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利用者:EULE/火薬陰謀事件メモ/トマス・パーシー

en:Thomas Percy (Gunpowder Plot) 02:26, 8 February 2021‎ / トマス・パーシー

Thomas Percy
Drawing
Engraving of Percy
生誕 c. 1560
死没 8 November 1605 (aged 44–45)
Holbeche House, Staffordshire
死因 Gunshot wound
職業 Constable of Alnwick Castle
刑罰 Decapitation
配偶者 Martha Wright
  • Edward Percy
  • Elizabeth Waterton
動機 Conspiracy to assassinate King James VI & I and members of the Houses of Parliament
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トマス・パーシー(Thomas Percy、1560年 - 1605年11月8日)は、イングランド史において、プロテスタントイングランド国王ジェームズ1世を暗殺し、カトリックの君主に挿げ替えようとした1605年の過激派カトリック教徒らによる火薬陰謀事件の主要メンバーの一人。

その前半生は不明な部分が多いが、パーシー家はノーサンバランド伯爵家の分家筋であり、当代で、後に仕えることになる第9代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは当時の有力貴族で宮廷でも著名な人物であった。いつからパーシーが熱心なカトリック教徒になったかは不明だが1589年には教皇派であった可能性もある。ケンブリッジ大学ピーターハウス英語版を卒業し、1591年には後の火薬陰謀事件の同志となるライト兄弟の妹であるマーサ・ライトと結婚した。その後、ノーサンバランド伯に重用されて同家の北部領地の代官に任命され、1600年から1601年にかけてはイングランドによるオランダ独立戦争(八十年戦争)の支援のため、伯爵と共に低地地方(ネーデルラント)にも派遣された。さらにはスコットランド王時代のジェームズ1世(ジェームズ6世)との密使も担っており、ジェームズがイングランド王に即位すればカトリックに寛容的な政策をとってくれると周りに吹聴していた。火薬陰謀事件のメンバーたちが、1601年のエセックス伯の反乱英語版に加担していたり、熱心なカトリック教徒として当局から警戒されていたのと対照的に、パーシーの社会的地位と信用は高かった。

1603年にイングランド王としてジェームズ1世が即位すると、多くのカトリック教徒たちはカトリックへの寛容政策を期待していたが、次第に失望に変わった。その一人である過激派のロバート・ケイツビー貴族院ウェストミンスター宮殿)で行われる議会開会式にて、議場を大量の火薬をもって爆破し、ジェームズ及び政府要人らをまとめて暗殺した上で、同時にミッドランズ地方英語版で民衆叛乱を起こし、カトリックの傀儡君主を立てることを計画した。 パーシーはケイツビーの友人であり、同様にジェームズに失望したことを彼に明かしていたために計画に誘われた。1604年5月の最初の打ち合わせに参加するなど、初期から関わっていた5人の主要メンバーの一人となった。 当初荒唐無稽な計画は暗礁に乗り上げていたが、1604年6月にノーサンバランド伯の命令でパーシーが国王の親衛隊の一員になったことで計画は一気に動き出した。まったく疑われぬ理由でウェストミンスター宮殿近くに拠点を構え、さらにガイ・フォークスを自らの使用人「ジョン・ジョンソン」として偽装し、貴族院地下に大量の火薬を運び入れていった。

しかし、陰謀を密告する匿名の手紙に基づき、イングランド当局は計画決行日の前日である1605年11月4日の深夜にウェストミンスター宮殿の捜索を行い、貴族院の地下室にて、大量の火薬とそれを管理していたフォークスを発見し、計画は露見した。 ロンドンにいたパーシーは、フォークスがパーシーの使用人を名乗っていたことですぐに当局の手が回るも、逮捕のニュースを聞いて即座に街を脱出していたことで難を逃れた。その後、ミッドランズに向かっていたケイツビーらに合流し、同地で最後の抵抗を試みようとした仲間たちと行動を共にした。 11月8日の早朝に、滞在していたスタッフォードシャーホルベッチ・ハウス英語版を、ウスターの州長官率いる200人の部隊に襲撃され、その戦闘の中でパーシーはケイツビーらと共に射殺された。 その遺体は一度は埋葬されるが、後にケイツビーの遺体と共に掘り起こされ、大逆罪の罪人として斬首されて、議会の外に晒し首にされた。また、ノーサンバランド伯は計画への関与を疑われたが、パーシーの死によって身の潔白を証明することも、あるいは当局が犯罪を立証する手段も失われたため、ロンドン塔に長期収監されることとなった。

前半生

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Thomas Percy was the younger of two sons born to Edward Percy of Beverley and his wife Elizabeth (née Waterton).[1] His father was a son of Jocelyn/Josceline Percy (died 1532), whose father was Henry Percy, 4th Earl of Northumberland.[2] Thomas was the great-grandson of Henry Percy, 4th Earl of Northumberland, and the second cousin once removed of the 4th Earl's descendant, Henry Percy, 9th Earl of Northumberland.[3][4]

トマス・パーシーはビバリーのエドワード・パーシーとその妻エリザベス(旧姓ウォータートン)との間に生まれた2人兄弟の弟である。父エドワードは第4代ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーの息子ジョセリン(1532年没)の息子であり、すなわち、トマスは第4代ノーサンバーランド伯の曾孫にあたり、当時の当主・第9代ノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーの遠縁であった。

He was born around 1560 and matriculated at the University of Cambridge as a member of Peterhouse in 1579.[5][6] Little is known of his early life. He may have been a papist before he was at some point received into the Catholic Church, and he may have sailed with George Clifford, 3rd Earl of Cumberland, in 1589.[7] In 1591 he married Martha Wright, daughter of Ursula Wright (a convicted recusant) and sister to Christopher and John Wright (both later involved in the Gunpowder Plot).[8] Claims by several authors that Percy may have left Martha "mean and poor" for an unidentified woman in Warwickshire are disputed,[nb 1] but the two were at least estranged: in 1605 Martha and her daughter were living on an annuity funded by the Catholic William Parker, 4th Baron Monteagle.[9][3] Thomas and Martha's son, Robert, married Emma Mead at Wiveliscombe in Somerset on 22 October 1615.[5]

トマスの生い立ちについてはほとんど知られていない。彼は1560年頃に生まれ、1579年にピーターハウスの一員としてケンブリッジ大学に入学した。カトリック教会に正式に加入する前から教皇派(ペイピスト、papist)であった可能性があり、1589年には第3代カンバーランド伯爵ジョージ・クリフォードと一緒に航海している。 1591年には無神論者アーシュラ・ライトの娘マーサと結婚した。マーサの2人の兄、クリストファーとジョンのライト兄弟とは後の火薬陰謀事件で関わることとなる。 ただ、夫婦仲は悪く、少なくとも結婚後に別居状態となっており、この理由としてトマスがウォリックシャーの正体不明の女のために「卑しく貧しい」妻を捨てたという逸話があるが、この説に反対する者もいる。マーサとその娘は1605年には、カトリック教徒であった第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカーから年金を支給され、暮らしていた。 トマスとマーサの息子ロバートは1615年10月22日にサマセットのウィベリスクームでエマ・ミードと結婚した。

I understand by this bearer, my servant Meyricke of your willing disposition to favour Thomas Percy, a near kinsman to my brother of Northumberland, who is in trouble for some offence imputed unto him. I pray you to continue the same, that thereby his life may not be in hazard. He is a gentleman well descended and of good parts, and very able to do his country good service; you shall do a thing very acceptable to us both and not disagreeable with equity, which we will upon all occasions deserve of you.
Letter from Robert Devereux, 2nd Earl of Essex, to Mr Justice Beaumont, February 1596[10]

Despite not being a close relative, in 1595 the 9th Earl of Northumberland made Thomas responsible for collecting rents from his northern estates, and the following year appointed him constable of Alnwick Castle.[3][11] Thomas exercised his authority in a manner which gave some cause for complaint, not least from an officer he replaced,[12] and contemporary reports of his dealings with the earl's tenants include claims of mismanagement and bribery.[nb 2] During a border skirmish he killed James Burne, a Scot, for which he was imprisoned at a London gaol, but his release was secured by the intervention of Robert Devereux, 2nd Earl of Essex. Thomas subsequently aided Essex in a conspiracy against the Scottish warden of the middle marches,[5] although unlike several others who later joined the Gunpowder Plot, he was not a member of the earl's failed rebellion of 1601.

近親者ではないにもかかわらず、1595年に第9代ノーサンバーランド伯から北部領地の地代徴収を行う代官に任命され、翌年にはアルンウィック城(Alnwick Castle)の城守にも任命された。トマスの職権行使には、特に彼の後任者からの批判があり、伯爵領の借地人との取引に関する当時の報告書には、管理ミスや贈収賄の告発が含まれていた。国境での小競り合いの際には、スコットランド人のジェームズ・バーンを殺害した罪で、ロンドンの監獄に投獄されるも、第2代エセックス伯爵ロバート・デヴァルーの計らいで釈放されている。その後、トマスはエセックス伯に協力して、スコットランドとの境界地の監視官に対する陰謀に加担したが、一方で後の火薬陰謀事件の同志たちの多くが関わった1601年のエセックス伯の反乱には関与しなかった。

Percy was a tall, physically impressive man, "of serious expression but with an attractive manner".[14] He has been variously described as belligerent and eccentric, with "surges of wild energy subsiding into sloth".[15] The Jesuit priest Father John Gerard wrote that in his youth Percy had "been very wild more than ordinary, and much given to fighting",[16] while the Jesuit Oswald Tesimond thought he had been "rather wild and given to the gay life, a man who relied much on his sword and personal courage."[17] According to both men, Percy's conversion to Catholicism was a calming influence, but biographer Mark Nicholls, who calls Percy "a pugnacious character", says that this was only true to a point.[5]

パーシーの人物像について、彼は背が高く、身体つきから印象的な男であり、「顔つきは 生真面目だが、立ち振る舞いは魅力的であった」という。彼は好戦的でエキセントリックな性格であり、「野性的なエネルギーに溢れるが、やがて無気力に陥る」と様々に表現されている。 イエズス会のジョン・ジェラード神父は、彼の若い頃について「普通の人より気が荒く、よく喧嘩に明け暮れていた」と書き、オズワルド・テシモンド神父は「荒くれて奔放な生活を送っていたというよりは、剣と個人的な勇気に頼ることが多かった」とみていた。 そして両神父は、パーシーがカトリックに改宗したことで心を落ち着かせることができたと記すが、伝記作家のマーク・ニコルズは、これは部分的にしか当てはまらず、パーシーを「喧嘩っ早い性格」と評している。

His excesses did not prevent him from joining Northumberland during his command in the Low Countries, held from 1600–1601, for which he was rewarded with £200. The earl also appointed Percy his receiver of rents in Cumberland and Northumberland, in 1603.[5][12] Henry Percy was considered a supporter of the Catholic cause, and on several occasions before 1603, suspecting that Queen Elizabeth I did not have long to live, he entrusted Thomas with the delivery of secret correspondence to and from her probable successor, King James VI of Scotland. Northumberland's uncle had been executed for his involvement in the Rising of the North, a plot to replace Elizabeth with James's mother, Mary, Queen of Scots. He planned to make up for his family's disgrace by building a strong relationship with James, but also wished to counter the influence of Robert Cecil, 1st Earl of Salisbury, whose father (it was rumoured) James believed had been responsible for Mary's death.[18][19]

1600年から1601年にかけてノーサンバーランド伯が低地地方で軍事の指揮を執ると、パーシーも合流し、200ポンドの報酬を得た。また1603年には伯爵からカンバーランドとノーサンバーランドにおける地代の集金人に任命されている。 ノーサンバーランド伯はカトリックの支援者と考えられており、1603年以前にも何度かエリザベス女王の命が長くないと踏んで、次期王位継承者と目されるスコットランド王ジェームズ6世(後のイングランド国王ジェームズ1世)と秘密裏に連絡を取り合い、その密使にパーシーを任せていた。伯爵の叔父(第7代ノーサンバーランド伯爵トマス・パーシー)は、かつてジェームズの母であるスコットランド女王メアリーを担ごうとした「北部諸侯の乱」に関与して処刑された過去があった。伯爵は予めジェームズとの強い関係を築くことで、かつての一族の不名誉を挽回すると同時に、メアリーの死に責任があるとジェームズが信じていた(と噂されていた)ウィリアム・セシルの息子である国王秘書長官ロバート・セシルの影響力に対抗したい思惑もあった。

Exactly what assurances James gave Percy are unknown. Tesimond wrote that he made "very generous promises to favour Catholics actively", and "he would admit them to every kind of honour and office",[17] but the consensus among historians is that what promises James did make were oral, rather than written. Fraser posits that the Scottish king probably intended to allow Catholics to worship privately, which if true was a much more reserved view than that subsequently announced by Percy, who told his fellow Catholics that the king had promised to protect their religion. Considering the "quaintness" of James's spoken English there may have been some misunderstanding on both sides.[20] In his surviving correspondence with Northumberland, the king writes only that neither would "quiet" Catholics be disturbed, nor would those that deserved recognition "through their good service" be overlooked. This mixing of signals was to have lasting consequences.[21][22]

このような経緯でイングランド王即位前のジェームズと直接やり取りできたパーシーは、未来の王とカトリック政策の見直しを約束したと仲間内に吹聴していた。この保証の内容は正確にはわからない。テシモンドは、ジェームズが「カトリック教徒を積極的に優遇するという非常に寛大な約束」をし、「あらゆる種類の名誉の授与や役職の任命を認めるだろう」と記したが、この約束が書面ではなく口約束であったことは歴史家の間で広く共有され定説となっている。フレイザーは、スコットランド王はおそらく、カトリック教徒が個人的にミサを行うことは認めるつもりだったのではないかと推測しているが、これが正しいとすると、パーシーがカトリックの仲間たちに「王は我らの宗教を守る約束をした」と明かしたレベルよりも、遥かに後退している。ジェームズが話す英語の「古風さ(quaintness)」によって双方にいくつかの誤解が生まれた可能性がある。 現在に残る、ジェームズとノーサンバランド伯との書簡の中では「静かな」カトリック教徒の邪魔しないように、また「良き奉仕を行い」顕彰すべきカトリック教徒を見落とさないようにする、とだけ書いてある。このやり取りの齟齬は後々まで影響をもたらすことになった。

火薬陰謀事件

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Alnwick Castle by Canaletto, c. 1760

1603年にカトリックを弾圧したエリザベス女王が亡くなり、ジェームズ1世がイングランド国王に即位した。彼自身はプロテスタントであったものの、彼の母であるスコットランド女王メアリーはカトリックの殉教者と見なされていたため、イングランド国内のカトリック教徒の多くは彼がカトリックへの寛容政策をとるのではないかと期待していた。実際に即位直後は寛容的な態度を見せたものの、妻アンにローマ教皇から密かにロザリオが贈られたことなどが発覚し、1604年2月にはカトリック司祭の国外退去命令が出されたり、国教忌避者に対する罰金の徴収が再開された。これによりカトリック教徒たちは国王に大いに失望した。

計画の始動

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Percy became the fifth member of the Gunpowder plot on Sunday 20 May 1604. Almost a year earlier, he had called at Robert Catesby's home at Ashby St Ledgers, and complained bitterly about James, who since succeeding Elizabeth had done little to fulfil his expectations.[nb 3][24] He had threatened to kill the new king with his own hands, but was asked by Catesby to restrain himself, and told "I am thinking of a most sure way and I will soon let thee know what it is."[25] Thus Percy found himself at the Duck and Drake inn near the Strand in London, along with Catesby and his cousin Thomas Wintour, John Wright and Guy Fawkes.[26] His first words at the meeting were "Shall we always, gentlemen, talk and never do anything?"[23] All five later swore an oath of secrecy on a prayer book, and then celebrated Mass in another room with Father Gerard, who was ignorant of their pact.[23]

ジェームズが即位して間もない1603年6月頃。パーシーは友人でカトリック教徒のロバート・ケイツビーのアシュビー・セント・レジャーズにある邸宅を訪れ、彼にジェームズが自分との約束を果たそうとしていないと強い不満を訴え、さらには自らの手で暗殺も辞さない態度も見せた。これにケイツビーは「いやいや、トム。君が小さな目的のために危険を冒すようなことはないと思うが、もし反逆者になろうとするならば何か大きな利益を見出すべきだ」と返し、さらに「俺はもっと確実な方法を考えているから、すぐに君に知らせる」と続けた。 その後、ケイツビーは1604年2月頃に友人のトマス・ウィンターやジョン・ライトをランベスの自宅に招いて議会開会式を狙って、大量の爆薬で貴族院を爆破し、ジェームズら政府要人たちをまとめて暗殺する計画を打ち明けた。そして準備のためスペインに支援を求めて大陸に渡ったウィンターは火薬の扱いに長けた軍人ガイ・フォークスを連れて帰国した。その数週間後に、パーシーにも計画が打ち明けられた。

1604年5月20日、ロンドンのストランド近くにある宿屋「ダック・アンド・ドレイク」にて、最初の会合が開かれ、パーシーは5人目の仲間としてこの打ち合わせに参加した。彼の最初の言葉は「紳士諸君、我々はいつも話してばかりで何も行動を起こしはしないのか?」であった。 外部から隔離された個室において、5人は祈祷書に秘密の誓いを立てた。偶然だが、ケイツビーの友人で、陰謀を知らないジョン・ジェラード神父が別室でミサを行っており、その後、5人は聖体を拝領した。

While the plotters did not then have a detailed plan, Percy's appointment on 9 June as a Gentleman Pensioner gave him a reason to establish a London base. Through Northumberland's agents, Dudley Carleton and John Hippesley, he subleased a house in Westminster from Henry Ferrers, a tenant of John Whynniard, and installed Fawkes there as his servant, "John Johnson".[5][27][28] On 25 March 1605 Percy also obtained the lease for the undercroft directly underneath the first-floor House of Lords. It was into this room that the plotters moved 36 barrels of gunpowder from Catesby's lodgings on the opposite side of the River Thames.[29] The plan was that during the State Opening of Parliament, at which the king and his ministers would be present, the plotters would blow up the House of Lords, killing all those within it. James's daughter, Princess Elizabeth, would be captured during a Midlands uprising, and installed as a titular queen.[30]

この時点では計画は何ら具体性のあるものではなかった。6月9日、パーシーはノーサンバーランド伯より、50人からなる国王の近衛隊ジェントルマン・アット・アームス(Honourable Corps of Gentlemen at Arms)に任命された。このことは、パーシーがロンドンに拠点を持つこと、すなわち怪しまれずに一味のアジトを作れる理由となり、ジョン・ホワイニアードの借地人ヘンリー・フェラーズが所有する、プリンス・チェンバー(Prince's Chamber)にも近い、ウェストミンスターの小さな物件を借り受けることになった。パーシーはノーサンバーランドの代理人であるダドリー・カールトンとジョン・ヒッピスリーを通してこの家の使用人を手配し、さらに自身の使用人「ジョン・ジョンソン」としてフォークスを配置させた。 疫病(ペスト)の流行により議会は延期されることが公布され、計画の実行予定日は当初よりも遅くなったが、1605年3月25日にはウェストミンスター宮殿1階の貴族院の真下に位置する地下室の借地権を得ることができた。仲間たちはテムズ川の対岸にあるランベスのケイツビーの物件より火薬樽36樽をこの地下室へと運び入れ、定期的にフォークスが管理することとなった。 7月に入って議会開会は再度延期されることや、36樽の火薬が腐っていることが発覚して追加の火薬樽を運び入れるなどのアクシデントにも見舞われたが、再延期日の11月5日が計画の決行日と決まった。当日は国王と大臣が出席する議会開会式において、貴族院を爆破して出席者を皆殺しにし、同時にミッドランズ地方で反乱を起こして、9歳になるジェームズの娘エリザベス王女を確保、彼女をカトリックの傀儡君主とするものであった。

Percy spent that Autumn collecting Northumberland's rents,[5] while Catesby continued to enlist support. By October 1605, he had 12 Catholic men assigned to his cause and was at work on the remaining details.[nb 4] Several conspirators expressed disquiet over the safety of fellow Catholics who might be caught in the planned explosion.[32] Percy's concern was for his patron, Northumberland, who it seems might have been made Lord Protector if the plot had succeeded. Lord Monteagle's name was also mentioned, by a worried Francis Tresham. The fate of Elizabeth's brother, Prince Henry, was uncertain; although the plotters presumed that he would die with his father, they decided that if he did not attend Parliament, Percy should kidnap him.[33][34]

度重なる議会の延期と、それに伴う計画の遅延は、計画資金の枯渇を招き、パーシーはウェストミンスターの物件の家賃支払いに窮し、ケイツビーは新たな支援を得るために、計画予定日の前月である10月にも彼の従兄弟で資産家のフランシス・トレシャムを新たに仲間に引き入れるなどしていた。こうして一味は13人となり、当日や、それ以降のそれぞれの役割を決めるなど、計画の残りの詳細を詰めていた。 この中で、仲間内では爆発に巻き込まれる可能性がある知り合いのカトリック教徒の安否を心配する者も出てきた。特にパーシーにとっての懸念は主君のノーサンバーランド伯であり、もし計画が成功した場合には彼を摂政とする可能性もあった。また、トレシャムは義兄のモンティーグル男爵の名を挙げ、その身を心配していた。エリザベスの兄ヘンリー王子の運命も不確かであった。計画者たちは王子は父王と共に爆死すると想定していたが、もし王子が議会に出席しない場合には、パーシーが彼を誘拐する手はずになっていた。

モンティーグルの手紙

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On Saturday 26 October, at his house in Hoxton, Monteagle received an anonymous letter that warned him to stay away from Parliament.[35] Uncertain of its meaning, he delivered it to Robert Cecil, 1st Earl of Salisbury. Cecil was already aware of certain stirrings, although he did not then know the exact nature of the plot or who exactly was involved. Instead of informing the king immediately, he decided to wait and watch what happened.[36][37] Catesby's reaction to news of the letter's existence was somewhat different; he and Wintour suspected Francis Tresham was its author and the two went to confront him. Tresham managed to convince them of his innocence, all the while urging them to abandon the plot.[38]

10月26日、第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカーは、ホクストンの自宅にいる時に匿名の手紙を受け取った。そこには「この議会で彼らはひどい打撃(blow)を受けるだろうが、誰が彼らを傷つけるのかはわからないだろう」という予言と、議会出席を見合わせるべきだという警告が記されていた。 男爵は手紙の意味がわからないまま、それをすぐに国王秘書長官ロバート・セシル(初代ソールズベリー伯爵)に届け出た。セシルは手紙を受け取る前から策謀の臭いを嗅ぎ取っていたが、計画の全貌や誰が関与しているかは不明であった。このため、陰謀がどう展開していくか見定めるために、様子を見ることにしていた。また国王も、この時点で狩りのためロンドンを離れており、手紙についての報告は見送られた。 一方、モンティーグルの使用人には一味と親しい者がおり、そこからケイツビーも手紙の存在を知った。すぐにケイツビーはトレシャムを疑い、トマス・ウィンターと共に彼を詰問し、「お前を吊るしてやる」とも脅した。しかし、トレシャムは手紙の差出人は自分ではないと弁明して納得させ、さらに翌日には計画の放棄を勧めた。

Percy reacted to the news by declaring that he was ready to "abide the uttermost trial". He may have visited the infant Prince Charles on 1 November, indicating perhaps that some rearrangement of the plan was being considered. The deposition of a servant claimed that Percy visited the prince's lodgings and "made many enquiries as to the way into his chamber", although the statement came too late for Percy to comment on it.[39]

ケイツビーはパーシーが北部から戻るのを待ってから決断を下した。 彼は手紙の中身が不明瞭すぎて計画を脅かす恐れはないと判断し、このまま計画を進めるというものであった。パーシーは11月1日に幼いチャールズ王子の下を訪問しており、これはおそらく計画の修正が検討されていた可能性を示している。使用人の証言によれば、彼は王子の部屋への行き方を何度も尋ねたという。11月3日、パーシー、ケイツビー、ウィンターの3人は最後の打ち合わせを行い、パーシーは仲間たちに「極限の試練に耐えろ」と述べた。その後、ケイツビーらミッドランズで反乱を起こす役割の仲間たちは北部へと向かった。

Percy visited Northumberland at Syon House, west of London, on 4 November. Fraser suggests that his visit was a "fishing expedition", to find out what, if anything, Northumberland had heard about the letter. This "expedition" later proved disastrous for the earl, who claimed that there was nothing treasonable about their conversation, and that Percy had merely asked him "whether he would command any service" before leaving. Percy then went to another of Northumberland's properties, Essex House in London, and spoke with his nephew, Josceline. Later that evening he met with Wintour, John Wright and Robert Keyes, and assured them that all was well. He then travelled to his lodgings along Gray's Inn Road, where he left orders for his horses to be made ready for an early departure the next morning.[40]

11月4日、パーシーはロンドンの西に位置するサイオン・ハウスにいたノーサンバーランド伯を訪ねた。この訪問について、フレイザーは、モンティーグルの手紙について伯爵が何か聞いていないか確認するための思惑があったとしている。ただ、この訪問は後に伯爵にとって悲惨な結果を招くこととなった。後の伯爵の弁明によれば、この時の会話に反逆を匂わすようなものはなく、パーシーが帰る間際に「何か任務はあるか」と尋ねてきただけであったという。 その後、パーシーは伯爵の別の所有物件であるロンドンのエセックス・ハウスを訪ね、甥のジョセリンと会話した。その日の深夜、ロンドンに残っていたウィンター、ジョン・ライト、ロバート・キーズと会い、すべては順調に進んでいると伝えた。それからグレイズ・イン・ロード沿いの宿舎に移動し、翌朝の早い出発に備えて馬の準備をするように指示を出した。

計画の露見と死

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A monochrome engraving of eight men, in 17th-century dress. All have beards, and appear to be engaged in discussion
A contemporary engraving of eight of the thirteen conspirators, by Crispijn van de Passe. Percy is fourth from the right.

By then, the king knew about the letter.[nb 5] James felt that it hinted at "some strategem of fire and powder",[41] perhaps an explosion exceeding in violence the one that killed his father, Lord Darnley, in 1567.[42][43] The following day, the Privy Council told him that they had decided to undertake a search of Parliament, "both above and below".[44] The first, headed by Thomas Howard, 1st Earl of Suffolk, was made on 4 November. In the undercroft beneath the House of Lords he noticed a tall man who appeared to be a servant, and a large pile of faggots—far too large to serve the small house Percy had subleased from Henry Ferrers. The house's owner, John Whynniard, told the search party that its tenancy was held by Percy. Monteagle, present during the search, immediately told Suffolk that he suspected Percy was the letter's author. The king ordered a second, more thorough search to be made, and at about midnight, Fawkes was discovered guarding the gunpowder, and was immediately arrested.[45]

11月1日金曜日、ロンドンに帰ってきたジェームズにモンティーグルの手紙が渡された。読んだジェームズは「blow」という言葉に着目し、父ダーンリー卿が1567年に爆殺されたのと同じ規模の「火や火薬を使った何らかの策謀」を暗示しているのではないかと察した。 翌日、枢密院のメンバーがホワイトホールで国王に謁見し、1週間前にセシルが伝えた情報に基づいて、月曜日に侍従長で初代サフォーク伯爵トマス・ハワードが議会の「天井も床下も」捜索を行うことを伝えた。 11月4日月曜日、サフォークが先頭に立ち、モンティーグル、ジョン・ホワイニアードと共に議場周辺の探索を行った。すると貴族院地下室にて使用人と思われる背の高い男とヘンリー・フェラーズの小さな物件で消費するには不自然に大量の薪を発見した。地下室の所有者であるホワイニアードは借り主がパーシーであることを捜索隊に伝え、さらにモンティーグルは手紙の差出人としてパーシーを疑っていたことを明かした。ただし、この時は火薬は発見されることはなく、おそらくフォークスと思われる使用人が連行されて事情聴取されるに留まった。 報告を受けたジェームズは、カトリックの活動家として知られていたパーシーの名前が出てきたことで更なる疑念が引き起こされ、より徹底した探索を行うことを命令した。その日の深夜、トマス・カイベット率いる探索隊が問題の地下室を訪れた。そこでマントと帽子を身にまとい、拍車のついたブーツを履いたフォークス(逮捕時の名乗りはジョン・ジョンソン)と共に、積み上げられた薪や石炭の下から36本もの火薬樽を発見した。フォークスは即座に逮捕され、王の下へ連行された。

As Fawkes identified himself as John Johnson, servant to Thomas Percy, it was Percy's name which appeared on the government's first arrest warrant. It described him as a "tall, florid man, with a broad beard—'the head more white then the beard'—and stooping shoulders, being also 'long footed, small legged'".[5] The celebrated astrologer Simon Forman was employed to divine his whereabouts, a rider was sent to look for him in northern England,[46] and a search was made of Essex House. All of this was in vain, however, as Percy had been warned of Fawkes's capture and had fled for the Midlands with Christopher Wright, telling a servant as he went, "I am undone." The two men met Catesby and the others (who had left for the Midlands uprising) and continued on to Dunchurch, at one point throwing their cloaks off to increase their speed.[47] A relative of Lieutenant of the Tower of London William Waad encountered Percy leaving London, which led to Waad writing the following letter to Salisbury on 5 November:

フォークスは、パーシーに仕えるジョン・ジョンソンと名乗っていたため、政府の最初の逮捕状に載った名前はトマス・パーシーであった。逮捕状には「背が高く、華奢な男で、広い顎鬚を生やし(髪は顎鬚より白い)、猫背で靴は大きいが、脚は小さい」と特徴が記されていた。 有名な占星術師サイモン・フォアマンが彼の居場所を占うために雇われ、北イングランドで彼を探すための騎馬が派遣され、エセックス・ハウスの捜索も行われた。 しかし、こうした初動は無駄に終わった。パーシーはジョン・ジョンソン逮捕のニュースがロンドンに流れてすぐにクリストファー・ライトと共に街から逃亡し、仲間のいるミッドランズ地方に向かっていた。2人はケイツビーらと合流しており、一時は外套を脱ぎ捨て速度を上げたという。 ロンドン塔の補佐官であるウィリアム・ワッドは、親戚がロンドンから逃亡するパーシーに遭遇したことを聞き、11月5日の内にセシルに急いで以下の手紙を書いた。

私の従兄弟であるエドワード・ヨーク卿が、最近北部よりやってきたのですが、今日の午後に私を訪ねてきて、今回の巨大な陰謀に関する幸運な発見の話でして、彼の話によればトマス・パーシーを見かけたと言うんです、捜している一党は変装して北部に向かっていたと


――至急、ロンドン塔より[48]

Accompanied by some of his fellow conspirators, Percy's flight ended at about 10:00 pm on 7 November, at Holbeche House on the Staffordshire county boundary. He was unharmed by a gunpowder accident that injured Catesby and a few of the others, but those who remained resolved to wait for the arrival of government forces, who were only hours behind. Thus at 11:00 am the following morning the house was besieged by the Sheriff of Worcester, Richard Walsh, and his company of 200 men. In the ensuing firefight, Thomas Percy and Catesby were reportedly killed by the same musket ball, fired by a John Streete of Worcester.[49] News of the battle soon reached London, rendering superfluous a government proclamation made on the same day and which offered a rich reward for his capture.[50] The survivors were taken into custody and the dead buried near Holbeche, but on the orders of the Earl of Northampton, the bodies of Percy and Catesby were exhumed[51] and their heads displayed on spikes at "the side of the Parliament House".[52][53]

パーシーほか、ロンドンを脱した仲間たちが合流する中で、この時点でケイツビーはまだミッドランズでの反乱を諦めていなかった。エリザベス確保の役割を担っていた「狩猟隊」率いるエバラード・ディグビーが待つダンチャーチへと向かい、彼らには計画は成功し、国王とセシルは死んだと嘘を伝えた。その後、11月6日にはウォリック城を襲って物資を奪い、翌7日にはヘウェル・グランジにあるウィンザー卿の空き家で武器や弾薬、資金を手に入れた。しかし未だ彼らが期待していた大規模な反乱の目論見は、地元民の反応によって打ち砕かれた。彼らは、反乱者たちの「神と国」のためという意見に対し、「神と国だけではなくジェームズ王も支持している」と答え、反乱を支持しなかった。イエズス会の要人ヘンリー・ガーネット神父に送った協力要請の手紙も無視された。

パーシーの逃亡劇はスタフォードシャーの州境にあったホルベッシュ・ハウスで終わった。一味は11月7日の午後10時頃、疲労困憊の中、この邸宅へとやってきた。湿った火薬を乾かそうと火の前に広げたところ、これに引火し、パーシーは無傷であったが、ケイツビーら数名が負傷した。仲間の何人かは夜の内に逃亡したが、パーシーを含め、ケイツビー、トマス・ウィンター、ライト兄弟ら何名かはこの場所に留まることを決めた。 11月8日の午前11時頃、ウスターシャーの州長官リチャード・ウォルシュ率いる200人の部隊がホルベッシュ・ハウスを包囲し、襲撃した。最初に負傷したのはウィンターで、中庭を横切ったところを肩に銃撃を受けた。続けてライト兄弟が負傷し(のち死亡)、パーシーは射殺された。逸話によれば、ウスターのジョン・ストリートが発射したマスケット銃の1発(ラッキーショット)でパーシーはケイツビーと共に仕留められたという。 この戦いのニュースは同日中にロンドンで発表され、彼らの逮捕に与えられる多額の懸賞金は無効となった。 生き残った者は逮捕され、死者はホルベッシュ近くに埋葬された。しかし、その後にノーサンプトン伯爵の命令によってパーシーとケイツビーの遺体は掘りこされて斬首され、その頭部は議会堂の脇に晒された。

With Thomas dead, there was nobody who could either implicate or clear Henry Percy of any involvement in the plot. His failure to ensure that Thomas took the Oath of Supremacy upon his appointment as a Gentleman Pensioner,[54] and their meeting on 4 November, constituted damning evidence,[55] and the Privy Council also suspected that had the plot succeeded, he would have been Princess Elizabeth's protector. With insufficient evidence to convict him he was charged with contempt, fined £30,000 and stripped of all public offices. He remained in the Tower until 1621.[56]

パーシーの死によって最大の影響を受けたのがノーサンバーランド伯であった。伯爵が陰謀に関わっていたとしても、あるいは無関係であったとしても、それらを証明できる者は誰もいなかった。伯爵はパーシーを近衛隊に任命した時に至上権承認の宣誓の確認を怠ったこと、計画前日の11月4日に2人で会っていたことが決定的な証拠として扱われ、枢密院は、もし陰謀が成功した場合にはエリザベスの摂政に就くことが決まっていたのではないかと疑った。しかし、一方で伯爵を有罪とするに十分な証拠もなかった。結局、彼は国王蔑視罪で起訴され、3万ポンドの罰金とすべての公職からの追放された上、1621年までロンドン塔に収監されることとなった。

脚注

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注釈

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  1. ^ Author Paul Durst questions the reliability of contemporary reports on this matter, in Intended treason: what really happened in the Gunpowder Plot, South Brunswick, New York, London: A S Barnes, (1971), ISBN 0-498-07830-2 
  2. ^ One such report claims "...there was a bell carryed out of Warkworth castle and sold by Sir John Ladyman, Mr. Percye's deputie, to a Scottishman for £10, and a token sent by Mr. Percye to one Henrye Finch to carrye the bell to the Scottishman's ship at Almouth." Another says "John Wilkinson of Over Busdon says that Mr. Percy had £30 for his farmhold, being but 18s. of ancient rent, besides £4 he gave to Sir John Ladyman and Gabriel Ogle for procuring the bargain at Mr. Percy’s hands."[13]
  3. ^ Percy's brother-in-law was John Wright, a personal friend of Catesby's. Percy's daughter by Martha may have been betrothed that year to Catesby's eight-year-old son, creating a family connection between the two men.[23]
  4. ^ Some of the plotters were invited to meet Catesby by letter, sent sometimes by Percy.[31]
  5. ^ The king was shown the letter on Friday 1 November.

出典

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  1. ^ De Fonblanque 1887, p. 252
  2. ^ Burke's Peerage & Baronetage. – 106th Ed. – Crans: Burke's Peerage Ltd., 1999. – ISBN 2-940085-02-1. – P. 2120.
  3. ^ a b c Sharpe 2005, p. 33
  4. ^ Fraser 2005, p. 48
  5. ^ a b c d e f g h Nicholls, Mark (2008), “Percy, Thomas (1560–1605)”, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, hosted at oxforddnb.com, doi:10.1093/ref:odnb/21957, http://www.oxforddnb.com/view/article/21957 13 October 2010閲覧。  (Paid subscription required要購読契約)
  6. ^ "Percye, Thomas (PRCY579T)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  7. ^ Nicholls 1991, p. 102
  8. ^ Nicholls, Mark (2008), “Wright, John (bap. 1568, d. 1605)”, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, hosted at oxforddnb.com, doi:10.1093/ref:odnb/30036, http://www.oxforddnb.com/view/article/30036 14 October 2010閲覧。  (Paid subscription required要購読契約)
  9. ^ Fraser 2005, p. 49
  10. ^ De Fonblanque 1887, pp. 252–253
  11. ^ Fraser 2005, p. 48
  12. ^ a b Nicholls 1991, p. 103
  13. ^ De Fonblanque 1887a, p. 590
  14. ^ Tesimond 1973, p. 61
  15. ^ Haynes 2005, p. 44
  16. ^ Gerard 1871, p. 57
  17. ^ a b Tesimond 1973, p. 58
  18. ^ Sharpe 2005, p. 34
  19. ^ Fraser 2005, pp. 47–50
  20. ^ Haynes 2005, p. 45
  21. ^ Fraser 2005, pp. 51–52
  22. ^ Nicholls 1991, p. 98
  23. ^ a b c Fraser 2005, p. 120
  24. ^ De Fonblanque 1887, p. 254
  25. ^ Haynes 2005, pp. 49–50
  26. ^ Fraser 2005, p. 117
  27. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 52
  28. ^ Fraser 2005, pp. 122–123
  29. ^ Fraser 2005, pp. 144–146
  30. ^ Haynes, Alan (5 November 2009), The Enduring Memory of the Gunpowder Plot, bbc.co.uk, http://www.bbc.co.uk/history/british/civil_war_revolution/gunpowder_haynes_01.shtml 14 October 2010閲覧。 
  31. ^ Haynes 2005, p. 57
  32. ^ Northcote Parkinson 1976, pp. 62–63
  33. ^ Haynes 2005, p. 82
  34. ^ Fraser 2005, p. 140
  35. ^ Fraser 2005, p. 179
  36. ^ Haynes 2005, p. 89
  37. ^ Fraser 2005, pp. 187–189
  38. ^ Fraser 2005, pp. 180–182
  39. ^ Fraser 2005, pp. 197–198
  40. ^ Fraser 2005, pp. 199–200
  41. ^ Northcote Parkinson 1976, p. 70
  42. ^ Haynes 2005, p. 90
  43. ^ Fraser 2005, pp. 193–194
  44. ^ Fraser 2005, p. 197
  45. ^ Fraser 2005, pp. 201–203
  46. ^ Nicholls 1991, p. 11
  47. ^ Fraser 2005, pp. 203, 208, 204–205
  48. ^ Bengsten 2005, p. 58
  49. ^ Fraser 2005, pp. 218–225
  50. ^ Nicholls 1991, p. 21
  51. ^ Dixon 2009, p. 190
  52. ^ Haynes 2005, p. 104
  53. ^ Fraser 2005, p. 235
  54. ^ Fraser 2005, p. 123
  55. ^ Haynes 2005, p. 93
  56. ^ Nicholls, Mark (2004), “Percy, Henry, ninth earl of Northumberland (1564–1632)”, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, doi:10.1093/ref:odnb/21939, http://www.oxforddnb.com/view/article/21939 16 November 2009閲覧。  (Paid subscription required要購読契約)

参考文献

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