現実はそうではない。 — フェルディナン・ド・ソシュール、翻訳引用元:内田樹著『寝ながら学べる構造主義』

つまり、相互に言語間リンクで結ばれてはいるものの、fr:Catégorie:Moutonen:Category:Sheep(そしてja:カテゴリ:羊)の「」が表す範囲は、それぞれ微妙に違っている。名辞(カテゴリ名)の表す範囲が違っているということは当然、各々のカテゴリに分類されているメンバーの構成も違っているはずである。この問題は「羊」の例に限らない。

フランス語と英語の比較では日本語版の利用者はピンとこないと思うので、よりわかりやすい日本語と英語の比較で説明しよう。

日本語の「」は英語でいう“bay”と“gulf”を区別しない。ゆえに、英語版では別々のCategory:Bays of the Pacific OceanCategory:Gulfs of the Pacific Oceanに収められている記事「東京湾 (Tokyo Bay」と「カリフォルニア湾 (Gulf of California」が、日本語版では同じカテゴリ:太平洋の湾に収められている。反対に、英語版にはCategory:BaysCategory:Gulfsは存在するが、日本語版のカテゴリ:湾に一対一で対応するカテゴリは存在しない。

したがって、同等のカテゴリが存在する場合には便宜のために対応づけることが望ましいが、厳密に合致するわけではないので、自言語のカテゴリ体系の構築に優先してまで多言語対応を考慮する必要はないといえよう。

さらに、目録学においては、項目(記事ページ)の数が多ければ、それで一つの分類(カテゴリ)を作り、少なければ、どこか他のところ(中分類や大分類)に押し込んでおくのが、現実的な目録分類の基本である(橋本 2011:69)。つまり、多言語版で項目数が充実しているカテゴリだからといって、必ずしもそれが日本語版で必要とされている状況であるとは限らない。

記事の内容と多様性が各言語版に特有のものであるように、カテゴリの内容と多様性もまた各言語版特有のものである。真に多様性ある国際化は、各々の言語・文化を互いに認め合い、尊重し合うことによって初めて実現されるものであると信ずるところである。

脚注

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注釈

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  1. ^ 本稿執筆時点で、Category:未使用のカテゴリには、直近10年分の未使用のカテゴリ、件数にして数千件以上が「一時預かり」されている。日本の警察の遺失物法に基づく落とし物の保管期間でさえ、3か月と比較的短いにもかかわらず。
  2. ^ 特に件名に対する図書館界の誤解から普及が遅れた[3]日本語圏において。

出典

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  1. ^ 岩淵 1972, p. 27.
  2. ^ 杉山 (2014年1月7日). “図書館の検索画面にある「件名」のひみつに迫る”. blog.calil.jp. カーリル. 2023年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月28日閲覧。
  3. ^ 小林 2022.

参考文献

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  • 岩淵泰郎「目録に関する若干の考察」(PDF)『大学図書館研究』第1巻、国公私立大学図書館協力委員会、1972年12月、27-29頁、doi:10.20722/jcul.444 
  • 小林昌樹「見たことも、聞いたこともない本を見つけるワザ」『調べる技術―国会図書館秘伝のレファレンス・チップス』皓星社、2022年12月、59-73頁。ISBN 978-4-7744-0776-0https://www.libro-koseisha.co.jp/webcolumn/reference_tips03/2024年2月26日閲覧 
  • 橋本秀美 著「初心者向け四部分類解説」、東京大学東洋文化研究所図書室 編『はじめての漢籍』汲古書院、2011年5月、57-83頁。ISBN 978-4-7629-2899-4 
  • 山口周シニフィアンとシニフィエ―言葉の豊かさは思考の豊かさに直結する」『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』KADOKAWA、2018年5月、316-322頁。ISBN 978-4-04-602391-9https://president.jp/articles/-/765352024年2月26日閲覧 

関連項目

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