利用者:Eddal/sandbox

[解説 1]

三十人の志士の写真
(左から)ボ・レヤ英語版、ボ・セキャ (Bo Setkya)、ボ・テザ (Bo Teza・アウンサン)

三十人の志士 (英語:Thirty Comrades) (ビルマ語: ရဲဘော်သုံးကျိပ်)とは、大東亜戦争時の日本占領下のビルマ英語版にてビルマのイギリスからの独立を支持した南機関の機関長である鈴木敬司大佐によって集結された30人の青年たちの事を指す。日本軍によって訓練されたこの部隊からは後に「ビルマ建国の父」と呼ばれたアウンサンが輩出された。

背景[編集]

反英感情[編集]

イギリスは間接統治を行いビルマを英領インド副総督に統治させる事によって反英感情を薄めようとしていた。然し当時世界有数のの産地であったビルマに商才に長けたインド人が大量に流入し主産業である農業の多くの職を彼らに掌握されたが故、ビルマ人の生活は困窮し不満が募った[1]

三十人の志士結成[編集]

20世紀初頭、 日露戦争に於ける日本の勝利を機にアジア全体で民族自決の気運が高まっていた。1941年4月、ビルマ人青年の少数集団がイギリスと戦い独立を勝ち取る為の準備をしていた。そこで我らビルマ人連盟の書記長であったアウンサンは、海利号 (ハイリー号)で中国服姿で廈門へ向かい中国共産党に武器援助を要請しようとしたが失敗した[注釈 1][2]。その後タキン党のタキン コドオ・マイン英語版からアウンサンの写真を受け取った新聞記者を装って南益代としてビルマに入国した鈴木大佐は部下を中国に派遣し至急アウンサンを保護した。彼を含むビルマ人青年ら30人を選出し4回に分けて彼らを日本へ輸送した。彼らの内の7人、ボ・ミンアウン、ボ・ミンガウン、コウ・タンティン (ボ・ミャンディン)、コウ・シュエ (ボ・チョオゾオ)、コウ・ティンエイ (ボ・ポウンミン)、コウ・アウンテイン (ボ・イェトゥッ)、コウ・トゥンシュエは三十人志士第二グループに所属していて、彼らは密かに恵昭丸に乗船させられビルマ国外へ脱出し、日本経由で日本領海南島に集結させられた (1941年6月)[3][4][5]

日本での滞在[編集]

1941年4月13日午前11時、ボ・ミンアウンの第二グループを乗せた恵昭丸はヤンゴンを出港し日本へ向かった。三十人の志士第二グループの7人は船内で日本人船員に手厚くもてなされた[注釈 2][6]。 日本に着いた7人は第一、第三、第四グループ計21人と合流し、箱根にある南機関の隊員、日高震作の知り合いの岩崎与八郎の建てた別荘に暫く滞在し東京横浜京都大阪奈良名古屋富士山等名所を遊覧し日本旅行を楽しんだ。[7]滞在先の別荘で、7人は岩崎与八郎の姪である弘子 (20)と英子 (18)姉妹の世話になり、時が経つにつれ28人の青年は英子と弘子の二人の虜となりアウンサンは英子に次の様なラブレターを書いた。

愛しい英子さん 私は遙か海を隔てた遠い異国から日本へやって参りました。貴女を愛しく思う気持ちをどうしても打ち消すことが出来ません。この私のことを、どうかお待ち頂けないでしょうか? 面田紋次[注釈 3][8]

尤も、アウンサンは女性との付き合いが苦手でありこの手紙は英子の元には届かなかった[8]

海南島での過酷な訓練[編集]

箱根で休養をとった28人の青年らは海南島に向かい、日本軍のスパイ養成機関、陸軍中野学校出身の教官から海南島海岸50km奥地にある三亞特別農民訓練所で軍事訓練を受けた[注釈 4][4]。基本動作や戦闘動作、采配、兵器の操作・修理・処理等の基礎訓練が施され、国内擾乱諜報活動、軍隊の統制など幅広い分野の訓練を受けた班もあった[4]。通常2年掛けて訓練するのだが国際情勢を鑑みるに彼らに残された時間はたったの3ヶ月だけであることが分かり、朝5時の「キショウウ・・・起きろ!」の掛け声から始まり夜は24時迄急ピッチで訓練が行われ、言うまでもなく休日もなかった[4][9]。3ヶ月という短い期間、況してや彼らが戦闘の素人であった[注釈 5]この事を考慮するとこの訓練は非常に過酷な物であったに違いない。また、日緬の食文化 [注釈 6]習慣 [注釈 7]が違うが故、教官とビルマ人青年らは屡々衝突した。然し、これらの問題はアウンサンによる慰めや日本兵教官らが青年らの心情やビルマの習慣を理解・尊重する事で解決し、これを契機に日本兵教官らとビルマ人青年らの間には非常に強い絆が生じていった[10]。 3ヶ月間過酷な訓練を終えた30人のビルマ人青年らは安全の為大日本帝国軍と台湾に移動しその後直ぐさまヴェトナムタイを経由してビルマに帰還し、鈴木大佐を司令官、アウンサンを副司令官としたビルマ独立義勇軍 を結成した[11][10]

ビルマ独立義勇軍[編集]

1941年12月26日、バンコクにある拠点で30人の青年らのうち25人は注射器で彼らの腕の血を抜きそれを銀のボウルに入れその血を飲み合った。これはトゥエイ・ソーク (thway thauk)と呼ばれ当時のビルマ軍の伝統であり、彼ら自身とビルマの独立に対する "永遠の忠誠心エターナルロイヤルティ (eternal loyalty)"を表す物であった[12]。また青年らの平均年齢はたったの24 歳であった[13][14]。 ビルマ独立義勇軍はバンコクで募集された200人の戦士と日本兵74人、30人の志士のうち27人[注釈 8]、合計301人で構成された小規模な軍隊であったが、1942年1月初旬の日本軍のビルマ進撃を発端にビルマ独立義勇軍の志願兵が急速に増加し2月になると5000人まで膨れ上がった[15]。この様子を「日本時代のビルマ」という著書はこう描写している。

三十人志士率いるビルマ独立義勇軍と共に日本軍がやってきたのを、あらゆる町、あらゆる村で歓呼のうちに迎えた。食べ物、飲み物を差し出して歓待し、何であれ必要な援助は惜しみなく与えた[15]

当時ビルマにはアラウンパヤー朝最後の王子が雷帝サンダーボルトコマンダーとなり白馬に跨がり東方から現れイギリスを打倒するという民間伝承があり、そこで鈴木大佐は自らを「ボ・モウジョウ(Bo Mogyo),ビルマ語で雷帝の意味」と名乗り王冠とビルマの民族衣装を纏い、白馬に乗ってイギリス軍を打倒し、インドへ押し返した。この事にビルマ人は深く欣喜雀躍し、彼と30人の志士を沿道にて土下座をして迎えた[注釈 9][3][14][15][16]。こうして、日本軍と日本軍の支援を受けた三十人の志士率いるビルマ独立義勇軍によってビルマは大英帝国からの厳しい植民地支配から解放された[16]

三十人の志士[編集]

以下三十人の志士のメンバーを紹介する。出典は以下の参考文献より引用した[11] [17]

隊員 偽名 実名 日本名 説明
1. ボ・テーザ (Bo Teza) タキン アウンサン 面田紋次 三十人の志士の中で最年長でリーダー、ビルマ共産党 (CPB)の創立者である[18]タキン コドオ・マイン英語版によって鈴木大佐の元に派遣された。ボギョク・アウンサン (Bogyoke Aung San)とも呼ばれていたアウンサンはビルマ国民軍を引き連れて日本軍に抵抗し、共同で反ファシスト人民自由連盟を創立する前である1944年に戦争大臣となった。彼は1947年7月19日に32歳の若さで暗殺され、惜しくも1948年1月4日のビルマ独立の日を見ぬままこの世を去った[11][14] (殉教者の日英語版を参考)
2. Thakin Tun Oke Thakin Tun Oke Senior Leader, a leader of the "Ba Sein – Tun Oke faction" (Socialists) of the Dobama Asi-ayone who remained in Japan and never underwent military training in Hainan[11]
3. ボ・レ・ヤ タキン フラ・ペイ(Thakin Hla Pe) 谷清 Senior Leader, founder member of the CPB, became Commander in Chief of the Burma Defence Army (BDA) under Gen. Aung San as War Minister during the Japanese Occupation in 1944, signed the Let Ya-Freeman Defence Agreement in 1947 as an annex to the main Nu-Attlee Treaty, served in Thakin Nu's AFPFL government as deputy prime minister till 1952, arrested after the breakdown of the 1963 peace parley, rejoined U Nu and his insurgent Parliamentary Democracy Party (PDP) in 1969, killed in action by the Karen National Union (KNU) on 29 November 1978[14]
4. ボ・セッチャー (Bo Setkya) タキン アウンタン 平田正雄 Senior Leader, "Ba Sein – Tun Oke faction", joined the Socilaist Party and served in the AFPFL government, went underground after Ne Win's 1962 coup d'état, died shortly before U Nu arrived in Thailand to form the PDP[14]
5. ボ・ゼヤ (Bo Zeya) タキン フラマウン (Thakin Hla Maung) 加賀正 Senior Leader, a Dobama student who became a Socialist leader of the Army rebellion in 1948, returned from China for the 1963 peace parley between Ne Win's Revolutionary Council government and various insurgent groups as head of the CPB delegation, killed in action on 16 April 1968[14]
6. ボ・ネウィン (Bo Ne Win) タキン ジュウマン (Thakin Shu Maung) 高杉晋 Senior Leader, "Ba Sein – Tun Oke faction", became Commander in Chief of the Tatmadaw in 1949 following the Karen rebellion and removal of Gen. Smith Dun, took over from U Nu as caretaker government after the AFPFL split and escalating insurgency problem in 1958, staged a coup in 1962 and became military dictator of Burma[11][14]
7. ボ・リンヨン (Bo Yan Naing) タキン トゥンシュエ (Thakin Tun Shein) 内海進 Leader, a Dobama student, hero of the Battle of Shwedaung in 1942, joined Thakin Nu's insurgent Parliamentary Democracy Party in 1969, returned to Rangoon after the 1980 amnesty[14][19]
8. Bo La Yaung Thakin Ba Gyan Leader, led the white-band PVO (People's Volunteer Organisation – Aung San's militia formed after disbanding the BNA) or Yèbaw Hpyu underground in 1948, surrendered in 1958, appointed an official in the Trade Ministry by Ne Win's Burma Socialist Programme Party (BSPP) government[14]
9. Bo Hmu Aung Thakin San Hlaing Leader, led the yellow-band PVO (Yèbaw Wa), served as Defence Minister in U Nu's AFPFL government, attempted a pre-emptive putsch with Bo Min Gaung and arrested after the 1962 coup, released in 1967, joined U Nu's insurgent PDP in Thailand, returned to Rangoon after the 1980 amnesty, formed with U Nu the League for Democracy and Peace (LDP) during the 8888 Uprising[14]
10. Bo Yan Aung Thakin Hla Myaing Leader, the third Communist member of the group and leader of the 1948 Army rebellion, participated in the 1963 peace parley, killed in the CPB purge on 26 December 1967[14]
11. Bo Moe Thakin Aye Maung
12. Bo Min Gaung Thakin Saw Lwin joined the Socialist Party, served in U Nu's AFPFL government, arrested after the failed 1963 peace parley[14]
13. Bo Mya Din Thakin Than Tin "Tharrawaddy" Thakin Than Tin to distinguish from no.29 Bo Than Tin
14. Bo Kyaw Zaw Thakin Shwe became a leader of the CPB but decided not to join the Army rebellion in 1948, defeated the Karen National Defence Organisation (KNDO) in 1949 and drove the Kuomintang out of Burma in 1955, forced to retire from the Tatmadaw in 1957, unsuccessfully ran for parliament in 1960, peace activist with Thakin Kodaw Hmaing during the 1963 peace parley, went underground in 1976 to rejoin the CPB, exiled to Yunnan province, China in 1988[11][14]
15. Bo Ye Htut Thakin Aung Thein a Dobama student who became a Communist leader of the 1948 Army rebellion, surrendered in 1963, appointed instructor at the BSPP training school, arrested after the coup in 1988[14]
16. Bo Lin Yone Thakin Tun Shwe
17. Bo Hpone Myint Thakin Tin Aye
18. Bo Myint Aung Thakin Soe not the Red Flag Communist leader of the same name, beset with drink problem and shot himself in 1945[11]
19. Bo Tauk Htain Thakin San Mya arrested in 1963 after the failed peace parley[14]
20. Bo Taya Thakin Khin Maung Oo became a big game hunter and writer of his exploits
21. Bo Zinyaw Thakin Than Nyunt a Dobama student
22. Bo Nyana Thakin Maung Maung a Dobama student
23. Bo Bala Thakin Tun Lwin arrested in 1963 after the failed peace parley[14]
24. Bo Min Yaung Thakin Hla a Dobama student
25. Bo Myint Swe Thakin Tun Khin "Ba Sein – Tun Oke faction"
26. Bo Saw Aung Thakin Ngwe "Ba Sein – Tun Oke faction" – Died in battle in 1942 in eastern Burma
27. Bo Saw Naung Thakin Thit "Ba Sein – Tun Oke faction"
28. Bo Moe Nyo Thakin Kyaw Sein "Ba Sein – Tun Oke faction"
29. Bo Than Tin Thakin Than Tin "Ba Sein – Tun Oke faction", no training in Hainan, died in Formosa[11]
30. Bo Htein Win Saung a student who was studying weaving in Japan at the time, no training in Hainan, died of malaria in Thailand[11]

注釈[編集]

  1. ^ テスト
  1. ^ 諸説あるが、当時廈門は日本領であった為中国共産党と連絡が取れなかったという。また独立の援助さえ得られれば中国共産党であろうが大日本帝国軍であろうがどちらでも良かったという。
  2. ^ 同日朝、日本人船員は7人に朝食エビ入り炒飯を提供し同日夜彼らの為に盛大な晩餐会を開いた。
  3. ^ 面田紋次とはアウンサンの日本名。面田は緬甸から取ったもので、紋次の紋はテインモン (テインマウン)のモンから取った。
  4. ^ 大東亜戦争開戦は1941年12月8日であり、1941年6月時点では大日本帝国とイギリスはまだ戦争をしていない。 その為、イギリスとの関係悪化を懸念し訓練は秘密裡に行われた。
  5. ^ イギリスは人口の多いビルマ人が将来反乱を起こす事を恐れ、彼らに軍事訓練を施さず親英の少数民族であるカレン族カチン族を植民地軍に採用した。
  6. ^ ビルマ人青年らにとって、味噌汁沢庵漬けは全く口に合わず空腹の時ですらそれらを食べることが出来なかったという。ボ・ミンガウン (Bo Min Gaung)は味噌汁を「たまらない匂いのする汁」と評価した。
  7. ^ 日本兵が他国の軍人に平手打ちをする事は間々あった。この時の平手打ちは日本兵教官らの、熱心に青年らを指導しようとする熱意であると捉えられるが、ビルマでは平手打ちは最大限の侮辱を意味する為怒りを覚える者も多かった。
  8. ^ 一人は訓練中に病死、二人は既にビルマにスパイとして潜入していた。
  9. ^ ビルマ人はこの時日本軍に非常に協力的であった。ここでは一つの逸話を紹介する。日本軍将校が川を渡河しようとした時イギリス軍から丸見えであり渡河すれば攻撃されるであろう事に気付いた。すると4人のビルマ人船頭が船を出しイギリス軍の猛攻に耐えながらも必死に船を漕ぎ日本軍将校を対岸まで届けた。4人のビルマ人船頭は全員犠牲となった。
  1. ^ アジアの人々が見た太平洋戦争 著者:小神野真弘 平成27年4月10日 第一刷発行 新灯印刷株式会社 ISBN 978-4-8013-0066-8 90頁
  2. ^ 小神野真弘 2015, p. 92.
  3. ^ a b Tetsuro Usui & Claire Debenham. “The Relationship between Japan and Burma”. Asian Human Rights Commission. 2011年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月23日閲覧。
  4. ^ a b c d 小神野真弘 2015, p. 93,94,95.
  5. ^ アウンサン将軍と三十人の志士 ボ・ミンガウン田辺寿夫中央公論社発行 1990年7月15日 印刷 ISBN 4-12-100980-0 6,7,8,32,33,34,35,36頁
  6. ^ 田辺寿夫 1990, p. 39,45,46.
  7. ^ 田辺寿夫 1990, p. 51,52.
  8. ^ a b 田辺寿夫 1990, p. 57.
  9. ^ 田辺寿夫 1990, p. 80.
  10. ^ a b 小神野真弘 2015, p. 96,97.
  11. ^ a b c d e f g h i Bogyoke Kyaw Zaw's autobiography in Burmese, CPB”. 2005年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月14日閲覧。
  12. ^ Paddock, Richard C. (2018年1月27日). “For Myanmar’s Army, Ethnic Bloodletting Is Key to Power and Riches”. The New York Times. "Its founders, known as the Thirty Comrades, established the army in 1941 with a ghoulish ceremony in Bangkok, where they drew each other’s blood with a single syringe, mixed it in a silver bowl and drank it to seal their vow of loyalty." 
  13. ^ An Enduring Legacy Written in Blood”. The Irrawaddy Mar 2005. 2006年9月3日閲覧。
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Martin Smith (1991). Burma – Insurgency and the Politics of Ethnicity. London and New Jersey: Zed Books. pp. 59,107,56,92,103,108,204,278,293,208–209,233,276,291,178,309,204 
  15. ^ a b c 小神野真弘 2015, p. 98,99.
  16. ^ a b 小神野真弘 2015, p. 100.
  17. ^ 田辺寿夫 1990, p. 179,180.
  18. ^ The Communist Party of Burma”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  19. ^ “U Yan Naing, Burmese Dissident, 71”. The New York Times. (1989年1月29日). https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=950DE2DE1139F93AA15752C0A96F948260 2006年9月10日閲覧。